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終わりのない道を一盌から
今年のはじめ、淡交社さんより『日常からはじまるサステナビリティ: 日本の風土とSDGs』を出版いただいた。出版にあたってご協力いただいた多くの方に、心から感謝したい。
第一章では、以下の方々との対談を通して日本の風土に根付くサステナビリティを探り、第二章では「仏教とみる、私たちのウェルビーイング」をテーマに綴った。
<対談させていただいたみなさま>
- 山本昌仁さん(株式会社たねや)
〈noteでのシェア「私とあなたとは、絆がありますでしょ」〉
- 大原千鶴さん(料理研究家)
〈noteでのシェア「毎日を、無理なく、機嫌よく」〉
- 渋澤健さん(実業家、シブサワ・アンド・カンパニー株式会社)
- 鞍田崇さん(哲学者)
〈 noteでのシェア「民藝という、ものと、こころと」 〉
- 朝倉圭一さん(民藝店「やわい屋」)
〈 noteでのシェア「民藝という、ものと、こころと」 〉
- 伊住公一朗さん(茶人、株式会社淡交社)
対談させていただいた方々は、それぞれの尊い道を歩まれている。自身を含むこの世の豊かさや幸せを問い、社会のあり方を探る道は等しくも、辿る道や歩き方、目にする風景は異なるだろう。どれもが一つの解であり、唯一の正解はなく、どの道も過去と未来と、すべての暮らしに繋がっている。
今回は、本書の出版社『淡交社』の代表取締役社長、伊住公一朗さんとの対談の様子を紹介したい。
本書は、SDGsに繋がる茶の湯の世界を掘り下げたいという、淡交社社員の方々の想いから生まれている。私自身は日頃から茶道を嗜む身ではないものの、茶の湯は仏教を発祥とする代表的な文化の一つでもあり、ありがたくも出版のご縁をいただいた。淡交社の本社のある京都市北区は、私の暮らしている場所からもほど近く、ローカルなご縁はとりわけ嬉しい。何より、「淡交社」という社名がとても素敵だ。"淡い交わり" ーー「淡さ」というのが、なんともいい。
伊住社長(以下、伊住さん):
「「SNSを通じて見知らぬ人と交流することも多い反面、実際の人と人との交わりは希薄になって、些細なすれ違いから分断や諍いが生じやすい時代です。かといって、関係性は濃ければいいというものでもありませんから、ちょうどよい淡さというのは、一番難しいところです」
淡交社の社名の由来は、「淡きよきこと水の如し」という『荘子』の言葉にあるそうだ。淡きを「きよき」と読むようだが、「何にでもなれる」ということだろう。ちょうどいいところを探り続ける、仏教が示す中道に通じている。右でも左でもない、極端を排した程よいところと言えば、答えを求める人にとっては歯切れが悪く、説くには易し。実践は、大変に難しい。茶室は、人と人がひとときを共にする場所。その淡い交わりにおいて、どのような心構えが大切にされているのだろう。
「おもてなし」は心地よさ
伊住さん:
「千利休の言葉は様々ありますが、数ある教えの根底では常に「当たり前を実践しなさい」ということを仰っています。時間や空間の流れの中で、相手のことや周りの環境、そして自らへの心がけと手当てを重ねてはじめて成せるもてなしがあるということですね。
私の祖父(裏千家十五代 鵬雲斎大宗匠)は、今の日本人は「おもてなし」を履き違えていると常々申しております。本当のおもてなしとは、相手が喜ぶように至れり尽くせりすることではなく、持ちあわせているもので何ができるかを考えて行うことが基本にある、というのです。へりくだってフルコースを提供することを良しとする傾向がありますけれども、しつらえひとつをとっても、本来の目的は相手の方が肩肘張らず、リラックスしていただけるようにすることです。最近は、「おもてなし」という言葉ばかりが先行しているようにも感じます。海外から来賓をお迎えしたり、こちらから外国に赴いて茶の湯をご案内する時は、「これが日本の文化なんだ」と押し売りするような提示にならないように心掛けています」
