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『ボヴァリー夫人』のハードルが高いなら、短編集を読めばいいじゃない〜フローベール 『三つの物語』

フローベールといえば『ボヴァリー夫人』や『感情教育』といった長編作品で知られる作家だけれども

正直いって、まだ古典にそれほど慣れ親しんでいない読者には、かなりハードルが高い(なにより、長い)。

だったら、短編、中編を読めばいいじゃない、というのは先日の投稿とおなじロジック。

フローベールの短編集には『三つの物語』(Kindle Unlimited 読み放題対象)というすばらしい作品があるのだから。

短編集とはいえ、この『三つの物語』こそがフローベール芸術の粋を極めた傑作だとする研究者、愛読者も多いらしい。

じっさい読んでみると、たしかにとっつきにくいとか、難解で理解に苦しむとかいうことはなく(条件付きだけれど、それは後述)

わりとするする読みすすめることができる。

とくに最初の『素朴なひと』なんかは古典初心者、フローベール初心者、入門にはぴったりかもしれない。

ちなみに、この短編集にはタイトルのとおり、三つの物語がおさめられていて

・素朴なひと
・聖ジュリアン伝
・ヘロディアス

となっている。

しかし

後の作品になるほど難度が激しくあがっていく。

素朴なひと

聖ジュリアン伝

ヘロディアス

じつをいえば、初心者にも安心といいつつも『素朴なひと』にもフローベールらしい問題(これは読み手にとっての)がちりばめられている。

その「問題」(というか、彼はそれを自分の小説を芸術たらしめるために必要な技巧だとして、むしろ研鑽、磨きまくっているわけだけれど)とは

もともと言葉を徹底的に削ぎ落とすタイプの作家であるということ。

それが短編となると、さらに加速する。

ようするに「わかりやすい、くわしい、具体的な」説明、単語が削られて(省略ではない)いて、それ(の解凍)を読者にゆだねているという。

たとえば、屋根裏部屋と書けばいいのに(叙述ミステリなど、あえてそうする理由がある場合は別として)そうはせず、屋根裏部屋ってわかるかもしれない他の単語、表現をわざわざ選ぶ。

「決定的」な言葉を避けて磨き上げ、凝縮するために。

いや、フローベールさん。それ以上はもう無理。そこまでやったら(削ったら)誰もわからないよ。

っていう段階まで磨き上げて(削って、消して)やっと「完璧」とみなし、それを決定稿にするという。

これをまんま翻訳したらさらにさらにわからなく(読めなく)なるだろうに。

このあたりの事情を知ると、翻訳者には本当に頭が下がるというか、その苦労は推して知るべし。

とはいえ、フローベールの

「書く」というより「書き直している」「消している」といったほうがいいくらいの「書き直し」至上主義は、ある意味では天晴(あっぱれ)であり、それはそれで彼の最大の魅力、作風なのだろう。

わざわざ読者が言葉からイメージをふくらませることを邪魔してまで、可能な限り磨き上げ、凝縮することに賭けるっていう文章スタイルは

彼以外にはいないんじゃないだろうか。

あらためて思うんだけれど、こういう(メルヴィルやトーマス・マンなんかもそう)「再読はもちろん、何回も読み返す」ことが前提としてあって

それ、その価値を認める読者がいる(最低限必要な一定数)ってことが「古典」として生き残っていく必須の資格なのではないかな。

もちろん、本作も訳者による解説やあとがきも含めて読む、楽しむ、堪能することが大前提。

でないと、半分も楽しめないし、それ以前にまったく理解できないだろう。

ぜひ、訳者のグッジョブ、苦労もふくめて堪能したいもの。


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