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自己紹介。

0歳 東京新宿(今でいう歌舞伎町あたり)で生まれる。新生児黄疸が重症で慈恵医科大学病院で血漿交換(というほぼ血液全部交換)を行いなんとか助かる。しかしこれによって一家は一気に極貧になり、粉ミルクも満足に買えなかったようです。
 
0歳半父方の祖母と兄に騙されて父の実家がある北海道(の田舎)に移る。

3歳半札幌に転居。

私の一番古い記憶は、夕飯どきにご飯茶碗を持っていたら突然親の夫婦喧嘩が始まり、ちゃぶ台ごとおかずが目の前から吹っ飛んで消えていったこと。
 
以降飯時に夫婦喧嘩になり、何回おかずが吹っ飛んだか、数え切れない。

小学校に入学した時はガリガリで、体に合わない服を着させられて写真を撮られたことは覚えている。そして毎日のように教室内で喧嘩していた。

理不尽な理由で父親から殴られるようになる。家の中は荒れていた(考え事をしていると後ろから殴るんだよね。あれが一番頭にくる)。

中学校入学直前に転居。全く勉強には身が入らなかった。

中学2年時に転居にて転校(元の学区に戻る)し、嫌がらせを受ける。成績は伸びず、毎晩飯時に「こんなテストの点数はバカがとる点数だ、、、etc」と父親から罵声を浴び続ける(メシの不味いことしか覚えていない)。

その後食べては吐いてを繰り返すようになり、原因不明の病気として某大病院の小児科病棟に入院。いくら検査をしても状態は変わらず吐き続け、生命を維持する限界まで体重が減少し、その時はなんとなく「このまま死ぬんだな。もういいや」と思っていた。そのうちなんとなく原因がわかり、鼻から管を入れて強制的に栄養を入れて体重を増やすことでようやく退院(その間も時々吐いて鼻から入れた管も吐いていた)。

退院後は中学に復帰したものの出席日数が足りずまさかの留年となるはずだったが、担任の裏技で卒業できることになる。しかし出席していない分の勉強ができていないことからテストでの点数が取れず、高校受験に絶望を感じたが、父親は公立高校以外受験することを許さず、精神的に追い込まれる。

その中で言うことを聞かないと殴られる日々がまだ続き、ある日父親に投げ飛ばされたところで顔を足で踏みつけられたことに自分がとうとうキレて台所から包丁を出し30分以上睨み合いとなり母親が警察に通報。警察の介入により、その場は収まったものの、以降父親に殺意を抱くようになった。

その後は「殴りたくなれば、殴れよ」が口癖になり、殴られつつも親子の間は以降無期限の冷戦に突入し、まともな会話は父親が死ぬまで成立しなくなりました(反抗期なんてものではなく、父親はただの敵であり脅威でした)。

15歳、なんとか公立高校には入ったものの、父親の文句と罵倒は続いたため、一年やるだけやって後悔なく退学するつもりで一日2時間睡眠で勉強し高校1年1学期の中間テストで学年5番となった(信じられなかった。入試の時の数学は20点台しか取っていないことはわかっていたので)。

なんとなく勉強だけが楽しくなり、その程度の成績は維持したが、家庭内DVは収まることはなく、大学受験となりたかった職業を諦める。

18歳、付き合っていた女の子のすすめもあり、学費が安いうえに奨学金がもらえる看護学校になんとか入学(入試倍率は48倍)。DVの家から逃げるには他に方法がわからなかった(ちなみに17歳の時に両親は離婚し成績は下降。母親は妻子ある人と不倫し、自分も彼女に浮気される)。

看護学校に入学し、ここで初めて男が少数派と言う経験をする。教室で着替える女子がいるため教室に入れてもらえないことが卒業まで続き、男子トイレでタバコを吸って時間潰しをする学校生活となる。

21歳、看護学校卒業後は御礼奉公という形で系列病院に就職し精神科に配属。年の離れた先輩に日々説教をくらう日々が始まった。この職場にいるときに結婚。その後退職して職を探すが、この時代男の看護師を採用する病院はほとんどなく、なんとか転居して就職(ここでは手術室で上司が仕事を一切教えない人だった)。365日ポケベルを持たされ、夜間/休日も呼び出しがあって手術に従事した。

26歳、子供ができたが妻が育児ノイローゼのようになり、妻の実家がある本州に転居。ここでも職探しに苦労した。なんとか就職した病院はオンボロもいいところの病院で、手術室に勤務。入職した年の暮れにあった職場の飲み会で酩酊し、主任に馬乗りにされ往復ビンタを数十発くらう(いまだに何故?という思いはありますが、、、)。

28歳、病院に医師がチームで招かれ、心臓カテーテル検査やカテーテル治療の立ち上げに関わる。年間1000件以上の心臓カテーテル検査や治療に従事し総計約5000件以上に従事し、これ以上は危険だと言われるまでの放射線量を浴びていた(月の残業時間は60時間越え)。

その後新しく作る心臓血管外科の立ち上げとして携わり、普通の総合病院で行う10年分の心臓手術を1年でこなす異常なペースで行いつつ新人を3ヶ月で独り立ちさせるようになる。昼夜問わず心臓手術に携わり、総計で心臓手術1000件以上に従事(手術室にいた時は、まともに寝た日は数えるほどだと思います)。

33歳、そのままキャリアを積みたかったが、突然外来に異動。女社会でただのコマとして働くしかないとやっと気づくが、転職には至らず(看護師1人と医療事務1人で外来患者70〜120人/日の日が続く)。

35歳、昇進して手術室に戻る(看護師長)が人間関係が最悪でモチベーションが低下、医療事故の頻発により死者が続出し(もう少しで記者会見に出るところであった)院内の内紛にも巻き込まれたことで嫌気がさし退職。

43歳、自分の誕生日に東日本大震災を経験する(日勤勤務中)。約1週間停電したので地震の地域の惨状をテレビで見たのは、かなり後でした。ガソリンを給油するためにスタンドに徹夜で並んだとこもありました。友人のご家族をたくさん失いました。

45歳、徐々に夫婦関係が悪化し離婚(主に子供の進路や仕事への価値観の相違、経済的問題など)。今まで住んだことのない都市に転居し転職。この時に幼馴染の従姉妹から数秘術を軽く教えられ、妙に納得し、これは唯一信じられる占い(というより統計学なのだと)と考えるようになり勉強を始める。

50歳、職場に対して不本意ながらもひたすら我慢の日々が続き、異動とともに昇格するが上司に毎週3時間、別室に監禁され人格否定の日々を過ごす。上司が職場の人間関係を分断するので職場の雰囲気は悪化し、スタッフからは突き上げを喰らう日々を送る。毎日アルコール摂取で気を紛らわすようになる。

53歳、ひとつ前の部署に戻してもらうが、不眠から鬱になり降職を申し出る。この辺りで養育費の支払いが終了した。この時期に父親が死に(やっと脅威がいなくなった)、さまざま死後の精算に2年を費やす。

さらに腰椎椎間板ヘルニアを発症し、右下肢に痺れが残る(セカンドオピニオンでも手術適応はなし)。また両方の五十肩の痛みが2年以上続き、寝返りを打つたびに激痛で目を覚ます日々となった。

フルタイムで今までのように働けないと思う中で、noteを知り文章を書き始める。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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