もてなしているーーそんな意図から離れたところにきっと、「おもてなし」はある。政治学者の中島岳志さんは、「利他」をめぐる論考のなかで、贈り物を表す「Gift(ギフト)」の語源にはゲルマン語の「毒」という意味があることに触れ、そのあやうさについて語られている。贈り物も、渡す人の利己的な意図が伴えば、ともすると相手に返済の義務を負わせ、支配することになりかねない。確かに、いただくものも過剰になると、申し訳なさや負担感から、距離を取りたくなるも健全な感覚ではないか。その人が本当に何を望むかはわからないなか、相手を大切に思えばこそ、信頼し、その感受性と本人の選択にお任せしたい。そのための余白があって初めて、そこに生まれて巡る交流がある。仏教には「自利利他円満」という言葉があるが、自分と他者の利益が分かつことなく共に満ちている状態をいう。日常の主体を超えて共にある円満な安らぎを、茶の湯はもたらしてくれるのかもしれない。
伊住さん:
「茶の湯を初めて体験される方には、未知なる体験のなかでもほっと安らぐように、その方の親しみのあるものを添える仕掛けをいたします。「もてなす」とは心地よい状態をつくることですから、一方的に「これが楽茶碗だ」とお出ししても、初見の方であればなおのこと、その価値はなかなかわかるものではありません。お茶の魅力は、異なるものを受け容れる文化です。一見、形式ばったティーセレモニーのようでも、そこにある懐の深い世界をさりげなく感じていただけたらと、そんな風に思っています」
「相手の方をわかろうとする」姿勢にあって、「相手がわからないものを出しても成立しない」という心構えは、よきコミュニケーションそのものだろう。相手のひらかれた心とまなざしに触れ、自然とこちらもひらかれていく。その媒介に、お茶があるという。存在が尊重され、歓迎されている安心感に、心身はひらかれる。
伊住さん:
「花は野にあるように」と利休七則にもありまして、茶の湯に添えるお花は、その地にそうあるように、基本的にはその土地で手に入るものをいただきます。親しみのある一輪から話が弾むこともあるものです」
変わりながらも、守り継ぐもの
茶室は、四畳半という空間でありながら、その背景はどこまでも広がっている。国境の引かれた世界の国々がSDGsという共通概念を共有することに、茶室の姿は重なるだろうか。利休がわび茶を大成してから約500年の歴史のなかで、人々の暮らしはだいぶ変わった。時間は巻き戻せるものではなく、古きを参照し学ぶことはできても、進歩を止めて過去に戻ることはできない。そうした時、私たちは何を守っていけばいいのだろう。形式だけに囚われても心は育たず、かといって精神を受け継ごうと、心を取り上げて扱うばかりでは身にならない。人の道はやはり、繰り返される日常のなかで、「習慣」という心身を伴う行為によって成るものだろう。世界中の生活様式が加速度的に変わりゆく時代にあるが、心豊かに生きて繋いでいくために、私たちは今、どんな習慣を必要としているのだろう。
伊住さん:
「長きにわたって紡がれてきた日本的な暮らしをすることそのものが、SDGsに繋がるのだろうと。私たちは物質的な豊かさを得た反面、手放してきたものがたくさんあります。豊かな心をこそ、守っていきたいものです。時代にあわせてアップデートしながらも、守り続ける本質がお茶の世界にはあります。
例えば、道具を大切にすることでしょうか。茶道具は、様々な作法を伴う茶の湯文化を構成する大切な要素です。現代作家によるものから、数百年も前から人々によって守り継がれてきた道具までありますが、時を経るなかで生じる欠けやヒビには、金継ぎを施します。また、茶室の材料に古い木材が使われ、茶道具に茶室の古材が使われる。古きを尊び、過去の痕跡を慈しみながら、繕い、使い続ける行為のなかに新たな美を見出していくーーそうした「循環」のなかで後世へと継がれていく文化は凄いと思います。こうした世界観を、現代の人にもぜひ知っていただきたいですね。
