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自分にとって大切なこと:私を生きる
私は平凡な家庭に生まれ、平凡な家庭で育ちました。
小さな不満をあげればきりがありませんが、世間と比べて『理不尽だ!』といえるような大きな問題とは無縁の、ごくありきたりな家庭です。
それぞれの家庭には、それぞれの利点と欠点が存在します。
もし私が過去に戻り、私の家族に介入できるとしたら『子ども(自分)をほめる』ことを意識したいと考えます。
私の一族は、大金持ちでもなければ、上流階級でもない、ありふれた昭和の家族(6人の兄弟姉妹が親となり、それぞれに二人以上の子供が生まれています)です。末っ子の娘の長男として生まれた私は、大勢の孫の中で、言いたいように言われて育ちました。
『〇〇をしなさい』
『人は○○であるべきだ』
『○○してはいけない』
父は自由人で、教育や思想にはほとんど携わることはありませんでした。母は子育てを自分の両親や兄弟に相談することも多く、上記のような理想や教育理念を、それほど知りもしない遠くの親戚より押し付けられたわけです(祖父母やいとこたちとは離れて暮らしていたため、親族と合うのは2~3年に一度程度でした)。
矛盾を感じて、『いとこの〇〇ちゃんはしてないのに、どうして僕はしないといけないの?』
とか
『○○ちゃんは△△しているのに、どうして僕はしちゃいけないの?』
と母に質問しても
『そうあるべきだから』だとか『そうするべきだから』という理由しか返ってきませんでした。
習い事や、学校の成績についても、普段ほとんど会うことのない、いとこたちとの比較で評価されることが多かったのを記憶しています。
そんな背景もあり、私は自己肯定感や自信をもつことができないまま成長することになりました。
そこそこの進学校に進みましたが、受験に失敗し、高卒で働くこととなり、バブル崩壊で不安定な社会状況になる中、
「このまま日本にいても、未来はない」
とほぼ思いつくままに、アメリカ留学を決定してしまいました。
スタートは完全に浅はかな思い付きでしたが、アメリカでの留学経験は私が大きく変わるきっかけとなりました。
当時は『アメリカ=心理学の先進国』というイメージがあり、どうせなら日本では学びにくいものをと、これまた安直な考えで専攻を決定しました。
心理を学ぶ上で、精神に作用する薬の作用や、認知や脳の機能を学びたいと、同級生の影響もうけ、生物も専攻に加えました。
生物の最初の講義で、私の認識は大きく変わることとなりました。
講義は『キャンベルの生物学』、『リチャードドーキンスの利己的な遺伝子』『ダーウィンの進化論』をベースに構成されていました。
『進化論』では
・生物の最大の目的は、子孫を残すこと
・進化というのは合目的に達成されるわけではなく、環境に適応したもの以外は淘汰されるという排他により達成される
『利己的な遺伝子』では
・人間といえど、遺伝子の目的は、いかに自分の遺伝子を後世に残すかにある
・どんなに優れた価値観や、倫理観をもってしても、遺伝子を残すことができなければ後世に残されることはない。
・協調性や優しさ、ルールを遵守する姿勢も、結局は『自己利益を追求した結果』である
と認識するようになりました。
私がそれまで思っていた(思っていたかった)『人間は他の動物とは異なり、優れた理性・知性をもつ。高いモラルや倫理観、法を順守する態度は、人間に備えられた絶対的なものである』という認識は完全に覆りました。
もしそれまでの認識が正しいものであれば、『人はどのような状況であっても、自分を犠牲にして他人を救おうとする』です。
しかしながら、社会においては『自分の身に危険が及んでいる場合には、自分を防衛するために、他人を傷つけることは容認されうる』場合が多いでしょう。
『自由』の大切さは、民主主義国家ではよく耳にしますが、
だからといって『誰もが自由に好き勝手やってもよい』というわけではなく、
『ルールに従う・他人の自由も尊重する限りにおいて個人の自由が認められる』わけです。
私たちには好き嫌いが存在します。一人の人間には寛容にできて、他の人には理由もなく、同じような寛容さを示せないケースは数多く経験します。
こちらも『優しさや協調性は、その特性を持つことで他人の信頼や協力を勝ち取り、生きていくための遺伝子的戦略の一つに過ぎない』と考える方がしっくりきます。
