〈保育偉人伝〉エレン・ケイ
どうもしろやぎ保育書房です
みなさん、このエレン・ケイという名前、一度は、聞いたことがあるのではないでしょうか。たとえば、保育士養成校の授業で聞いた。保育士試験で出てきた。研修で聞いたかも。
とまあ、こんなかんじで、座学として学ぶ際に聞いたことがある方が大半だと思います。
子どもたちの保育や権利を考えるときに、必ず登場する名前です。
彼女はそうです、
世界基準の「子どもの権利の礎」を作った方なんですね。
いまから170年前にスウェーデンに生まれ、
1900年に発表した彼女の著書『児童の世紀』は、発売してまもなく11カ国語に翻訳され、世界中で絶賛されました。
彼女の主張は、次の世代次へ、また次の世代へと引き継がれ、1989年の『子どもの権利条約』につながっていくんですね。
では、彼女の主張とは一体どんなものだったのか。
彼女はどんな子どもの権利を守ろうとしたのか。
さらに、彼女の残した名著『児童の世紀』から読み取れる、
現代の私達が考えなくてはいけないことは何なのか。
生かしていけるポイントは何なのか。
エレン・ケイの人生と『児童の世紀』の紹介を交えながら考えていきたいと思います。
今日の参考文献はこちら
エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信、小野寺百合子 共訳
になります。
それでは今日もよろしくおねがいしまーす!
①エレン・ケイについて
彼女は1849年、スウェーデンの中部、スモーランド州というところで生まれました。
彼女の活躍した1900年代ごろというのは、日本でいうと明治時代の中期頃になります。日本が農業中心の国から、工業中心の国へと変わろうとしていた時代。
東京に日本で初めての「エレベーター付きのビル」や「公衆電話」が誕生したころです。
彼女の生きたスウェーデンはというと、同じく、農業国から工業国へと脱皮しようという大変動が起きていた時代。
今でこそ「高度 福祉国家」として世界中に知られるスウェーデンですが、当時は、他のヨーロッパの国々と比べると、まだまだ工業近代化が遅れた国のひとつでした。
人々の暮らしはというと、
農業の商業化が進んだことによる経済格差が生まれ、土地や資本を持つ人々は豊かになる一方で、無収入の労働者が大量に増えていました。
家族の収入基盤を支える父親が無収入の状況が続き、
そこから、女性や子どもを低賃金で働かせる「労働の搾取」というものがどんどん激化していっていたんですね。
エレン・ケイはこの状況をみて、
「女性や子どもの労働の搾取が、かえって労働者全体の賃金低下を招き、家計を助けるために、いっそう女性、児童の労働に頼らないといけない、という悪循環をもたらした」と分析します。
つまり、女性と子どもで安く労働力がまかなえると、一般的な賃金の成人男性を雇う必要がなくなる。クビにしたり、成人男性の賃金を減らしたりできる。
すると一家の家計は厳しくなり、今よりもっと、女性と子どもが働かなくてはいけなくなる。ということです。
さらに、女性と子どもの労働は、家庭教育がなくなること、学校に教育のすべてを任せっきりになることにつながる、とエレン・ケイは批判します。
このような批判からみても分かる通り、彼女は、「女性、教育、労働」の問題の構造的な性格をとらえ、総合的に論究した人物です。
彼女の論究では、主に「母性の尊重」や「家庭教育の重視」そして「児童の自由で自発的な活動の重視」などが論じられました
エレン・ケイという人はすごい読書家で勉強家でした。
また海外旅行で見聞を広めたり、様々な交友関係の中で議論をかさねたりして、彼女は自分の思想というものを作り上げていきました。
彼女の思想は、いろいろな偉人からの影響もうけています。
代表的なのが、ゲーテ、ダーウィン、そしてルソー
ゲーテからは「人本主義」いわゆる「ヒューマニズム」の影響を受けました。ヒューマニズムとは「人間性の尊重」「人間らしさの尊重」のことです。
エレン・ケイは、児童の世紀の第2部の冒頭をこのように書き始めます
「ゲーテが「若きウェルテルの悩み」で書いた意見が、この「児童の世紀」を通して、だんだんと一般的に知られるようになるだろう」
『児童の世紀』では、ゲーテの思想をわかりやすく伝えている、と考えていたようです。
ダーウィンからは「進化論」の影響を受けています。