利休は、身近なものでお茶ができることを世に知らしめましたが、それは、地産地消を薦めることでもあり、足元の土地にあるものの価値を高められた人でした。私は彼にとても現代的な感覚を感じますし、利休は、当時の価値観を打ち破られたお方だったと思います」
足元の土地にあるものを大切にするとは、由来と共に継いでいくということでもある。世界には仏教の教えを説く書物は無数にあって、土地や時代を渡りながら、多様な言語と解釈をもって記されてきた。何時、何処の何者が綴っていても、その由来を辿ればブッダの口伝、もしくは、自らと人々の救済の道をゆく菩薩の教えに行き着くだろうか。それとて、更なる由来を尋ねれば、仏教の枠を超えてゆく。詠み人知らずの和歌の美しさを、古き書物は区別することなく束ねたように、人々の心身に尊く響くものならば、作者を問わず後世に継がれていくだろう。昨今、地産地消のニーズに応じて、そのルーツを確かにするため、生産者の氏名や写真が商品に添えられていることも多い。有り難い情報に変わりないが、大事なのは情報ではなく、時を重ねて初めて存在し得る、多様な縁の恵みをいただいて生かされている、その感覚を味わうことなのかもしれない。
身近にある多様な切り口から、非日常を日常に。
伊住さん:
「子どもが生まれてから、いかに子どもにバトンを渡すかということを考えるようになりました。茶の湯の文化に入る切り口は、多様にあるんです。お菓子が好き、花の生け方を学びたい、着物を着たい、お点前をマスターしたいなど、お茶に関心をもたれる方には、人それぞれの動機があります。多様な動機から体験をいただいて、いかに茶の湯をご自身の日常へと持ち帰っていただけるかを考えています。毎朝お茶を一服点てて欲しいということはではなくて、お茶に含まれている要素を日常に取り入れていただけたらという思いです」
伊住社長はその実践の一つとして、子どもたちにお茶に親しんでもらう活動を始められたそうだ。
伊住さん:
「子どもの同級生らを集めて、茶の湯を体験してもらえる会を開きました。露地は、先が見えないようカーブを描くなどして設計されるのが基本ですが、迷路に見立てて段ボールで "露地迷路" を設置しました。子どもたちはワーワーキャーキャー言いながら、茶室へ通ずる露地をゆくわけです。茶室にはあえて一切のしつらえをせず、「何もないとどう感じる?」と問うところから始まります。「寂しい感じ」と、子どもたちは自らの感覚に気づいて、自発的に校庭などから花を摘んできて茶室に添える。ワクワクしながら「日常に近いところでこんなことができるよ」と伝えられたら嬉しいですね。空間やもの、自身のあり方、そしてその交流の仕方に関心をもってもらえたら。日常の中で出来ることはたくさんあります」
子どもたちへの試みは今も続いているそうだ。「特別なものではなく、あるものを」「非日常ではなく、日常を」と伊住社長は繰り返す。仏教も、すべての学びの前提に、日常の習慣の大切さを説いている。
仏教の学びの基本は「戒定慧(かい・じょう・え)」の三学と言われる。
・戒:戒律。生活を整え良き習慣を身につけること
・定:集中力。心を制御して平静を保つこと
・慧:智慧。究極的にさとりであり、自己と世界を正しく見ること
戒(習慣)をもって根を張り、定(平静さ)をもって幹を育て、慧(智慧)をもって実らせる。寛容さを特徴とする日本仏教には、厳しい出家仏教的な「戒」は十分に根付かなかったとも言われるが、それでもやはり、習慣は大切にされてきた。仏教が示す八の正しい道「八正道」のうち「正語」「正業」「正命」も、いかに日頃の習慣として保たれているかが問われる。正しい言葉と行い、生活という習慣があってこそ、必要な集中がもたらされ、正しく物事をみて、気づき、考える智慧が生まれるということだ。
仏教が2500年を通して繰り返しそれを説くのは、その実践が難しいからにほかなからない。人は、即効性や、わかりやすい劇的な変化を望む。地道で人知れず成す日常習慣は、置き去りにされやすい。けれど「お天道さまがみている」というように、そうした日常習慣にこそ、我がごとにしていくプロセスがある。
