正直オフィス・アワー2


あらすじ


 私立聖稜大学法科大学院で教鞭をとる桐生光一(きりゅうこういち)。彼は「正直な」オフィス・アワーをすることで有名な講師であり、司法試験を控えた法科大学院生達はあるときは徹底的に打ちのめされ、あるときは飛躍的に成績が向上する契機となったりと多種多様な逸話を生み出し続けていた。本日はどのようなオフィス・アワーが繰り広げられるのであろうか。

正直オフィス・アワー|4浪U太郎 (note.com)


第4話


 本日の桐生のオフィス・アワーには男女二人組のペアが来訪してきた。基本的にオフィス・アワーに来訪するのは一人だけというのが大多数派で、個人的に質問をしに来ることが多いのだが、今回は二人でゼミを組んでいるということで一緒に来たのだという。二人で司法試験や予備試験の答案作成をしているのだが、二人とも身近に答案添削をしてくれる人の心当たりが無かったので、桐生のオフィス・アワーに来たというわけである。桐生としても、答案添削ということであれば、一人で来訪されるよりも複数人で添削しに来てくれた方が、自分の答案がどのような評価を下されるか相対化され易いので、願ったり叶ったりであった。

 当初桐生はいつも通りただの答案添削と、それに対する批評なりアドバイスなりをすれば今回のオフィス・アワー業務は終わるものだと思っていた。
だが、男子学生のある一言で本日のオフィス・アワーは普段とは違う様相を纏うことになった。

「今回、一番先生に聞きたいことがあってきました。正直、この質問をしてどんな反応をされるのか不安なのが正直な気持ちです。ですが、あえて言います」

 聖稜大学法科大学院既修コース2年生の男子学生である水野清一から発言した。水野の隣では同じく聖稜大学法科大学院既修コース2年生の女子学生である梶浦美紀が黙って水野をまじまじと見ていた。一方、水野の発言を聞いていた桐生は「一体これから何が始まるのか」と少し身構えていた。

「ズバリ言ってしまえば、僕はこちらの梶浦さんとお付き合いをしています。これまで一緒に司法試験合格を目指していく中でお互いに好意が芽生えました。ですが、司法試験は恋愛にうつつを抜かして合格できない試験だとも聞きます。少なくとも、僕の周囲の男子学生からは嫉妬なのか僻みからなのか知りませんが、『やめておけ』とうんざりするほど忠告を受けます。当初はそんな忠告を突っぱねてお互い受験勉強に励んでいましたが、試験の本番が近づいてくるにつれて段々不安も強くなっていったんです。自分たちはこのまま恋愛関係を続けても良いものなのかと。そこで、桐生先生に相談しようと思いました。受験指導のプロとして、あるいは人生の先達として、僕たちは恋愛関係を継続しても良いものなのでしょうか。その正直な意見を聞きたいのです」

 予想の斜め上を行く質問、というか若人の悩みを聞かされて、桐生はどう取り繕うか迷ってしまった。確かに自分は法科大学院の教員として教壇で講義を行うだけではなく、オフィス・アワーを積極的に行い受験生の受験勉強で躓くポイントについて普段の授業ではカバーしきれない部分について丁寧な指導をし続けてきたし、進路指導についても様々な相談に乗ったことも少なからずあった。しかし、恋愛についてわざわざ教員に意見を求めるというのは流石の桐生をしても初めての経験だった。最近の若者は教員に恋愛相談をするものなのかと思ってしまった。そもそも婚約指輪も身につけていない独身の身分を享受している桐生に恋愛相談などどんな答えを期待しているのだろうか。いや、試験本番が近づいてくることの精神的ストレスにより判断能力が通常よりも著しく低下している状態なのかもしれない、そう桐生は思い込むことにした。それとも恋愛というのはここまで人を阿呆にするものなのかと、桐生は自分の脳内の思考をグルグルと変えて行かざるを得ない状況に陥った。

 「そんなこと自分達で考えなさい!あなたたちは子供じゃなくて立派な大人でしょうが!貴方たちは私が『別れろ』といったら素直に別れるつもりなんですか!その程度の愛情しかないんですか!」と言ってやりたい気持ちをグッと堪えた。本気で恋愛相談に応えようとしている自分に恥ずかしささえ覚えた気がした。

 そんな桐生の様子を知ってから知らずか、桐生のTAである浅野はニヤニヤとこちらの様子を眺めていた。普段とは打って変わって困惑しているであろう様子を察して楽しんでいるのだろう。いっそTAの浅野に話題を振ってしまおうかと桐生の中の悪魔が囁いたが、かえって面倒臭くなるか、何となくまともな解決方法が返ってくるとは思われなかったので、浅野に話を振ることは自重することにした。

 しばらく天を仰いで自分が何を言うべきか塾考した後、桐生は口を開いた。

「『大人なんですから、恋愛関係をどうするのかは自分たちで好きに決めなさい。そんなこといちいち教員に聞くんじゃありません』だの『恋愛を言い訳に受験勉強ができないのならば、恋愛か受験のどちらかをきっぱり諦めなさい』というのは簡単ですし、そう言ってこの話を切り上げたいのが正直な感想なのですが、貴方たちの望んでいる答えというのはそういったものではないでしょう。…あくまで私個人の意見でしかないので、参考にするかしないかは貴方たちの自由です。ですが、公正を期すために恋愛のメリット・デメリットを私見を交えて語りたいと思います。…その前に、私自身も正直に言って自身の恋愛経験が豊富とは言いがたいですし、何より貴方たちの関係について熟知していないので、このままでは的外れなことを言ってしまう可能性があります。なので、まずは貴方たちの関係について、もう少し掘り下げたことを伺ってもいいですか」

 桐生は現在の自身を法科大学院の教員というよりは、弁護士として振る舞うことを心がけた。教員として話を聞くというよりも、弁護士としてクライアントの話を聞くような態度を取ることを優先したのである。クライアントの法律相談を聞くにあたっては、どうしても生々しい具体的な事実の聴取が欠かせないからである。こんな形で法科大学院で教鞭をとる前に弁護士として働いていて良かったと思った日が来るとは思ってもみなかった。

 桐生の質問に対して、水野が答えることになった。

「はい。僕たちは聖稜大学の学部時代からの付き合いになります。最初は学部が同じで、授業も一緒に取る同期というだけの関係でした。学部の2年生から予備試験を受験することになって、お互いに切磋琢磨できる受験仲間を探していたときに偶々二人で一緒になりました。お互いに答案を添削し合ったり、法律論について意見交換したり、一緒に定期考査の準備をしたりと二人の時間を過ごしていく内に、一緒にご飯を食べたり、たまの休みに息抜きで一緒にどこかに遊びに行くこともありました。そうこうしている内に、お互いに恋愛感情みたいなものが芽生えるようになりました。二人とも予備試験には学部生の内に合格することは叶いませんでしたが、二人そろって聖稜大学法科大学院の既修コースに進学することが叶いました。そして、法科大学院の合格発表の時に、二人とも合格したのを確認してから、思い切って僕の方から改めて告白しました。そうしたら、彼女からもOKの返事をもらえまして、現在に至ります。」

 ここまでの水野の話を聞いて桐生はチラリと浅野の方を見た。浅野は先程のニヤけ面から一転して虚無の表情をしている。内心「リア充爆発しろ」とでも思っているのだろうかと桐生は邪推した。桐生は再び意識を水野の方に意識を戻した。

