「サイボーグ時代」を読みながらオリィ研究所が生み出す誰もが孤独から解放される社会を願う
長年にわたり愛している企業がある。分身ロボット OriHime を提供している株式会社オリィ研究所だ。仕事柄、また趣味として数多くの企業にまつわる情報を見てきた中で、株式会社オリィ研究所は日本で最もイノベーティブな企業であり、社会の幸福度を上げている世界屈指の企業だと考えている。
私は、株式会社オリィ研究所以上に、人間の可能性を拡張している企業を知らないし、人々が孤独や不安から脱却する社会の創造に取り組んでいる企業を知らない。また、OriHime は世界中で孤独の最中にある数多くの人々、今後突然の孤独に見舞われる人々を救う、人々の救世主のような存在だと心の底から感じている。
今回の note は、そんな私が愛してやまない株式会社オリィ研究所の共同創業者・吉藤オリィ 氏(吉藤健太朗 氏)の著書「サイボーグ時代」を読んで感じたこと、私自身の過去を踏まえて考えたことを書く note である。なお、以下の書籍のリンクは広告だが、本 note は広告記事ではない。すべて私自身の長年抱いていた感情を記した記事である。
「サイボーグ時代」と自身の障害・体験を重ねて誰もが幸福になれる社会を願う
私は障害者である。およそ10年前、うつ病を患い、唐突に社会から隔離された。社会から隔離されたというのは、精神科病棟に入院することとなったといった意味ではない。社会との接点の多くが途切れ、半ば孤立したことを意味する。
うつ病の診断を突きつけられるまで、確かに体調不良を抱えながら仕事に多くの支障を来していたが、自分がうつ病になっているとは思いもしなかった。まさに青天の霹靂だった。
私は障害者福祉を担っている事業所において多くの障害者に接していたし、就職支援を担う機関で障害者を中心とした就職困難者の相談及び障害者雇用の仲介をする中で、やはり多くの障害者に接していた。
だから、自分が障害者にならないために注意していたし、そもそも自分が障害者になるとは夢にも思っていなかった。だが、訪れないと思っていた未来は、唐突に自分の身に降りかかったわけである。うつ病だと分かり、仕事を辞めざるを得なくなってからの日々は、一言で表すと悲惨だった。
「サイボーグ時代」の冒頭で語られている言葉だ。私は、この言葉の意味を身を以て理解している。うつ病になるまでの自分は、言ってしまえばコミュニケーション頼みの仕事をしていた。
何せ、それまで行っていたことと言えば、障害者雇用に関する経営者・人事担当者向けの調査であったし、東日本大震災を経て失業した多くの人々、中でも厳しい雇用環境に置かれた障害者や高齢者の相談・仲介の仕事だった。
つまり、目の前の相手の話を聴き取る仕事であり、聴き取るために丹念に話す仕事である。ところが、うつ病を患ったことで、他者とのコミュニケーションを取ることが困難になった。そもそも声を出すことさえ難しくなったのだ。家族相手でさえ、満足に会話を行えなかった。
コミュニケーション業務をする以外に何ができるでもない自分は、こうして何もできない一人の肉塊となり、当然ながら収入を得ることができなくなった。だから貧しい実家のお世話になる日々を送らざるを得なくなり、余りにも惨めで情けない自身に絶望し、何度となく死を考える状況に陥った。
自分は生き続けない方が良い。数分おきにやってくるその感情に涙しながら、それでも死ねなかったのは、強さなどではなく、単純に自身の臆病さからだった。そんな日々から脱却できたのは、間違いなくテクノロジーのお陰だ。
実家に頼らなければ生きられない日々の中で、親が一時的に働けない状態になった。ただでさえ貧しい家である。そんな状態に陥った親から生活費を工面してもらう惨めさは、相当なものだった。そのときに感じた絶望は、今思い返しても辛くなるほど大きい。
誰も頼れる者がいなくなったに等しい状態である。もはや死ぬしかない。そうすればいくらか実家は楽になる。そう思わずにいられなかった。一方で、どうせ死ぬならば、死ぬくらいならば、どれだけ苦しかろうと何かやれることはあるのでないか。そうも思った。
1円でも金を稼げれば、その分だけ実家は楽になる。そんな考えから、クラウドソーシングに手を出した。アカウントは元々持っていたが、アカウント作成時のクラウドソーシングは最初期に近く、案件がなくて放置していたのだ。