彼女は、子どもには「不可侵の人格の権利」があると考えていました。
それは「大人を超えて、より高次元の存在」へと向かう発達を、誰にも「阻害されない」ということを意味しています。
子どもたちは、人類の進化の先へ行こうとしているのに、大人がそれを邪魔するなんてだめだ!というふうに、かんがえていたようです。
そして、教育に関してはルソーの影響です。
ジャン・ジャック・ルソーが掲げた「自然教育論」は、エレン・ケイの子どもの教育についての大きな指標になりました。
この「自然教育論」とは、「人の内面の自然性にしたがう」という教育論のことです。
簡単に言うと、幼児期には「自然人としての育ち」を支えよう、ということなのですが、
詳しくは、以前のわたしの動画「名著エミールから学ぶ自分を愛せる教育」のなかで、ルソーの教育理論「自然人」について解説していますので、もしよければ御覧ください。
さらにエレン・ケイに影響を与えた考え方は、ルソーの「児童中心主義」です
ルソーは、このように言いました。
「児童の人格および児童期は、それ自体固有の価値をもつものである。
教育は、「児童の本性」に干渉することなく、その「自然の歩み」に従い、
その「自由な発展」を保護し、援助すること」
つまり、子どもの自然な育ちを中心に置くこと。そしてそれを保護し、援助することが大事だと述べたわけです。
この考え方は、ペスタロッチ(1746-1827)やフレーベル(1782-1852)らによって継承され、深められます。
そしてエレン・ケイによって、より現代的な思想として復活しました。
その後、アメリカのデューイの実験学校(1896-1904)を皮切りに、1910年代から20年代にかけて、多くの「児童中心学校」child-centered schoolが設立。
日本における大正期や第二次世界大戦後の「新教育運動」もこうした児童中心主義の系譜に当てはまります。
エレン・ケイは児童中心主義の立場から「教育の最大の秘訣は,教育しないことにある」という言葉を残しています。
そしてこのように言いました。
「教育は、子どもが、そのうちにあって成長し得る美しい世界を、外面的にも、また精神的にも作り出す務め、を有する。このような世界のうちに、子どもをして、他人の権利の、永久不変の境界を侵さないかぎり、自由に動作させるのが、今後の教育の目的であろう」
ええ、つまり、
子どもたちの内に秘められた「美しい世界」を、アウトプットする作業こそが教育だ。ということです。
彼女は、様々な偉人に影響を受けてきましたが、エレン・ケイ自身も多くの人々に影響を与えました。
特に、女性運動や婦人運動に影響を与えた人物としても知られています。
彼女の著書にインスパイアされた世界中の女性たちが、婦人の地位向上、母性の実現、男女平等の運動をおこしました。
日本では、「元始(げんし)、女性は太陽だった」という言葉が有名な、女性解放運動家、平塚らいてうもその一人です。
エレン・ケイは75歳でその生涯に幕を閉じます。しかし、彼女の思想は世界中に今もなお引き継がれているのです。
②『児童の世紀』について
『児童の世紀』は、19世紀と20世紀の境目、1900年に登場しました。
本書における「20世紀が子どものための世紀にならなければならない」という彼女の宣言は、
これからの100年を、子どもたちのための時代にしよう!という、強い意気込みが感じられます。
彼女は本書を通して、「子どもという独自性」に、人々の関心を向けました。
子どもを「小さな大人」にしてはいけない。
「大人のコピー」にしてはいけない。
子どもの心を大人が理解し、子どもの心の単純性を大人が維持する。
このような「新たな教育」を通して、「子どもの権利」が保障されることに期待をかけたわけです。
そしてこの思想は世界中に広がり、後の新教育運動、児童中心主義運動につながっていくのです。
この「児童の世紀」ですが、実は発表当初は、スウェーデン国内で賛否両論や批判的な意見が相次いでいたんです。
しかし、そんな本国での評判とは裏腹に、世界的に大旋風を巻き起こします。
特にドイツでは熱狂的な反響を呼びました。
当時、ドイツで勢いのあった「芸術 教育 運動」と結びついて、
Vom Kinde aus「児童から」
を標語に掲げた、新教育運動が起こります。フランスではドモラン、アメリカではデューイの実験学校、他にもベルギー、イタリア、日本でも。
