学校で学んだのはラテン語と、うそをつくことだけだった〜ヘッセ 『車輪の下で』
ヘルマン・ヘッセといえば『車輪の下』。
でもそれは世界的にみると特殊なことのようで、たとえばドイツ本国と比べると日本での同書の売上は10倍(1972年〜82年の10年間の比較)だとか。
読むとわかるけれど、本書には随所に教育制度や学校に対する(学校や教師だけにとどまらず、社会機構もふくめて)批判がみられる。
これはヘッセみずからの体験からくるものでもあり、それだけに痛切に説得力をもって訴えかけてくる。
なにせ
というくらいに。
現代でいう「厨二」的な香りが若干するけれど。
ヘッセは自伝的要素の濃い作品を多々書いているそうで、そのなかでも本作はそうした色合いがとくに濃い。
実際、自分の学校体験やそのときの友人等、名前を微妙に変えつつ登場させたりもしている。
そうした自伝的要素だけにとどまらず(そもそも自伝として書くなら、自伝を書いただろうし)
だれにもおぼえのある(であろう)思春期の孤独を描きつつ、ひとりの少年の破滅にいたる道をとおして、成長していく生命に対するおとなたち、周囲、環境(社会)の無理解を告発している。
すくいのないストーリーではあるのだけれど、それですませてしまうにはあまりにもったいない、豊穣さをたたえた名作(享受できるその豊かさは、けっして甘かったり美味だったりだけではないのだけれど)。
あらためて、こうして長年継承されつづけている「古典」作品の魅力、その息吹のとどまることを知らない生命力を感じる。
ヘッセは『シッダールタ』も(というか、さらに)すばらしい。
トーマス・マン(おなじくドイツ人)もそうだけど、なぜ彼らはかくも東洋哲学(インド仏教やバラモン教、ヒンドゥー教の哲学、神話)にここまでくわしく、そしてそれをみずからの作品にまで昇華させることができるのだろう。
そして、例によって例のごとく
作品の解説(翻訳者による)、訳者あとがきも「豊か」な(スペースをとることを好意的に認められている)光文社古典新訳文庫の版を紹介して終えるのであった。
タイトルは、『車輪の下で』となっているけれど、これもしっかりとした狙い、意図があることが、訳者あとがきも読むとわかる。
そして、それが功を奏している。