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行いが大事な理由 #4

 このブログの最初の投稿で、「頭と身体、その両方が自分であるということを忘れていたのかもしれない。自分ではない何者かになりたかった。」と書いた。

 この考えに至ったきっかけは、養老孟司氏の「バカの壁」(新潮新書)を読んだことだ。以下、少し引用する。



 フロイトが無意識を発見する必要があったのは、ヨーロッパが十八世紀以降、急速に 都市化していったことと密接に関係している。それまでは、普通に日常に存在していた 無意識が、どんどん見えないものになっていった。だからこそ、フロイトが、無意識を「発見」したわけです。
 もともと無意識というのは、発見されるものではなくて日常存在しているものです。

(中略)

 この寝ている時間(無意識に近い時間)というのを、今の人はおそらく人生から外して考えていると思われ ます。脳によって作られた都市に生活している、というのもその理由のひとつでしょう。 若い人のライフスタイルを見ていると顕著です。彼らが主な客層であるコンビニは二 十四時間営業。草木が眠る時間でも、コンビニだけは煌々と明かりを点し、若い人たち がたむろしている。要するに、彼らにとっては寝ている時間は存在していない時間であることの象徴です。P116-117

 意識にとっては、共有化されたものこそが、基本的には大事なものである。それに対して個性を保証していくものは、身体であるし、意識に対しての無意識といってもいい。P67




これを他の箇所を交えながら少々乱暴に要約すると、

 現代社会は、意識中心の脳社会になっていて、「私は私」と定義した途端、「私」は変わることのない情報になってしまう。個性は意識、つまり情報に宿っているわけではなく、無意識、身体にこそ宿るもの。

ということになる。 

 作家で僧侶の釈徹宗氏が、「日本人の宗教とは信じる宗教ではなく、行う宗教である」とある対談でお話しされていた。仏壇が 、神棚が、そしてお墓が、少々「めんどくさい」のはそのためだ。植物の水を変えたり、塩や米、ご飯などを定期的にお供えするようになっているのは、「行い」を促す装置としての役割が大きいからなのだ。そしてそれはめんどくさいけれど、私たちに身体性を意識させ、無意識とその先にある大いなるものとのつながりを確かなものにする。

 私が、茶道のお稽古を続けている理由、そして食べるものを作ることが好きな理由も、そこに身体があるからだと思う。繰り返す動きの中に、意識が埋没してく時間、つまり無意識と身体だけになる時間に、「私」ではない何かに身を委ねる感覚があり、それがとても気持ち良い。

 食事を作ることも食べることも、人間社会がいくら都市化したとしても、最後まで身体を使わなければ行うことはできない。美味しいものは、身体を使わなければ、なかなかありつけない。
 
 なんだかまとまらないけれど、私の中で食と祈りがひとつづきのもので、そしてまた、最も興味を惹きつけるものであり続けるのは、こういう理由で、そしてそれは、「私はそのままで良い」という癒しを与えてくれていると思う。

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