伊住さん:
「お茶は、元は僧侶が僧堂で行われていた日常のことでした。後に、豪華絢爛な茶の湯文化へと発展します。そうした物質的な豊かさを求める時代背景があって、利休は「わび・さび」を唱え、その価値を尊ぶ日本文化が醸成されました。その後、資本主義の到来と戦後高度経済成長のなか、豊かさの概念は、再び物質的なものへと転換した。こうした時代の遍歴を経て、現在、多くのお茶人さんがあらためて「わび・さび」を尊ぶ「わび茶」の実践をされています。時代時代で、そうした価値観の転換が繰り返されてきたのですよね」
「釜一つあれば」
伊住さん:
「利休が詠んだ道歌『利休百首』の一つに「釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚な」というものがあります。お茶というのは、究極的には釜一つあれば出来るものです。お茶は心豊かにあることで、そこに物を求める必要がないということですね。心豊かでなければ、世界的な事象に目を向けることはできませんし、自分ごとにすることも難しいかもしれません」
「何でも手に入る環境で、私たちは満足を知らない故に欲しがりますが、心のゆとりがあれば「知足安分(=足るを知る)」に居られます。利休の生きた時代は、戦乱の絶えない時代でした。明日の我が身はどうなるかわからない殺伐とした日々は、大名たちにとっても、危機迫る「非日常」の連続であったと思います。そんななか、お茶は心を鎮め、本来の自分をひらいて「日常」に戻ることのできる時間だったのではないかと」
多くのものを抱え込まずに、釜一つあればできるという余裕は、空のコップであれば何でも入るということでもあるだろう。空っぽであることを嘆き喘ぐことはなく、ひらかれていれば、いかようにもなれる。
平和を望む、終わりなき道を一盌から
伊住さん:
「一碗のお茶を頂くとき、武士といえども刀を腰から外し、頭を低くして茶室に入るー そうした心得をもって、お互いをもてなすのが茶の湯の文化です。紅茶であれ珈琲であれ、立場に依らず器を交わして、誰もが尊重される場を共にする営みは、世界共通の平和的な姿だろうと思います」
利休は、戦乱の時代にこそ、戦のない慎ましくも豊かな世界をと、生涯をかけて一盌(わん)のお茶をもって当時の社会に問いかけた。自身の内なる心から、手に取るもの、身にまとうもの、取り巻く環境そのものが、動じず清らかにあるように、あらわれる一期一会が互いを和らげ敬いあう縁であるようにと、「和敬清寂」をお茶の心得とした。社会的身分や立場のみならず、亭主と客という主体をも超えた一期一会を重んじるありようを「一座建立」と表現し、伊住社長の祖父であり、裏千家十五代家元である千玄室さんは、その心について次のように語られている。
「利休は織豊時代に、織田信長、秀吉といえども大名といえども、皆丸腰で武器は持たず に畳の上に正座させた。そしてたった一盌のお茶だけれども、自分よりも位の低い人であろうがどんな人であろうが、座ったら一緒なんです。区別、差別のないその一座なんだ。(中略)このごろ簡単に一期一会という言葉を使ってますけどね、本当は一期一会っていうのは死に物狂いなんですよ。その方に今日お茶を差し上げたら死んでもええ、その方のお茶を頂いたら今日死んでもええ、そういう客と主の出会い。賓と主の出会い、賓主互換(ひんしゅごかん)という んです」
戦乱の時代を生きた利休の没後も、日本は度重なる争いや混乱を経験してきた。世界各地を行脚し、茶の湯文化の普及にあたってこられた千玄室さんには、特攻隊の隊員でもあった若き日の戦争体験がある。時代に応じて現れ方は異なれど、傷みや苦悩を伴う終わりなき道にあってこそ、諍いの絶えない世界を前に、「今こそ「一盌からピースフルネスを」」と唱える。