「で、法科大学院に入学しても二人の関係は良好です。ですが、予備試験には相変わらず合格できないままでして。僕と梶浦さんの関係を知っている一部の同期からは『恋愛にうつつをぬかしているから罰が当たったんだろ』なんてからかわれたりしています。ですが、こうも不合格という結果が積み重なってくると、本当に『そうなのかな』って不安になる日が少なからず増えてきたんです。勿論、恋愛関係にあるからって勉強に手を抜いたなんてことはありません。それは互いが証人になれるくらいですから。ただ、もう法科大学院も2年目になって法科大学院の修了と司法試験受験が間近に迫ってくると、このままの関係を維持しても良いものかと不安にもなってくるんです。もし仮に恋愛関係を解消することになったとしても、それでその後の人間関係まで悪化するようなことにはならないようにと予め二人で話し合ってはいます。先生に聞いてみたいのは、今後受験生活が続く中で恋愛関係を続けるメリットのようなものがあるのか、またデメリットというものがあるのならどのようなものがあるのかということです。それらを改めて聞いた上で、二人の関係を改めて決めていこうと思います」

 水野の話を聞いて、桐生の中で必要最小限で彼らに伝えるべきことを何とかまとめることにした。恋愛にハッキリとした正解はない。極論、当人達が正解だと納得したものが正解なのだ。彼らに納得してもらえるように、客観的な立場から納得してもらえるように意識しながら桐生は口を開いた。

「一番知りたそうなのが受験生活を続けながら恋愛関係を続けた場合のメリット・デメリットということなので、ひとまずそこに的を絞った回答をしようと思います。私がこれから言うことにデータや統計的な資料といったものは一切無いので信じるも信じないも貴方達の自由です。ですが、あえて無責任とも思えるアドバイスを提示しようと思います。何度でも言いますが、どう受け取るのも受け取らないのも貴方たちの自由です。」

 桐生は普段の法律論の講義や答案作成の解説の時とは明らかに歯切れの悪い言い方を隠しきれていないが、それでも目の前の相談者の悩みに法律家として、あるいは人生の先輩としてお節介ともとれるアドバイスを与えることにした。

「まず、恋愛関係を継続したメリットというのは、強固な支え合う受験勉強仲間がそばにいるということです。通常の実家暮らしの学生や一人暮らしの学生で恋愛関係を構築していない受験生というのは、周囲に人がいたとしても受験という観点から見れば本質的に孤独を抱えているものです。受験勉強で生じるストレスから来る人恋しさを彼らは紛らわせることがなかなか出来ません。ですが、幸運にも恋愛関係があればその人恋しさを解消することが出来ます。それが結果的に受験勉強にもすぐに前向きな態度で臨むことが出来るようになります。また、貴方たちは司法試験や予備試験といった同じ試験に臨んでいるという意味でも大きなアドバンテージがあると言えます。恋愛関係があったとしても一方が司法試験や予備試験の受験生であるのに対して、もう一方が試験から解放されている身分の社会人だったり、あるいは医療や看護など別の試験を目指しているという場合を考えてみましょう。恋愛関係においては対等でもそれぞれが抱えている事情が異なれば、励まし合うことや支えることは出来るでしょうが、同じくらい衝突する危険性も秘めていると言えます。お互いの事情をよく話し合わないで現状を当たり前の環境だと思い込んでいると、ふとした時に喧嘩が起こりやすくなると言えるでしょう。例えば、『俺は司法試験の勉強で忙しいんだからそっちの小さい悩みに構ってる余裕なんて無いよ』なんて言ってご覧なさい。そう言った次の瞬間には『こっちだってそっちの試験勉強をいつも支えて応援してるんだからたまにはこっちの相談も聞いてよ‼そんなに言うなら早く合格しなさいよ‼』なんて罵声が聞こえてきても不思議ではないでしょう。一方で、貴方たちのように同じ試験を共有している恋愛関係にある人たちであれば同じ苦労を分かち合うことが出来るため、先程の例に挙げたような喧嘩をするリスクが低くなると言えます。あくまで喧嘩をするリスクが低くなるだけであって喧嘩するリスクがゼロになるわけではありませんが。それはともかくとして、試験合格のために必要な情報源が複数確保しやすいというのも挙げられますかね。複数の予備校の講座や答練、模試を1人でまかなうのはなかなか困難でしょうが、二人いれば相談して予備校の講座や答練、模試などそれぞれ受講したものを共有するなんてことも出来るようになるでしょう。勿論、著作権法に反するようなことは勧められませんので、そこのところは上手くやってくださいとだけアドバイスしますが。あとは、二人そろって司法試験に合格できればほとんど問題ないでしょう。司法修習を経て実務家として十分な所得を得られるようになれば、二人がその気になれば婚姻に至るということもあり得ることでしょう。そうなれば割と人生においては幸福度が高い状態でゴールインできる可能性が高いでしょう。一緒に過ごした時間もそれなりに長くなっているはずですし、諸々の社会的な合意形成も比較的スムーズに行くはずです。」

 桐生はなんとか頭の中を高速回転させることで彼らに有益になりそうな情報を紡いでいった。一通りメリットについて説明し終わった後で一息ついた。そして、もう一度頭の中で軽く整理した後で残りの説明を続けた。

「では、デメリットについても説明しますね。デメリットが出てくるのは、試験が終了して片方が合格してもう片方が不合格になった場合に恋愛関係が自然消滅になりやすいということですかね。合格した方は最初の内は不合格になった恋人を応援するとか調子の良いことを言うんですが、司法修習での課題やら新しい人間関係の構築など新しい環境の変化によって気持ちが新しく出会う人たちに目移りする可能性があります。しかも新しく出会う人は既に司法試験は合格しているわけでして、最後の二回試験を合格してしまえば法曹になれるわけで、そんな人はとても魅力的に見えることでしょう。あるいは、修習終了後の就職先の職場で出会う人達の方が魅力的に見えることだってあるわけです。つまり、恋愛関係にある受験生が片方だけ不合格になった場合、不合格になった人は早めに浪人生活から抜け出して定期的に合格した恋人と関係を保持する努力をしていないと、先に合格した恋人に合法的に捨てられる可能性があるということでしょうか。学生時代の恋愛がそのまま成就して結婚関係にまで持って行ければそれはそれで幸せなのかもしれませんが、残念ながら試験の結果によって恋愛関係にあった二人の立場が変わった場合、学生時代の恋愛関係をいつまでも引き伸ばすのはかえって不幸になってしまうことになりかねません。どういうことかと言えば、女性に限って言えば、出産という特別なイベントは女性の中でも限られた期間、それも若い内に行われるのが理想とされる場面を考えると、キャリア結成という観点から早めに合格が決まった場合に学生時代から付き合っていた恋愛関係を切って司法修習以降をいわゆる婚活に当てるという選択も合理的と考えられます。もっとも、これも一概には言えないので最初の愛を貫くというのであればそれを否定することはしませんが、あらかじめ可能性として試験に不合格となった場合に生じるデメリットというのも頭の片隅に入れておいた方が良いかもしれません」

 こうして、桐生は思いつく限りの恋愛のデメリットを語って見せた。水野・梶原の二人の学生は桐生先生が学生の恋愛についてここまで詳細なアドバイスをくれるものとは想像していなかったのか、呆気にとられていた様子である。

 だが、桐生としては自分の言葉だけの説明だけでは自分自身に納得していなかった。今まで話したのは他の学生や自分の学生時代の同期や先輩・後輩から聞いた話であり、つまりは伝聞である。刑事訴訟法を勉強していれば伝聞による証拠・証言というのは例外的な場合を除いて信用度が足りないから基本的に証拠能力が否定されるということは百も承知である以上、もっと説得力のある資料を提示しないと彼らの疑問に答えたことにはならないのではないかと思った。そこで、桐生は彼らに対してもう少し変わったアプローチを試みることにした。