とはいえ、『1円でも金を稼げれば良い』そう考えた当時の自分にとって、クラウドソーシングを知っていたことは一筋の光明だった。「サイボーグ時代」にも書かれていた内容の引用になるが、『テクノロジーに対するリテラシー、アンテナを高めることで選択肢が増える』はまさにその通りだ。
結果から言えば、このクラウドソーシングの存在を知っていたことが、私を救った。『1円でも金を稼げば、その分だけ実家が楽になる』そう思っていた当時の自分にとって、ありとあらゆる仕事が救いだった。だから、とにかく仕事は選ばず、できそうなものは何でもやった。
当時は、比較的クラウドソーシングが活況だった頃だ。仕事をやればやるほど稼ぎが増えた。クライアントがクライアントを呼んでくれることも多く、気付けば所得も貯蓄も増えていた。実家から助けられていた自分は、実家を助ける側になっていた。
「できない」が「できる」に変わったことで、絶望的な状況が気付けば未来に対して希望を持てるほどに改善されたのである。自分語りが長くなったが、本書を読みながら、私はそうした自分の過去を重ねていた。そして、だからこそ共感できるところが多かった。
「ありがとう」を言い過ぎることが負債になるのも、減点評価から脱却する必要性も「できない」が武器になっていくことも、形や濃淡は異なるにしても、身を以て感じた日々が多くの共感を呼び起こしてくれた。気付けば涙していたほどだ。
話は若干変わるが、自分はテクノロジーによって可能になった在宅の仕事によって救われた人間である。また、長年の友人が ALS との闘病生活を送っている。だからこそ、OriHime や OriHime eye + Switch といったテクノロジーによって生み出された存在が、多くの人々を救う光景を体感として描ける。
何せ、働くこと、社会に対して何らかの寄与を果たすことで得られる喜びを諦めざるを得ないと思っていた人々が、OriHime や OriHime eye + Switch によって働くことができるようになり、社会に貢献できるようになり、その実感を得られるのだ。
かつて「できることができなくなった」ことで絶望していた自分は、その喜びが痛いほどに想像できる。また、それによって孤独から脱却できる喜びの大きさもかつての自分を重ねて深く共感できる。
在宅勤務が否定されがちな昨今だが、場所という制約から解放されることが社会に生み出す価値は、人々が想像するよりも遥かに大きい。何せ、場所の制約によって働けなかった人々が働けるようになるのだ。
また、OriHime に代表されるようなテクノロジーの進化をもたらすのも、場所という制約からの解放を想えばこそである。たとえば自動運転。完全な自動運転が達成されたならば、人々は運転席という場所の制約から解放される。
そうすれば、視力を失った人であっても、愛する家族を車に乗せてドライブに連れて行くことができるようになるかもしれない。そうしたテクノロジーの発展は、場所の制約から解放される社会を望む強い想いがなければ達成され難い。
そもそも高齢化が急速に進み、労働力が減少の一途を辿る我が国において、働く場所が制約されることは、社会環境の悪化を意味する。OriHime のようなテクノロジーを活用すれば、今家に独り閉じこもるしかなくなっている高齢者であっても、若い頃のように社会参加できるようになるのだ。
働く場所を限定し、出勤を強制する社会では、そうしたより多くの人々が社会参加できる社会を創出し得ないし、社会参加する人々の数が減っていくばかりで、社会は衰えていく一方になるだろう。学校やありとあらゆるコミュニティにも同じことが言える。
「サイボーグ時代」で書かれていることは、誰もがより生きやすくなる社会、その先にある誰もが幸福になれる社会を創るのに必要な考え方だと思う。私は、自身の経験があったからこそ強く共感できた面がある。だが、そうした経験がなくても、「サイボーグ時代」で描かれる社会の幸福度が高いのは、誰もが感じられるはずだ。
株式会社オリィ研究所は、OriHime などのソリューションプロダクト以外にも、人材紹介サービスFLEMEEといったテクノロジーを駆使した障害者雇用を生み出すサービスも提供している。これも社会をより幸福なものへと押し上げるサービスに違いない。
障害者となり、働くことに制約ができた一人の人間として、私は株式会社オリィ研究所がより発展し、多くの人々が自身の抱える障害から解放され、幸福度が高まる社会になるのを心から願っている。
以下は広告です。株式会社オリィ研究所の価値観や OriHime などのソリューションがもたらす現在、描く未来について知られます。