19世紀後半の世界中で、児童の自発性を重視する「新教育運動」が盛んに行われるようになりました。
更に、本書でエレン・ケイが掲げた「子どもの権利」の内容は、1924年の「児童の権利に関する宣言(いわゆるジュネーヴ宣言)」に大きく影響を及ぼしました。
そしてこれが後の「世界人権宣言」(1948)「子どもの権利宣言」(1959)につながっていきます。
さらに1989年の「子どもの権利条約」の誕生に結びついていくのです。
この「子どもの権利条約」は、子どもの権利を国際的に保障しようとする「一つの到達点」として高く評価されています。
子どもたちの権利の保障を訴えた、エレン・ケイの願いが、20世紀の終わりに、ようやく一つの形になったと言えるのではないでしょうか。
さて、ここからは、『児童の世紀』に掲載されている文章を、いくつか紹介したいと思います。
彼女は幼い頃から勤勉な読書家だったので、文章の表現にも温かみとセンスがあります。
たとえば、「未来が子どもの姿でその腕に眠り、歴史がその膝で遊ぶのだ」という文章。
この言葉からは、
赤ちゃんの存在そのものを愛し、このうえなく喜び、
それを見守る大人が抱く、健やかな成長への願い、未来に抱く希望、というものを感じさせます。
エレン・ケイの思想が当時の時代の先を行くもので、
更に、このような美しい文章表現で子どもたちのことを描いている。
世界中の人々が熱狂した理由もわかります。
ほかにも、このようなことを書いています。
「…教育全体の目的は、試験の点数や成績証明書ではない。
…むしろ目的は、生徒たち自身がまず第一にみずから知識を摂取し、みずから感銘を受 け、みずから意見をもち、精神的な楽しみを求めて勉強することであるはずだ」
このような言葉で、子どもたちの自発的な学びの大切さを説いています。
これは汐見稔幸さんも同じようなことを言っています。
さらに、子どもが学ぼうとするときに、大人が「教育だ教育だ」と先回りして教えることで、こどもの「学び」を奪っている。と指摘します。
人間は、様々な経験を積んでその中で失敗を繰り返して学びを得てきました。
木登りも、どうやって自分の体を動かせば登れるか、試行錯誤し、滑り落ちたり、失敗したりする経験を経て、いろいろな能力を身に着けてきました。
しかし、最近はそのような子どもの失敗する権利を大人が奪ってしまっている。
こうすればいい、こうすればできると教えてしまうことで、子どもが失敗する経験、そこから自分でどうすればいいんだろう、と考えるチャンスを奪ってしまっている。
「教育」を振りかざして、教えすぎていないか、子どもの失敗する権利を奪っていないか、子どもたちの学びを奪っていないか、これに汐見さんは警笛を鳴らしているのだと思います。
エレン・ケイは、言います。
「親はひたむきな親心や熱意から、子どもの固有の世界に干渉し、子どもを小さな人間の素材として型にはめようと矯正したり、子どもが好きなことや望むこととは違った方向へ引きずっている」
彼女がこのように指摘している大人の過干渉に、私達は意識を向ける必要があるのかもしれません。
他にもこのような文章があります。
「過ちを犯す子、悪戯や悪に触れる子、逸脱をおかして悩ませる子どもの姿に、
実は、そこにも育ちの豊かな可能性が潜んでいる」
この主張は、河合隼雄さんの意見と共通するものがあります。
子どもの育ちの奥深さ、複雑さが垣間見える表現ではないでしょうか。
このように、エレン・ケイは「児童の世紀」において、子どもたちの自発的な育ちとそれに対する大人たちの配慮について語りつくしました。
そして、子どもたちが自ら育っていこうとする権利を、大人が矯正したり、抑圧したりしないこと。
こういった子どもたちの権利に、当時の人々の目を向けさせたんですね。
これは本当に大きな功績だ、と言えるのではないでしょうか。
③子どもの権利の正体
この「児童の世紀」の中で彼女が主張する「子どもの権利」をまとめるとこのようになります。
いかがでしょうか。
170年も前に書かれたものですが、現在でも大切にすべきだなと考える内容が多いことに驚かされます。
この『児童の世紀』発表から20年後に「ジュネーヴ宣言」が出されますが、
多くの部分で、この児童の世紀で謳われている「児童の権利」が登場します。