 「ああだこうだ好き勝手言いましたが、あくまで私が今話したメリット・デメリットというのは他人の経験則でしかない伝聞にすぎません。そして私自身の経験というのはあえて入れて話してはおりません。自分の経験のみを過大に評価して抽象化することはかえって悪影響だと思ったからです。こうした恋愛に限らず人間関係に関する悩みに対しては小説など読書を有効に行うことがオススメだと私は考えます。今現在の貴方たちに近しい書籍を紹介しますね」

 そうして、桐生はオフィス・アワーを実施している自室の研究室から1冊の漫画本を二人に手渡した。それは三田紀房著の漫画『Dr.Eggs』であった。

「これは『Dr.Eggs』というグランドジャンプ誌で連載されている漫画作品です。地方の医学部生の学生生活を描いた作品です。原作者はあの東大受験漫画の金字塔『ドラゴン桜』を描いた三田先生の最新作です。皆さんは法学畑の人間ですから医学部の日常というのは遠い世界の話のように聞こえるかもしれませんが、多数の専門知識を記憶するところや部活動・サークル活動で学生間の縦や横のつながりを作ることの大切さなんていう描写は共感を得るはずです。また、この作品は話が進むにつれて主人公の医大生が同期の女学生と恋愛関係になるところまで描かれます。しかも、その恋愛も上手くいくだけでなくお互いのほんの些細なところですれ違うところまでリアルに描かれています。特に医学部生特有のキャリア設計の男女間の意識の格差や、産婦人科に関する講義を受ける際の男子学生と女子学生との意識の差など専門領域を越えて必読の価値ありです。大学での勉強と部活・恋愛と多忙な生活をこなしていく姿には色々学ぶことがあると思うので是非一読することをお勧めします。」

 法科大学院の教授から専門外の漫画をオススメされることになるとは水野・梶浦の二人は予想だにしていなかったが、それだけ目の前にいる桐生という教員は自分たちの悩みに真摯に答えてくれたことを嬉しく思った。学生同士の恋愛など大学の教授がまっとうに取り合うとは思っておらず、半ばやけくそで向かったところ、予想以上に丁寧に扱われたことに驚きを隠せなかったのだ。別の法科大学院で恋愛関係上のトラブルが原因で学生が飛び降りをしたという事件があったと聞いたことがあるが、その事件を念頭に置いたことで大学側も学生のそうした悩みに真摯に対応しようと四苦八苦しているのかもしれない。ただ、目の前にいる桐生という教員は、その事件があろうと無かろうと自分に出来るアドバイスなり忠告を全力で真摯に行ったはずだと水野と梶浦は確信していた。

「あぁ、もし司法試験や予備試験の勉強のモチベーションが落ちてしまったと言うことであれば、同じくグランドジャンプ誌で連載されている『カモのネギには毒がある 加茂教授の人間経済学講義』という作品もオススメですよ。とりあえず皆さんは目の前の司法試験や予備試験、あるいは法科大学院の定期考査のために勉強をしていると思いますが、そもそもの勉強をする動機を教えてくれる漫画作品です。例えば弁護士を目指す人の中には少なからず生涯賃金を増やすために勉強を頑張っている人もいると思いますが、勉強を続けるというのはただ経済的に豊かになるだけでなく、自分がカモにならないための防御策としても役に立つという側面も学んで欲しいのです。この『カモのネギには毒がある』は一貫してそのことを伝えていますが、原作7巻から始まる不知火大学野球部編からはそもそもの勉強することに対する意義が改めて説明されますから、勉強の方向性に迷ったときに読んでみると良い気晴らしになると同時に効率的な受験勉強が再開できるようになると思います。時間があるならば是非、というより時間を強引にでも作って是非読んで欲しいと思いますね、はい」

「先生、何だか自分の好きな漫画の布教タイムに入っていませんか?当初の目的を忘れないようにして下さい」

 桐生の無意識からの漫画の布教行為に対してTAの浅野から修正が入る。こうした現象が起こるのも普段の講義とは異なるオフィス・アワーならではの現象であるとも言えるのだが。

「コホン。まぁ、恋愛関係というのは上手く言っていれば問題は無いのですが、いったん何かしらトラブルが生じると色々そこから派生して歯止めが効かなくなります。恋人からストーカーに転じてストーカー規制法に引っかかったり、最悪殺人や傷害事件に発展することも珍しくはありません。あるいは、ネットやSNSが発達した現代であれば名誉毀損やプライバシー侵害が問題になるかもしれません。仮にも法学を学んでいる者が法を犯すようなことにはなって欲しくないものですが、人間は些細なことがきっかけで法を犯してしまいがちです。もしくは、恋愛や受験に失敗した心の傷をキャバクラやホストといった疑似恋愛で慰めてもらおうというのも危険な兆候と言えるでしょう。キャバクラやホストで働いているキャストというのは、あくまでお客さんが金を支払い続ける限りにおいてその人にとって都合の良い言葉を投げかけるだけですから、その言葉を鵜呑みにする内に判断能力がどんどん鈍っていき、冷静に考えれば自分が負担する必要など全く無い借金などを負担してしまっていることにもなりかねません。要は、失恋を経験してしまうと最初は恋愛弱者としてカモにされ、結果的に経済的弱者にまで陥るリスクが生まれるということです。ですから、皆さんには司法試験や予備試験の勉強とは別に余裕のある内に心の予防となる知識を備えて欲しいと思うのです。これは万が一自分が司法試験に不合格となり、周囲から取り残されてしまった場合に役に立つはずです。要するに恋愛や試験に失敗した人間が変な方向に向かってしまわないように心の予防線を張ろうということなのですが、これはある意味では司法試験に合格することよりも大切なことです。たとえ司法試験に早期合格できたとしても情操教育がお粗末だと実務家になってから取り返しのつかない失敗をしてしまうリスクが高まります。そうなってしまってはせっかくの合格も意味が無くなってしまいますからね。一人では大変なことでしょうが、二人で力を合わせて・知恵を絞れば頑張って乗り切れることもいっぱいあるでしょうからね。私から言えることは以上ですが、他に何か聞きたいことはありますか。」

 桐生の問いかけに呆気にとられていた水野は少し考えた上で、

「いえ、もう大丈夫です。ここまで真剣に相談に乗って下さってありがとうございました。二人でもっと色々話をしたりして試験を乗り越えようと思います。」

 と返事をした。しばらく言葉を発していなかった梶浦も

「桐生先生、本日は改めてありがとうございました。今回の相談内容は正直まともに相手にされないと思っていましたからどうなるかと不安だったんですが、思い切って相談して良かったです。少しでも客観的な意見やアドバイスがいただけてとても良かったです。せっかくだからもう少し突っ込んだ話を聞きたいんですが、現実に恋愛関係を継続したまま司法試験に合格したカップルの実例などあったりするのでしょうか」

と、自分から気になることを質問し始めるようになった。彼女の質問に対して桐生は正直な回答をすることにした。

「再現性がどれ程あるとか、全体の受験生の比率から何%の確率で発生したというようなことは言えませんが、私の知りうる範囲では恋愛関係を維持したまま現役で司法試験に合格した法科大学院生というのは確かに存在します。他にも、先に彼女の方が現役で合格した後、1,2浪してから彼氏が司法試験に合格したというパターン、彼氏が現役で司法試験に合格して先に弁護士になり、彼女の方は法科大学院を修了後、紆余曲折あり先に弁護士になった彼氏と結婚したというパターンもありますね。勿論、恋愛とは程遠い生活を貫いて合格した人が体感では圧倒的に多数派の気がしますが」

