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「とがったリーダーを育てる」
「とがる」人材を育てるには。マサチューセッツ工科大学(MIT)を題材として。
日本の教育において、「とがる」人材は育てられているだろうか。
突出した何かを堂々と社会に打ち出せる人はどれくらい生み出せているのだろうか。日本の教育においてそれはできていないだろう。
むしろ、「出る杭は打たれる」という言葉がピッタリなくらいに画一化されて標準化される。
そんな我々教育者には何が足りないのか。
まずは、とがりを許容する余裕だ。
余裕が必要で、余裕を生むには経済的な度量が必要なのだ。
その余裕はコミュニティの中にいる人に見せるものであり、コミュニティのトップ権力がよくない方向で強固になればなるほどその余裕は見せたがらない。
抑圧的な人間はこの余裕を、「隙」という。突かれてはならない部分だという。
しかし、そうではないのだ。この隙をどれだけ許容して余裕とするか。いかに許すか。その点を忘れてはならない。
抑圧することにいいことなど何もない。
リベラルアーツという言葉を最近よく聞く。いわゆる「教養教育」だ。しかし、そのように訳すのは違和感があるようで、「クリティカルシンキング」も「批判的思考」ではなく「きりひらく思考」と定義していた。
Be your whole self.
「ありのままのあなたで」ではなく、
「まるごとのあなたwhole self」という意味だ。
この「whole」には、複数の側面を持つ自分自身を隠す必要はないと言うニュアンスが込められている。多様性というのは社会の中の多様性ではなく、ひとりの中にある多様性のことだ。
我々にはさまざまな側面があり、それを出さないことは「とがる」ことにはつながらない。
自分の中の多様性、さまざまな側面をまず認めてやる。そこから始まるのでないだろうか。
自己を改めてから、やっと他人の多様性を理解できるはずだ。
「とがる」ためには、まず自分の中の多様性を理解しよう。
そして、教育者は「余裕」であり続けよう。決して「隙」とは捉えずに。
とがったリーダーを育てる-東工大「リベラルアーツ教育」10年の軌跡 (中公新書ラクレ, 738)