例えば、ジュネーブ宣言の「身体的ならびに、精神的の両面における、正常な発達に必要な諸手段を、与えられなければならない」という文言は、エレン・ケイの「肉体的にも心理的にも、子どもの権利を尊重する教育」のことです。
また、「飢えた児童は、食物を与えられなければならない。病気の児童は、看病されなければならない」という内容は、彼女が強調する「子どもの生存の権利」です。
さらに、「生計を立て得る地位におかれ、かつ、あらゆる形態の搾取から保護されなければならない」という文言は、彼女の「肉体的、道徳的退廃をもたらす、児童労働の禁止」とかさなります。
このように、彼女の主張の多くがジュネーブ宣言の中に取り込まれたのでした。
④まとめ
今日は保育偉人伝として、エレン・ケイとその名著『児童の世紀』についてお話してきました。
スウェーデンが農業国から工業国へ変わっていく大変動の時代。
彼女は、女性や子どもたちの労働に胸を痛め、「女性、教育、労働」などの問題を世間に問い続けました。
彼女の唱えた「母性の尊重」や「家庭教育の重視」そして「児童の自由で自発的な活動の重視」は、多くの人々の勇気と行動を引き起こし、女性解放運動や新教育運動のきっかけになりました。
ゲーテ、ダーウィン、ルソーなどの偉人にインスパイアされ、海外旅行や広い交友関係で見聞を広げ、1900年彼女は『児童の世紀』をかきあげます。
この『児童の世紀』で書いた児童中心主義は、今も保育や教育の世界で引き継がれ、深められてきました。
さらに彼女の掲げた児童の権利は、ジュネーブ宣言の中に取り入れられ、現在の「子どもの権利条約」の礎となりました。
エレン・ケイによれば、20 世紀は児童の世紀になるはずでした。
確かに20世紀の終わりに「児童の権利条約」が誕生しました。
しかし、現実は「戦争の世紀」であり、「貧困の世紀」でした。命の危険に怯える子どもたち、飢餓にさらされる子ども達がたくさんいました。
さらに、近代化の流れの中で、科学技術の発展や競争社会の進展、家族のありようの変化などなど、時代の移り変わりの中で、子どもの心が翻弄されてきたようにも思います。
とても20世紀が児童の世紀になっていたと言える状況ではないように思います。
以前の動画「心を育てる鍵は「養護」にある」で紹介した、鯨岡峻さんの著書『保育の場で子どもたちの心をどう育むのか』でこのように言っています。
実際今の日本の子どもたちは幸せどころか不幸せに感じている子のほうが多い現状です。2020年ユニセフが発表した「先進国の子どもの幸福度をランキング」の中で、日本の子ども達の精神的幸福度は、先進国38ヵ国中37位です。
私達は、子どもの権利をもう一度考え直す必要があるのかもしれません。
例えば「子どもたちが失敗をする権利を奪っていないか」
「肉体的にも心理的にも子どもの権利を尊重する教育ができているか」
こんなことを意識して、保育をする事も大事なのかもしれません
2021年4月、自民党は「こども庁」を創設の方針を打ち出しました。
当初は「チルドレンファースト」という標語のもとに、子どもたちに対する施策の充実と予算の増加が、こども庁創設のための議論でした。
しかし、いつの間にか、幼保一元化や縦割り批判などの組織論に議論の主題がをすりか割っているという批判があります。
確かに幼保一元化や縦割り行政の解消は議論されるべきテーマではあると思います。しかし、それよりも子どもたちの命にかかわるような重要なテーマを話すべきではないかという指摘もやみません。
児童虐待への対応では、縦割り解消より先に、児童相談所のマンパワー不足の解消を考えないと行けない。
また、子どもや若者の自殺予防の対策や、日本版DBSという仕組みづくりも、子どもたちを守るための議論としてはもっとスピード感を持って進めていかなくちゃいけない。
そんな中、こども庁創設する事だけをめざした議論、縦割り解消することだけを目指す組織論だけが報道されているのに疑問を感じます。
本当にこれが子どもたちのためになるのか。
私達の大切な子どもたちにとって優先度の高いことがこれなのか。
はたしてこれで、エレン・ケイの掲げた「児童の権利」が守れるだろうか。
私達はこれからも国の動き、特に子どもたちや、保育、教育に直接関係のある動きについて、引き続き注視していく必要があるように思います。
締めに、エレン・ケイが『児童の世紀』表紙の扉に書いた、ニーチェの文章を紹介します。
今日は以上になります。
どうも、ありがとうございましたー!!