「成る程、分かりました。再現性が低かったとしても実際に合格した例があるというだけでも希望になります。桐生先生、本当にありがとうございました。水野君と一緒に現役合格できるように頑張ります。じゃあ水野君、早速予備試験の起案やろうよ」

 梶浦はそう言って桐生の研究室から退出した。水野は梶浦の行動力の早さに若干圧倒されながらも急いでその後を追いかけていった。

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「それにしても、私のオフィス・アワーは何でも相談可能という建前をつけて運営してますし、実際その文言に嘘偽りなく運営する心構えなわけですが、まさか若人の恋愛模様について相談されることになるとは思いもしませんでしたよ」

「お疲れ様でした。僕では絶対に適切な解答が出来ない分野だったもので助かりましたよ」

 水野と梶浦のオフィス・アワーを終え、その後の学生の来訪もないまま本日のオフィス・アワーが終了した桐生の研究室に残っていた桐生と浅野が互いに雑談に花を咲かせていた。

「そういえば、あの学生二人は質問しませんでしたけど、桐生先生の恋愛経験ってのは具体的などんなものなんですかねぇ?後学のために教えて下さいよぉ」

 浅野は冗談交じりで桐生にそう問いかける。

「その件については黙秘権を行使します。オフィス・アワーでもない、飲み会の席でもないのにそんなことをわざわざ君に述べてやる義理はありません。そもそも、私に浮ついた話を期待する方が間違っているのです。そういう君の方こそ彼女の一人くらいいないんですか?」

「学生のプライバシーを尋ねるなんてアカハラって言われても文句の言えないご時世ですよ最近は。気をつけた方がいいですよ先生。まぁ正直に言えば僕の方も浮ついた話は悲しいことに一つも無いですね。バキバキ童貞ってやつですよ。でもぶっちゃけ僕はその気になればすぐにでも童貞は卒業できそうな気もするんだけどなぁ。不思議とそういう気配はないんですけど、何か心当たりとかあったりしますか?」

「そもそも我々のような人種は恋愛論よりは法律論を語るのがよっぽど好きな人種でしょうに、そんな人間が仮に弁護士資格を持っただけでそう簡単に異性にモテるようになるわけではないという真実を重く受け止めるべきでしょうね」

「我々に青い春がやって来るのはいつなんでしょうか」

「私は恋愛に対しては淡泊な方ですが、何となく君よりは先に結婚できたらいいなという願望がありますね。まぁ結婚できるとしても当分先の話になるでしょうが。まずは我が聖稜法科大学院の司法試験合格実績を上げないことにはなんとも言えないのが正直なところなのでね」

「お互いモテるようになるのは当分先かぁ」

等と、桐生と浅野は軽口を叩き合っていた。こうして、聖稜大学法科大学院の黒い青春は続いていくのであった。

第5話


 受験というのは種類・業界を問わず情報戦でもある。「どこそこの予備校の講義を取るのがいい」とか「どこどこが出版している予想問題に手をつけないのは駄目」といった類いのものである。そして、司法試験であってもそれは例外ではない。

 今回、桐生のオフィス・アワーを訪れたのは聖稜大学法科大学院の中では中間から上位の間をさまよう成績層にいる学生であった。彼の名は脇坂大輔という。脇坂は桐生に以下のような質問を投げかけた。

「司法試験の勉強において重判や調査官解説はどれくらい読み込めばいいでしょうか」

 脇坂は司法試験の準備を進めるにあたって、論文試験の成績に伸び悩んでいた。論証の暗記や予備校の答練(答案練習)に手を抜いたことはなく、日々勉強時間を増やしても一向に成績が伸びている実感が湧かなかったのだ。手応えの悪さを感じることはあっても手応えの良さを感じることはまるでなかったのである。そんな中、成績優秀な先輩から「重判や調査官解説は読んだ方がいい」ということを聞いた。自分も法科大学院の講義に出た判例の中で偶に重判に掲載された判例を見ることはあったが、それで実際に自分の論文の成績が伸びたことを実感したことはなかったので、その成績優秀な先輩の言うことに半信半疑になっていた。そこで、中立的な立場からのアドバイスを求めて桐生のオフィス・アワーを利用したというわけである。

 桐生は脇坂からの質問に正面から答える前に、脇坂に確認の意味も込めて逆に質問を返した。

「その質問に答える前に、まず貴方の実力というか、成績はどのようなものか具体的に教えてもらえますか。その答えによってはこちらの返答も変わってくるものですから」

「民事系は法科大学院の成績も論文答練の成績もいい方です。特に民法と商法はどちらもA~B評価といった具合ですね。公法系は成績が良かったり悪かったりを繰り返して大体真ん中、平均的なくらいです。問題によって成績にばらつきが出るといった感じでしょうか。刑事系は苦手でD~E評価ばかりですね。個人的に刑事系の科目は嫌いではないんですが、こと司法試験になると苦手で。だから自分でも重判や調査官解説を読み込んだりしてるんですけど、どうしても成績が上がってる気がしなくて。重判や調査官解説を読んでる時は自分の中で理解が深まったって実感があるんですけど、それを実践でどう活かせばいいのかってなると駄目になるんですよね」

「なるほど。ちなみに、短答試験の方は大丈夫ですか。足切りに引っかかっていたら、だいぶ勉強の方向性を見直すことをオススメしなければならないのですが」

「司法試験の短答ということでしたら、憲法、民法、刑法は模試を受けても足切りにあったことはないですし、過去問も適宜検討しているのでそこは大丈夫です。予備試験の短答となると残り四法(商法・民事訴訟法・刑事訴訟法・行政法)の成績は少し不安が残りますが」

「なるほどわかりました。あなたは苦手科目の克服のために重判や調査官解説まで読み込もうとするほど勉強熱心ということは伝わってきましたが、それだと勉強の方向性としては些か誤っている気もしますね。逆に、もし貴方の得意科目である民事系の重判や調査官解説を読み込んでいるということだったとしても同じことを言ったと思いますが」

 「重判」とは『重要判例解説』の略称であり、法律系出版社の有斐閣から刊行されている雑誌の一つである。その年に出された法律学的に大きな意味を持つ重要な裁判例が掲載されていることが大きな特徴であり、司法試験や予備試験対策として読むことを勧められている雑誌の一つである。一方、「調査官解説」とは「最高裁判所判例解説」の通称であり、最高裁判所判例集に掲載された判例について最高裁の調査官と呼ばれる人たちが執筆したものである。学者といった第三者的視点に立ち判例分析された書籍と異なり、その事件を担当した調査官による判例の解析がなされているという点で存在意義を有する。どちらの書籍も、聖稜大学法学部・法科大学院の図書室で閲覧できるようになっている。

