「赤毛のアン」のきっかけ
こんばんは。駄文のタイトルが思いつきません。外に出かけた日を除くと、まあそんな感じでパソコンに向き合ってます。現時点の目標としては、365日連続更新でしょうか。つぶやきを使ってもいいんだろうけど、文字数が足りなくなる。パソコンに向き合える日は向き合うようにしています。
というわけで、ここ最近は駄文を書いてから(書きながら)タイトルを決めています。中盤になってから、「今さらながらタイトルが思いついた!」みたいな感じです。みなさんどのタイミングでタイトルを決めてるのでしょう? よかったら教えていただけると嬉しいです。
それだけで字数を稼ぐのもよろしくありません。自分の中では「前フリ」のつもりだけど、このままいってしまいそう。ありのままの自分のつもりでいます。
昨日中央図書館に行って、児童書のコーナーも見ました。海外文学で見るのは「エ(ミヒャエル・エンデ)」か「ケ(エーリヒ・ケストナー)」になるのは何故でしょうか。このふたりのドイツ文学者しか知らないのもあります。誰か海外文学で、児童書にカテゴリに分類される文学者を教えてください。国は問いません。
以前、松本侑子訳の「赤毛のアン」シリーズを買ったものの、序盤から苦労しています。解説が充実していることで定評があります。ところが、文春文庫のサイトでは、「児童書」という枠ではないようなことが書かれてます。
一度にシリーズ全巻を買わなくてよかった…みたいな(涙)。母は若い頃、「赤毛のアン」を読んで感銘を受けたようで、娘の私がそれほど興味を示さないことを不思議に思ってるようでした。
そうか、これを機に「赤毛のアン」を読んでみる手もある。最初の「赤毛のアン」を積ん読にしてるので、文庫本棚から引っ張り出すことから始めよう。ただ完全訳ということもあって、アニメ作品とは別モノと捉えたほうがいいかもしれません。
「赤毛のアン」の元の題が“Anne of Green Gables”であることに驚き、翻訳者の偉大さを感じたくらいです。直訳すると「緑の切妻屋根のアン」ですよ?(そう聞いたんだけど、合ってますか?)
こう書くと、私も「赤毛のアン」と無縁な人生ではなかったようです。
児童書は子どもが主人公が多いから、登場人物たちと同じ目線になって読めるのは子どもの特権だと思う。子どもの心を失ってるんじゃないかと、ひらがなが多めの文章を読みながら反省をしてる。でも大人にもなりきれてない自分。
「赤毛のアン」のアンも、最初は10歳くらいから始まるはず。だからといって、ひとりの女性の成長を描く作品(シリーズ)だから、だんだん成長してゆくのを噛みしめて読みたいです。