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一般入試は本当に平等で公平か
私の勤務校では、そろそろ推薦型や総合型選抜の準備が始まる時期です。
この手の筆記型で無い試験に対して抵抗感のある人は多いようです。
教員の中でも賛否が別れます。
自分が努力して一般入試で大学に行った人ほど、批判的に考える傾向があるように感じます。
筆記試験が平等的に見える
それと比べると、筆記試験は一見すると極めて平等なシステムに見えます。
学力は努力をしなければ身につきませんし、実際、高難度の大学に合格している人はきちんと学習を行っています。
そして、一般入試はその日の得点で合否が決まります。
一人で受験し、合格を自分の力で勝ち取るというイメージが強いでしょう。
家が金持ちか、貧しいかによらず単純にしっかりと勉強をすれば結果に反映されるからとも言えます。
推薦型・総合型選抜の不平等さと根底にある格差
方や、推薦型選抜や総合型選抜は合否の基準が不明確な上、育った家庭環境によって有利不利がはっきりと目に見えて分かります。
留学経験や起業経験、様々なボロンティアなど保護者の経済力によって18年間で培った体験には格差が発生しやすいでしょう。
それを入試の要件として利用するということは、自分の力で得た経験だけでなく保護者の経済力による影響が出ることを許容する部分が多少なりともあるということです。
必然、この方式を増やそうとする文科省は全国の高大教員から批判の的となっている状況です。
では、疑問なのですが一般入試は本当に平等なシステムと言えるか、ということです。
東大生の親は高収入
いろいろなところで紹介される内容ですが、東大生の親の平均年収についてです。
極端な富裕層とは言わないまでも明らかに裕福な家庭で育った人の方が多いようです。
しかし、高得点を取る学力のある生徒ほど親が高収入であるという傾向が見えます。
考えれば当然です。小さい頃からの学習習慣の定着や塾通いの費用など富裕層ほど有利な勝負になるのです。
そもそも、東京やその近郊に生まれただけで有利になります。その上所得が高い家庭に生まれれば、さらにその傾向には拍車がかかります。
そう考えると、一般入試であっても一概に平等で公平であるとは言えないのではないでしょうか。
「100ドル争奪・徒競走ワークショップ」
一見すると家庭環境や保護者の收入が影響しないものであってもどれだけ有利であるかということを考える動画があります。
ここでは徒競走をワークショップで行い、100ドルの争奪戦をしよう、というところからスタートします。
誰もが横一線に並んでスタートする直前に、監督者から親の経済力や社会的地位による条件を一個ずつ挙げられ、該当する場合は一歩前に進むように指示があります。
このような指示を複数回行い、その時点で全員のスタートラインを確認させて、一見平等に見えるレースには本人の努力や行動によらない条件で差がつくことを確認させる、というものです。
だから「一般入試を減らそう」ではない
私は別に「一般入試」を減らすべきだ、とは考えていません。
ただ、推薦や総合と同じくらい一般入試も平等でも公平でも無い、ということを確認したに過ぎないのです。
推薦や総合は目に見えて家庭環境の格差などがわかりやすい入試制度です。
しかし、実は一般入試もまた同じように経済格差によって期待値が大きく変わる入試制度であると理解する必要があるように感じます。
もちろん、一般入試は逆転可能性がある、という意味においては貧しい環境の人に光を当てる制度でもあります。
ただ、それは一部の例外を取り上げているに過ぎないのです。
自分に合った制度を利用し、他者を否定しない
マクロな視点で見れば、入試制度が複数存在することで間口が広がり、受験者や入学者に多様性が生まれるのも事実です。
受験者にとって大事なことは、自分にあった試験の制度を利用することです。
そして、自分と異なる制度の受験者を否定せず、自分と異なる能力を持つ人を尊重する姿勢を持つことです。
そうした姿勢で大学生活を送る方が、視野狭窄になるよりもよっぽど人間としての成長につながるのではないでしょうか。