 桐生は脇坂に対して「お前にこれらの書籍を読み解こうとするのはまだ早い」と言ってのけたのだ。その理由を桐生は可能な限り懇切丁寧に説明を尽くす。

「基礎力に自信の無い受験生ほど一発逆転を狙って、重判だの調査官解説などを無駄に読み込んで得意になった気になっているようですが、あくまでその気になっているだけであって、実際に答案が上手に書けるように成る程成績が爆上がりするようなものではありません。重判や調査官解説は、全科目論文試験がA評価とか、常に総合成績500番以内に入れる司法試験業界の強者だけが踏み入れることを許された、いわば『隠しコンテンツ』のようなものです。近年、重判から最新の司法試験や予備試験の題材が出題されているからといって、一般的なレベルの受験生が果たしてどれだけ重判に掲載された事案とその出題された問題が類似しているか読み解けるでしょうか。まして、合格レベルの答案を制限時間内に仕上げることができるでしょうか。確かに、受験生としては自分の知っている知識の中から問題が出題されてくれればどれだけ安心することか、気持ちは分からないでもないです。しかし、司法試験や予備試験の出題者が要求していることは最新判例の知識を知っていることではなく、受験生なら既に誰もが知っている知識を十分に活用して目の前の未知の問題を解決できる能力があるかどうかです。そこのところを勘違いしてはいけません。それに、受験戦略ということを考えるのであれば、得意科目をさらに伸ばすよりも苦手科目を一つでも多く潰した方がよっぽど合理的です。そして、苦手を潰すためには何もマニアックな勉強や最先端の勉強をしなくても、基礎・基本を徹底的に繰り返すことに尽きます。勿論、基礎・基本といっても何も簡単であるとは言っていませんよ。『ローマは一日にしてならず』という言葉がありますが、法律学もまた然り。司法試験の論文試験に出題されうる基本的な条文の要件や効果をきっちり何も見なくてもそらんじて言えるかといったようなことを確認することに勉強時間を充てた方がまだましだと思います。逆に言えば、重版や調査官解説を読んでいることが司法試験合格の必要条件ではないとも言えますが。必要なのは、そうした文献を読み込んでいることではなく、合格に必要十分な条文や判例の知識・論証をインプットし、過去問研究を含めた適切な演習を十分な数だけこなしているかといったことです」

 桐生は説明を尽くしたが、それでも脇坂はまだ十分には納得していなかったようだった。そんな脇坂の様子を見て、桐生はあることを思いついた。

「ふむ。その様子だと、まだ心の底から十分に納得しているという感じではないですね。先程、刑事系は苦手ということでしたので、一つ簡単な刑法の問題でもここで出しておきましょうか。イメージとしては、予備試験の口述試験のやり取りに近い感じでしょうか。これをスムーズにクリアできなければ、あなたにはまだ重版や調査官解説に手を付けるのは早いということが分かります。今回は、条文知識だけで、言ってしまえば短答知識だけで答えられる問題を出したいと思います。六法は、申し出があれば貸し出しますが、基本的には何も見ないで答えられたほうが望ましいです。」

 そういって、桐生は脇坂に問題を出すことにした。桐生は百文は一見に如かずということを実践することにしたのである。桐生がこれから出題する問題にスムーズに答えられなければ、まだ重版や調査官解説に自力で手を出すのはまだ早いと脇坂に言おうとしているのだ。

「それでは、これから問題を出します。『甲は、保険金を不正に騙し取る目的で、共犯者である乙とあらかじめ謀議を図った上で、乙の自宅に火災保険を設定し、乙の自宅に放火した。乙の自宅には、他に誰も人がいなかったものとする。甲には、何罪が成立するか』

 いきなり刑法の問題を解かされることになった脇坂は気が動転した。そもそも桐生は民事系科目担当の教員のはずだろうに、なぜ刑法の問題をすらすら出せるのだろうと思った。いや、桐生は弁護士資格も持っているから簡単な刑法の問題くらいは出せるのかとも思ったが、そんなことは自分の意識からすぐに外して目の前の問題に集中することにした。脇坂は必死に記憶をたどり、放火罪関連は刑法の108条以下に記載があったことを何とか思い出していたが、そこから先の知識がぼんやりとしか思い出せずにいた。桐生から「六法を貸し出す」と言われたことを思い出して、思い切って六法を借りることにした。

 桐生は「本当なら短答知識だけで即答してほしいところだったんですけどね」と小言を言いながら脇坂に司法試験用の六法を手渡した。脇坂は分厚い司法試験用六法の刑法の項目の中から目当ての放火罪の記載のある頁を探し当てる。放火罪の規定自体はすぐに見つかったが、自分が答えるべき答えが「現住建造物放火罪」なのか「非現住建造物放火罪」のどちらになるのかが分からずに脇坂はパニックになっていた。普段の短答の問題であれば他の選択肢などから判断して肢を切ることもできるのだが、口述試験だと普段出来ることもなかなか簡単には出来なかった。刑法108条か109条か、たった1条の違いであるのだが、その1条が大きな違いとなる。これが桐生の言っていた「法律学の基礎・基本は簡単ではない」と言っていた意味の本質かと脇坂は今更ながら理解した。脇坂は「共犯関係にある者が自宅に放火した場合、108条の現住建造物放火罪は成立しない」というぼんやりとした短答知識を思い出して、

「甲には刑法109条の、非現住建造物放火罪が成立する、と思います」

 と、自信なさげに答えた。これがクイズ番組やバラエティであるならば、だいぶ間をとってから「正解!」か「残念、不正解!」と反応が返ってくるのだろうが、桐生はそんなノリを持ち出すことはなく淡々と冷静に

「109条の1項ですか、それとも2項のことを言ってるんですか、どっちですか」

 と矢継ぎ早に脇坂により正確な答えの返答を要求した。脇坂はそこまで正確な答えを要求されるとは思っておらず、もう一度六法を見直した。脇坂は、半ば山勘で

「109条の、1項、で…す」

 と、再び自信なさげに答えた。ここで「正解です」という反応が来ることを期待した脇坂であったが、桐生はそんな脇坂の甘い期待とは裏腹に

「なぜ109条の2項ではなく1項なのですか。2項の『自己の所有に係るとき』という文言がある以上109条2項が成立すると解釈したほうが自然なのではないですか。それを言うなら、そもそも108条の現住建造物放火罪が成立する余地はないのですか」

 と脇坂の答えの根拠の薄弱さを猛烈に攻める質問攻めを繰り出した。桐生のはっきりとした物言いに根負けした脇坂は

「じゃあ、109条の2項に訂正します」

 と、細い声で返事をした。これで解放されるかとも思ったが、桐生はそこまで優しくはなかった。

「あなたは私が少し疑問を呈したらあっさり自分の意見を変えるのですか。そんな薄い根拠で安易に109条1項が成立すると立論したのですか。相手に多少強く言い返されたからといってすぐに自分の立場を変えては良い法律家になれませんよ」

 と容赦ないコメントを付け加えた。もうこの場から消え去りたい。脇坂はそう思った。

「…というわけで、貴方は少なくとも刑法においては基礎・基本とされる条文の要件を正確に記憶していないようですね。あるいは、短答対策もまだまだ詰めが甘いというべきでしょうか。もしくはその両方ですかね。予備試験をパスできる実力者であるならば、私からの疑問にも根負けすることなくこの程度の問題は背筋を伸ばしながらハキハキと正解を答えてくれるものですよ。このレベルの問題を即答できないということは、司法試験受験生であれば間違わない・間違ってはいけない短答の問題に足を引っ張られて不合格になるリスクが高いと言わざるを得ません。重判や調査官解説を読む・読まない以前の問題ですね。そういうわけで、現時点の貴方にとっては重判や調査官解説といったアイテムは『猫に小判』・『豚に真珠』と言っても同然でしょう。これらの書籍を読み込むよりもよっぽどやるべきことがまだまだ貴方には山積みということです」

