「解説をしたい」という教員のエゴ
授業形式の変化と学校現場の対応
「アクティブラーニング」や「主体的対話的で深い学び」といったキーワードが教育業界では流行っていますが、校種によって取り組みは大きく異なります。
学齢が低いほど、それらへの取り組みの熱意も強まるようです。
実際、小学校ではかなりの授業がディスカッション形式になっている学校もあるようです。
もちろん、授業形態による学習効果に関しては賛否があります。そもそも学力の定義によっても変化するでしょう。
ただ、入試による暗記型の試験を大量の生徒に受験させる場合、アクティブラーニング形式がマッチしないケースは考えられます。
(受験そのものや入試形式の是非は置いておくとして、現状の対策として考える)
しかし、受験対策を行う必要のない小学校においては、塾との棲み分けの観点からの思考力や発話力の強化を主体とした授業は採用しやすいのではないかと思います。
高校現場で進まぬ「アクティブラーニング形式」の普及
一方で、高校の授業においてはアクティブラーニング形式の普及はかなり遅れています。
これには2つの理由があります。
1.受験対応と学習内容が高度であるため
先ほどに挙げた受験対応がその理由の一つです。
かつてほど、地方における普通高校の大学受験への関所的存在意義は薄れました。
しかし、それでもカリキュラム上の進度を確保するという責任は依然として存在しています。
また、高等学校の学習内容は小中学校に比べると高度です。教科書を読むだけで理解できる生徒は極めて少数でしょう。
このように受験対応と内容が高度であることから、なかなかアクティブ・ラーニング形式の一部導入に踏み切れないケースは多いようです。
2.すべての解説をしなければならない使命感のため
年配の教員で、使命感の強いタイプの人に見られがちの傾向ですが、すべての説明をしなければ生徒は理解できないと思いこんでいるケースがあります。
大量の板書と細かい説明は一見すると丁寧で教育的配慮の行き届いた状態に見えます。
しかし、実際には大きな欠点があります。生徒は板書を写す機械に成り下がり自分で考えることをやめるようになるからです。
しかも真面目に授業を受けている、という状態に教員、生徒双方が満足してしまい学習内容の定着や学力の向上を無意識に疎かにしてしまいます。
「教えすぎない」ことの重要性
とはいえ、高校数学を全く解説無しで構成することも不可能です。
高校内容の数学は独学のみで学ぶには概念などがとらえずらいため、既習者のレクチャー無しに習得は困難です。
そのため、いかに「解説」を行いながらその分量を減らすかという微妙な味付けのバランスに常に悩むことになります。
「アクティブラーニング入門」
そこで実戦的で応用しやすい方法を提示してくれているのが以下の本です。
著者の小林昭文さんは、元高校物理教員、元産業能率大学教授でアクティブラーニングを専門に研究されています。
本書では、アクティブラーニングの具体的な手法を紹介がなされています。授業の説明を最小限にして、問題演習を授業時間のメインに据えるというものです。
現在、私の授業ではこの本に書かれたアクティブラーニングを完全に実践できているわけではありませんが、かなりエッセンスを取り入れています。
「解説をしたい」という教員のエゴ
学校の教員、特に高校の教員になった人間の多くは、誰かに何かを説明したいという欲求が強いタイプではないでしょうか。
私自身、その傾向はあります。
難しい概念や入試問題などを言葉巧みに生徒に理解させ、納得させ、感心した表情を浮かべさせられた時の満足感を知っています。
しかし、それは本当に彼らができる様になった瞬間ではありません。自分で手を動かし、試行錯誤し、解決して初めて学びが得られるのだと思います。
「解説をしたい」という思いは、教員の善意から生まれています。
しかし同時に、独善的でエゴイスティックな欲求なのだと常に自戒する必要があるのではないでしょうか。