「 和する、和というのは平和の和であります。しかし単なる平和の和ではありません。 peace and harmony 調和がとれなければ平和ではないんです。片一方だけの平和というのはないんです。やはり両方があってこそ初めての平和なんです。(中略)「いたわりですよ、いたわり合う。 どんな方同士でも。(中略)「いかがですか」「お先」、どんな身分 の者同士でもそこに勧めあう。勧め合ってこそ初めて同胞なんですよ。一緒なんですよ。皆一緒なんだ。一緒の座に座って一緒のものを食べて一緒の物を頂く。勧めあって分け合って いく」
隣の人に勧めあう。礼をする。そうして生まれる謙虚な気持ちから、お茶は器の正面をよけていただく。心あるシンプルな行為の連なりに、豊かな心が育まれ、境界はほどかれていくのだろう。私たちひとりひとりがそうした心にあって日々を生き、その手、その口、その身体から表れる言葉や行動が「私たちの日常」に染みわたるとき、縁は自ずと、共に平和にある「調和の和」となるだろう。
伊住さん:
「当たり前の積み重ねが平和なんです。それが一番、難しい。いつの時代も、常に世界は平和を目指してきました。それでも平和は実現されません。それでも、自分の日常で当たり前を重ねていく。「当たり前」ってなんだという話にもなりますが、問いながら重ねていくということだろうと思います」
平和を掲げるのは容易だ。歴史を振り返れば、どんな不毛な戦いさえも、「平和のための戦いである」と時代や立場に依った正義が大きな声と力をもってきた。支援や援助という利他的な行為さえ、「和」を欠くことは往々にして起こる。「調和の和」とは、意思や意図が強いほど、そこから遠のいてしまうのかもしれない。ハーモニーを奏でよう!と必死になれば、一致団結という偏りに向かうかもしれない。"調和"と名付けられた不調和は、いずれ疲弊し限界を迎えるだろう。主体を超えた心地よさが訪れるのは、野に咲く花のように、自ずから然る状態へとはこばれているさなかのこと。「自利利他円満」は、のびやかで多層的な音色でやってくる。
始まりは意図的であれ、繰り返しを経て身体に染み入り、意識せずとも果たされるようになっていく終わりのないプロセスである。特別な非日常体験が、経験を重ねるうちに「我がごと」の「日常」になっていく。これは、茶の湯の作法や心得の話でありながら、日常のあらゆる営みについて同じことが言える。炊事も掃除も畑仕事も、衣食住のすべてが仏教においては修行とされる。
どれだけ掃いても落ち葉はきりがなく、どれだけ拭き上げても埃は常に舞うように、掃除に達成はなく、終わりがない。永遠に終わりがないなら、やらなくて良いかと言えば、そういうことではない。ひと掃き、ひと拭きする度に、その時々の日常にハレがある、それでいい。ハレが持続することはなく、持続を求める必要はない。いつ何処にあっても、今ひと掃きを重ねる度に、日常にありながら、そのハレに満ちている。
伊住さん:
「いつお客様がいらしても迎え入れることができるように、常に清め整えていることが茶の湯の基本にあって、それは茶室においても、自分の心においても同様です。僧堂で行われる作務ですね。終わりなき営みです。利休は完璧を求めず、完璧にならない姿が自然であるという感性で、完全に掃き清められた庭に、あえて落ち葉を数枚残したという逸話もあります」
伊住社長の祖父、千玄室さんの声が響く。
「いたわりですよ、いたわり合う。 どんな方同士でも」
「少し先が見えてきたら、アフガンへでもどこでも出かけて、茶の湯を共にしながら静かに皆が語り合える場を 是非作りたいと思っています。茶の湯は「妙味」というものを引っぱり出せるんです。人間誰もがかぶっている ベールを脱ぎ捨てさせる―それが「妙味」。そういう場を作れたら、それが私の死に場所かな」
新潮社「週刊新潮」誌(平成14年1月3日・10日合併号)
それぞれの "一拭き、一掃き" 、それぞれの "一盌" を、続けよう。
『日常からはじまるサステナビリティー日本の風土とSDGs』
(2024 淡交社)企画鼎談より
* 書籍より一部引用のうえ、編集を加えています。
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