 桐生のここまでのコメントだけでも十分に重判や調査官解説を読む気力は脇坂の中では失せてしまったのだが、桐生はまだまだ解説を止める気はなかった。

「さて、これで重判や調査官解説を読み込むのはまだ早いといった部分は伝わったとは思いますが、問題を出しっぱなしにするというのもよくはないですね。今後の学習のためにも解説くらいはキッチリつけておきましょうか。まず、そもそも論として今回の事案で刑法108条と109条のどちらが成立するのかという話からです。実行犯の甲からすれば乙は『人』ではあるので、『放火して』『現に人が住居に使用し』ている『建造物』『焼損した』として刑法108条の現住建造物放火罪が成立するようにも思えます。しかし、本件ではそうはなりません。なぜなら、これは法律上の解釈の問題になりますが、刑法108条に限った話ではなく『他人』『人』といった文言には犯人自身を含むことはありません。これは共犯関係に入った者にも同じことが言えます。つまり、甲と共犯関係にある乙の自宅を放火することは刑法108条の構成要件から外れるんですね。なので、刑法108条に規定する『建造物』以外の『建造物』『放火』することになるので、おおざっぱに言えば刑法109条の構成要件に当たることになります。そこから、刑法109条の1項と2項、どちらが成立するのかという話になります。原則論としては、刑法109条2項の『自己の所有に係るとき』という文言が本件のケースに当たるので109条2項が成立するというのがスタート地点です。しかし、本件では火災保険を騙し取るという特別な目的のために放火がなされています。このような場合には刑法115条による修正が入ります。『第百九条第一項』『に規定する物が自己の所有に係るものであっても、』『保険に付したものである場合』、という記載ですね。こうしたものを『焼損した』場合は、『他人の物を焼損した者の例による』とあります。そのため、原則として109条2項が成立すると思われた本件では115条による例外的な修正が加えられることで109条1項が成立する、ということになります。したがって、本件では最終的に『109条1項の非現住建造物放火罪が成立する』、ということになるのです。ここまでの立論を六法を参照することなく淀み無く試験官の誘導に沿って口述できれば晴れて満点、重判や調査官解説でも好きなだけ読んで知見を深めてくださいと言えたわけですが、貴方はまだその領域には到達していないということが分かりましたね」

 というように、先程自分が出した問題の解説をしていくことにした。ついでに、改めて重判や調査官解説に手を出すのはまだ早いと忠告を出した。

「もし今後、学習が進んで重判や調査官解説を読む余裕が出てきたのならば予備校が出している講座を取ることをお勧めします。独学で重判や調査官解説に書かれている内容を論証できるようになるまで理解を掘り下げるとなるとかえって非効率的ですからね。そこはその道のプロに委ねた方がいいというわけです。そもそも、重判や調査官解説といった文書は司法試験受験生のためだけに作成された文書ではありません。司法試験受験生だけではなく法律の研究者や実務家なども読むことが想定されている文書ですから、こうした文書を自分の血肉とするためにはいわゆる行間を読み取る能力が欠かせません。ですが、通常の司法試験受験生にその行間を読み取る力まで要求するのはあまりに酷というものです。逆に言えば、その行間を読み取る能力まで磨かなくても十分に司法試験は合格が可能な試験でもあるということなのですが。勿論、私のところにオフィス・アワーに来てくれれば重判や調査官解説を読み進めてもいいかチェックくらいはしますし、必要であれば重判や調査官解説の内容について解説もしようと思います。もっとも、私のオフィス・アワーに来たからには今回のように重判や調査官解説を読む資格があるか否か簡単なテストくらいはさせてもらいますが」

「分かりました。勉強の方向性について、もっと基礎的な部分からやり直そうと思います。どうもありがとうございました。」

 そう言って、脇坂は納得してオフィス・アワーの教室を後にした。

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「どうして重判やら調査官解説まで手を伸ばそうとするんですかねぇ。自分の使ってる基本的なテキストや過去問を検討するだけでも十分なくらい時間を取られるというのに」

 本日のオフィス・アワーを終えてTAの浅野はふとした疑問を漏らした。

「おそらく合格レベルに到達していない受験生が、情報戦で他の受験生より優位に立とうと彼らの中では『合理的な』選択をした結果なのかもしれませんよ。最先端の議論やマニアックな知識を押さえた方が合格に近づくのではないかというね。そう勘違いしてしまうのが既に司法試験の勉強の方向性を間違えている証左なのですが。業界の最先端の情報に触れることそれ自体が間違いとまでは言いませんが、それは一定以上の実力を持ってから、ということを忘れてはいけません。基礎もできていない状態で過度のトレーニングを積むと体をかえって壊してしまうのと同じことです。実力の劣る受験生はなんとか一発逆転を狙ってそうした最先端の情報に触れたがるのでしょうが、受験は王道が一番。地道に基礎基本を身につけることを疎かにしていい理由にはならないのです」

 そう言って桐生は締めくくった。

「なまじ合格者の中でも重判や調査官解説を読んだ方がいいという声もあるのも要因の一つなんですかね」

「合格者の情報の中にも玉折混合があるというか、合格者の中の『当たり前』と受験生の中の『当たり前』に乖離があることが一番の問題の気がしますね。合格者にとっての当然の『当たり前』を受験生が十分に身につけてもいないのにその先に無理に手を伸ばそうとするからかえって合格から遠ざかってしまうのです。その辺りを矯正するのが我々の仕事だとも思いますが」

「独学で勉強していればそうした情報からは物理的にシャットアウトされるからかえって効率のいい勉強ができたりするんですかね。なまじ法科大学院生ともなるとその気になればいくらでも重判や調査官解説といった情報にアクセスするのが容易だから、かえって司法試験の受験勉強には迂遠になっているのかも」

 浅野は桐生とのやりとりを経て私見を述べた。独学者や予備校利用者と違って蔵書へのアクセスに関しては法科大学院生が有利に立てるのであるが、こうした情報の取り扱い方を間違えるとかえって自分の勉強の妨げになると浅野は踏んだのである。

「それも何だか皮肉な気がしますね。重判や調査官解説閲覧の権限があるのは予備試験合格者だけにするとか、そうした権利制限もある種合法だと思いますがどう思います?その権利制約の根拠はパターナリズムに基づく制約ということになるのでしょうか」

 桐生は浅野に対して司法試験受験生に対する権利制約の正当性について議論を持ちかけた。

「少なくとも、受験勉強が他者の人権を害することは無いですから公共の福祉に基づく制約では認められないでしょうね。そうなるとパターナリズムに基づく制約って方向になると思いますけど、果たして成人に対する権利制約の根拠にパターナリズムの議論って援用していいものでしたっけ?普通パターナリズムって未成年の権利制約の場面で出てくる話ですよね」

 浅野は桐生の議論に乗ることにした。普段オフィス・アワーに学生が現れない時間帯に桐生と浅野の二人はこうした議論を時々交わしている。こうした議論をふっかけるのは、勿論桐生からである。

「私は業界を問わず受験生の人権や権利能力は制限されて然るべきと思っているので、パターナリズムに基づく制約を援用していいと思っているんですがね。問題は、私以外の人間にこの理屈を納得してもらうのか理屈を考えるのが面倒臭いということです。私の見解が世間の一般常識と合致すればいいのにと思うことってありませんか」

「『自分の見解=世間の真理になればいいのに』とはしばしば思うところではありますが、『受験生の人権や権利能力は制限されて然るべし』なんてこと、外では絶対に言わないで下さいよ。普通にSNSで炎上しても言い訳の仕様が無い発言だと思うので。まぁここだけのオフレコということで外で言い回したりしませんけど、もう少しその受験生へのパターナリズムに基づく制約とやらの話について、詳しい説明をしてもらってもいいですか」