だからといって、私は『人間は他の動物と変わらず、倫理観や協調性というのも結局は自分勝手な戦略なのだから、ひらきなおって好きにするのが良い』と考えるわけではありません。
『倫理観を持たず、ルールを守らず、お互いが好き勝手に生活する世の中』より、『お互いが倫理観や協調性を意識し、争いや衝突の少ない暮らしやすい世界』を私は強く希望します。
人間は不倫しないようにはプログラムされていません。遺伝子を残すという生物本来の本能としては『より多くの異性と関係を持とう』とするのはむしろ自然です。
しかしながら、『不倫はいけない』『不倫をしない』という社会におけるルールを遵守することで、他人の信頼を得、そのような特性もまた、遺伝子の中にプールされていくわけです。
アメリカでの留学生活は、上記の考え方以外にも多くの知識や経験をもたらしてくれました。留学経験は結果として、学士編入による医学部入学にもつながったため
・自己肯定感や自信をかなりもたらしてくれた
・『人間万事塞翁が馬』という言葉が私の座右の銘となった(日本での大学受験の失敗、高卒での社会人経験などがなければ、アメリカでのがむしゃらな学習態度は期待できなかったのは明らかです)
・レールを一度はずれたことで、周りに答えを求めるのではなく、自分自身の価値観や判断を重視するようになった
・宗教感や、歴史観など、お互いに相容れない価値観をもつ人達との共存を意識するようになった
・差別や偏見は多かれ少なかれ存在するものであり、理想と現実のギャップは埋められないことも多い
など、概ねプラスの要因として働いています。
実際に医療従事者として働くようになってからも、私の人生は順風満帆とは程遠いものでした。
『使えない』『やめちまえ』『給料泥棒』
日常的に暴言を浴びせられながら、何年も努力を続けましたが
ある時、心が完全に折れてしまいました。
職場を変え、科を変え、ようやく心の平静をとりもどしつつありますが
それでも病院に入る時(一度診療行為を始めると、スイッチが入るからか精神状態は安定します)や、関わった方が亡くなられると無力感や罪悪感にさいなまれます。
研修医の頃から、否定しかされず、罵倒しかされなかったので、ここでも自己肯定感や自信を持つことはできませんでしたが、病院を変え、科を変えてから少し客観的に物事をみられるようになりました。
パワハラを行う人間が実際は一人であっても、周りの誰もそれを否定してくれなければ、全ての人間が自分を否定し、拒絶しているとしか思えません。しかも人間は完全ではなく、自分に欠陥があることも否定できないので、無力感や自己嫌悪感はどんどん強くなっていきます。
リーダーや教育者が、部下や仲間、教え子を指して『使えない』だとか『教えがいがない』『無能だ』というのは誤りです。
もちろん部下や仲間、教え子にモチベーションがなく、努力を全くしないケースも存在するでしょう。そんな時にはモチベーションや努力を促す必要があります。
ところが部下や教え子にモチベーションがあり、努力をしているにも関わらずに結果がでない場合、リーダーや教育者が責めるべきは己であって他人ではありません。いかにして『部下や教え子が成長・現状打開をできるか』、そこに苦心すべきだと考えます。
『偉そうにしていて、本当に偉い人』もいますが、
『ただ偉そうなだけで、全然えらくない人』の方が圧倒的に多い印象です。
自信や自己肯定感を物心がついた後で、少しずつつけた自分は、今のところ過信することなく過ごせていると考えています。
ただし、自分に自信がついてくると、それまでの理不尽な対応や社会について『不満や怒りが増大してくる』のもまた事実です。
『無力感や罪悪感に身をゆだねる』と人生やってられなくなりますが、
『過去の理不尽な言動に固執』してしまうと、不満や怒りがおさまらなくなります。
成功も失敗も含めて、私の人生は私しか経験していないものです。かつて私は自分が没個性的と考えていましたが、『何が普通か』分からないのと同様『普通の性格』や『普通の個性』などというものは存在しません。
『没個性的』というのは、派手な個性ではないというだけで、『個性がない』わけでも、『皆と同じ』わけでもありません。
『私を生きていく』ことで、『他の人も活きる』社会をつくりたい
COVID-19の出現後、上記を強く願い、意識するようになりました。