 他の学生がいなくなったことで理性が外れ始めた桐生に対して危機感を覚えた浅野は一応のフォローのために桐生に自ら主張する理論についての詳細な説明を求めることにした。仮にも弁護士資格を保有している教員に対して弁明の機会を設けようとしたのである。そのことを知ってか知らずか、桐生は自説の補強を開始した。

「もう少し説明しますと、受験生諸君が誤った方向の勉強をしないように、講師やTAの指示に従ってもらう・こちらが指示していないことはさせないというのを強調した言い方になりますかね、『パターナリズムの制約によって受験生の人権・権利能力を制限する』という言説は。判断能力の未熟な受験生が自分で勝手な勉強をして時間やキャリアをドブに捨ててしまわないように、合格への道筋がある程度見えている合格水準にあるものの指示に従ってもらうというわけですね」

「なるほど。でも桐生先生ともあろう者がオフレコとは言えそういう発言をすることには些か疑問を感じざるを得ませんね。桐生先生はキッチリ受験生を指導・監督できるからある程度その受験生に対するパターナリズムに基づく制約という話にも説得力が生まれると思いますが、先生のその理屈の上っ面だけを取り上げた三流の指導者が自己の誤った指導を正当化する根拠に用いられそうな気がして怖いですよ。いわゆる『教育虐待』をしている親に加担するような理屈をわざわざ授けてしまっているような気もするのですが、その点はどう思います?」

 たとえ自分より立場が上であろうと、目上の者であろうと、その者の発言や行動について疑問に思うことがあれば臆することなく自分の意見をぶつけることが出来るのが浅野という人物の数少ない長所である。桐生は、浅野のそうした人格も見込んでTAとして自分の側に置いているのであるが。

「そういえば、『過干渉による教育がかえって子供を駄目にする』というネット記事があったことを思いだしましたが、あれは誤ったパターナリズムの一例だったのですね。それに、パターナリズムに基づく制約について根本的な疑問があったことを思い出しました。パターナリズムに基づく制約というのは判断能力が未熟な者に代わって国家がその者の親代わりとなって判断するという価値観が根底にありますが、肝心の親代わりとなる国家の判断能力が欠けている場合、誰がその権利制約を正当化してくれるのかという疑問が個人的にあるのですよ。…そう考えると、パターナリズムに基づく制約が正当化される場面というのは限定的に捉えた方が賢明なのかもしれませんね。パターナリズムに基づく権利制約の正当化が許されるのは、20歳未満の者に対する酒・タバコの禁止といったような文脈に限るべきで、教育の分野にまでパターナリズムに基づく権利制約を認めるのはかえって危険とみた方がいいのかもしれません」

「先生が軌道修正してくれる柔軟性を持ち合わせてくれてホッとしていますよ。オフィス・アワーや普段の授業がおかしなことにならないか少しヒヤヒヤしていましたよ」

 桐生は優秀な指導者であっても完璧な人間ではない。法律家の一人としてあるいは教員の一人として、TAの浅野をはじめ多くの学生達とオフィス・アワーや対話を通じて桐生自身も少しずつ成長を重ねているのである。今回の浅野との雑談で桐生はそのことを久しぶりに強く感じた。

「自分に実力が足りないと自覚している受験生が自ら『受験生たる自分は人権や権利能力を制限されるくらい勉強に打ち込まないと合格できない』と考える分にはまだいいかもしれませんが、他人がその理屈を振りかざすのは良くないと捉えた方がいいかもしれません。『有名税』という言葉を有名人本人が自分を奮い立たせるために使う分にはいいけれど、視聴者や消費者に過ぎない一般人がSNS等で有名人に対する誹謗・中傷行為を正当化させるためにその言葉を使うのは良くないという議論と本質は同じかもしれません。ある言葉を他者に危害を加える言い訳に使うようなことがあってはいけないという話ですね」

 桐生は自身が当初考えていた受験生に対するパターナリズムに基づく制約の理論について浅野の意見を取り入れた修正を加えつつ、話をまとめる方向に入った。

「そもそも、ただ講師に言われたことだけを盲信して受験を突破できるようになるなら苦労なんてしませんね。肝心なのは受験生自身が自分に足りない部分を自覚してそれを自らの手で補強することが受験の理想ですから。その理想に自力で近づくべきところを講師やTAが先んじて道を作ってしまうのは本末転倒のような気がしてきました。ですが、言うべきところはハッキリ言うスタンスは変えませんよ、私は。それがオフィス・アワーに質問しに来てくれた学生相手であればなおのことです。」

 こうして、今日も桐生のオフィス・アワーは終わりを迎える。そして、こうした日々の積み重ねが、いつかの大きな変化に繋がっていくことをこのときはまだ誰も知らない。

第6話


 司法試験というのは弱肉強食の世界である。司法試験の受験資格を得るまでにも法科大学院の修了か、予備試験合格という高いハードルを越える必要がある。これらのハードルを越えた先には、3日間の論文試験と最終日に行われる短答試験というハードルが待ち構えている。短答試験は最終日に実施されるにもかかわらず、各科目(憲法、民法、刑法)の最低ラインと三科目の合計点数の最低ラインという二つの足切りを超えられないと論文試験の採点をしてもらえないという、受験生にとっては無視のできないものである。

 司法試験においては(予備試験でもそうだが)論文試験が肝となるため受験生の受験対策としては論文対策がメインとなるのだが、短答対策を疎かにして足切りを喰らうことも珍しくはない。そうならないように論文と短答の勉強をバランス良く行う必要がある。しかし、全ての受験生が上手くこれらのバランスを両立した勉強ができるわけではなく、短答の足切りを突破できないまま司法試験業界から足を洗う者も珍しくはない。

 そして、司法試験による短答の足切りを突破できない弱者側の聖稜大学法科大学院生が辿り着く相談先が桐生のオフィス・アワーなのである。

 本日、桐生のオフィス・アワーに顔を出した牧野五朗も司法試験の短答試験という足切りを突破できずに苦労している学生の一人であった。彼は既に聖稜大学法科大学院を修了し、司法試験も2度経験しているが、どちらの試験も短答試験の足切りにあい不合格となっていた。一度目の試験では短答三科目の合計点数が最低基準点を上回ることができず、二度目は刑法の最低基準点を下回ってしまったことで不合格となっていた。流石に短答試験の段階で司法試験を不合格になるということは勉強の仕方が間違っているということは自覚していたので、具体的にどうすれば良いかを聞くために桐生のオフィス・アワーに足を運んだのである。

 ちなみに、法科大学院を修了してから司法試験の受験資格を喪失するまでの間、法科大学院修了生は「専門研究員」という肩書きを得て法科大学院の設備を通常の法科大学院生と同様に利用することができるようになっている。「専門研究員」などと肩書きは妙に格式張っているが、要はただの司法試験浪人生という名称をごまかしているに過ぎないのである。

 牧野は端的に自分の現状を桐生に告げた。

「そういうわけで、自分の勉強の仕方が間違っていると思って先生のオフィス・アワーに来ました。司法試験は論文試験が肝だから論文対策がメインになるといっても、短答で足切りを喰らってはどんなに論文の対策をしたところで意味はないと思うんです。とにかく、まずは短答を突破できるようになる勉強をした方がいいと思うのですが、その具体的な方法が分からないので先生に相談に来ました。先生、僕はどう勉強すればいいですか」

 桐生は牧野の話を聞いて訝しんだ。

「司法試験短答試験を突破する実力もないのに法科大学院を修了できたんですか。些か不思議な気もしますね。私だったらそんな者は100%留年させて基礎からみっちりたたき込んでやるところだったのですが、私の授業は取ったことなかったのですか?」

 桐生は牧野に対してそう毒を吐くと、TAの浅野にパソコンの操作を命じた。聖稜大学法科大学院のサーバーにアクセスして、学生の成績を詳細に調べることにしたのである。勿論、現役生だけでなく修了生のデータも記録されている。その記録を見ると、牧野は桐生の講義を受講していたようだが単位は不可となっていた。他の科目もギリギリの成績で単位を取得しているものばかりで、法科大学院を修了したのが奇跡と思えるような成績の低空飛行っぷりであった。

「おぉ、私の講義を取っていて不可を取るとは。他の講義で単位を埋め合わせて法科大学院を卒業することはできたようですが、肝心の司法試験合格のための実力は育めなかったというわけですか。私の講義を法科大学院修了のための必修科目にしてくれれば、司法試験に合格できないまま法科大学院を修了させるなんてことはさせなかったのですが。ただ、あまり法科大学院でも短答試験に重点的に力を入れた講義なんてしませんものね。それこそ、予備校の独壇場というか。そういう意味では、貴方ばかりを責められませんね。」

 桐生は半ば呆れ、半ば自己反省の意を込めて発言した。一方的に桐生に言われてばかりで牧野は何か言い返してやりたいとも思ったのだが、そう言われても仕方のない負の結果を出し続けているのは事実なので、何も言い返さずに黙って桐生のいうことを聞いていた。

 牧野の心情を知ってか知らずか、そんなことはお構いなしに桐生はオフィス・アワーを続けていく。

「短答試験を突破できないのは大きく分けて二つの場合が考えられます。一つは単純に勉強時間が圧倒的に足りず司法試験突破レベルの基礎力が身についていないこと。この手の受験生に論文試験を解かせても碌でもない答案が出来上がるのがオチです。いや、そもそも実質白紙答案が出来上がっても珍しくはないでしょう。もう一つは、勉強時間自体は十分に確保していても努力の仕方をどこかで間違えているということ。論証の記憶にばかり時間を割いて、条文や判例知識を軽視したり制限時間内に短答試験を解ききる訓練をしなかったりといったところでしょうか。短答試験は満点を取る試験ではなく合格最低点を上回る試験ですから、多くの受験生が解けない問題を上手く回避して受験生だったら絶対に落としてはいけない問題を見抜く訓練を積むことが不可欠です。」

 そういうと桐生は、オフィス・アワーを実施している自身の研究室から用紙を取り出し、手書きで何かを書き出した。そして、その何かを書き終えた桐生は牧野にその紙を手渡してこう言った。

「口頭で答えても手書きで答えてもどちらでも構いません。どちらかお好きな方で答えてください。その用紙に書かれた問題について何も見ないで答えてください。」

 桐生から問題用紙を受け取った牧野は早速頭をフル回転させることになった。問題文には、以下のような設問が掲げられていた。

設問1 民法上の留置権(民法195条1項本文)の成立要件を答えよ。

 設問2 債務不履行に基づく損害賠償請求権(民法415条1項本文)の要件を答えよ。

 設問3 事務管理(民法697条1項)の成立要件を答えよ。また、緊急事務管理(民法698条)の成立要件を答えよ。

 設問4 不法行為(民法709条)の成立要件を答えよ。

 設問5 債権の消滅時効(民法166条1項)と不法行為による損害賠償請求権の消滅時効(民法724条)について答えよ。

 設問6 株式会社の役員等の株式会社に対する損害賠償請求権(会社法423条1項)の成立要件を答えよ。また、株式会社の役員等の第三者に対する損害賠償請求権(会社法429条1項)の成立要件を答えよ。

 設問7 株主総会等の決議の取り消しの訴えについて、会社法831条1項各号に掲げられる取消し要件を全て答えよ。

 設問8 行政処分の執行停止の申立て(行政事件訴訟法25条2項本文)の要件について答えよ。

 設問9 行政事件訴訟法における義務付けの訴えと差止めの訴えの訴訟要件(行政事件訴訟法37条の2第1項、行政事件訴訟法37条の3第1項、行政事件訴訟法37条の4第1項)をそれぞれ答えよ。

 設問10 行政事件訴訟法における仮の義務付け(行政事件訴訟法37条の5第1項)、仮の差止め(行政事件訴訟法37条の5第2項)の申立て要件について答えよ。 』

 問題用紙を牧野に渡した桐生は補足するようにこう付け加えた。

「とりあえず即興で思いついた、最低限これくらいは頭に入れておいて欲しい法律の要件を並べてみました。本当はまだまだ数え切れないくらい確認したいことはあるのですが、まずは小手調べということで。科目も特に限定はしていません。論文試験は六法が貸与されるから条文の暗記は不要と思っているかもしれませんが、合格レベルにある者はおおよそ大事な条文の番号とそこに記載されている要件・効果はキッチリ頭に入っているものですよ。そんな条文をいくつか羅列してみました。司法試験では憲法・民法・刑法の短答がありますからこれらの暗記は避けられないでしょうが、私としては予備試験の突破を目指して欲しいと思っているわけです。そうなると、商法や民事訴訟法、刑事訴訟法、行政法の暗記からも逃げないで欲しいと思うわけです。ちなみに、進路選択の一つとして行政書士試験の受験を考えているなら、憲法、民法、行政法の記憶は避けては通れませんよ。行政書士試験は司法試験と違って六法の貸与が無い試験ですから。」

 桐生の補足説明など、牧野の耳には素通り状態であった。最初の1問目から何も見ないで答えられる自信が無かったからである。問題文には条文の番号がわざわざ振ってあるからそれを参照すれば答えられそうだが、その該当の条文を探すことさえもプロの法律家や合格者のようにさっさとめくることはできないだろうことが容易に想像できた。

 しばらく目の前の問題の四苦八苦している牧野の様子を見てから、桐生は口を開いた。

「はい、とりあえずいったんそこまで。貴方の現在の問題を検討する処理速度を見るに、このままでは司法試験本番では全然使い物にならないでしょうね。せっかく六法を貸与されていても六法をめくるだけで少なくない時間を浪費して途中答案を仕上げてしまうことになるでしょう。あるいは、そもそも試験合格に必要十分な条文や判例の知識がしっかりと身についていないために、問題文を見てもあさっての方向に問題文を捉えてしまい、試験委員の求めている答案とはズレた答案を作成してしまうリスクが高いことでしょう。こうなってしまう原因は、恐らく根本的な勉強法が身についていないからだと思われます。失礼を承知で尋ねますが、貴方は、大学入試の受験勉強も相当苦労したのではないですか?」

 牧野は、自分の受験経歴を知らないはずの桐生が自身の受験勉強に苦労したという過去といま現在進行形で苦労しているという状況を見事に言い当てたので、思わず身震いをしてしまった。桐生という目の前の教員をこれほど恐ろしいと思ったことはいままでなかったのだが、逆に言えば今まで桐生のことを恐ろしいと思うほど自分は受験勉強をしてこなかった・受験勉強から逃げてきたとさえ思うようになり、牧野はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 「成る程、図星というわけですか。ですが、安心して下さい。今まで出来なかったとしてもこれから出来るようになればいいんです。これから、その方法を伝授しようと思います。」

 そういうと桐生は手近にあったA4サイズの無地の紙とボールペンを取り出した。そして、その無地の紙の真ん中に大きめの字で「即時取得(民法192条)」と書き出した。

 「では、これからある程度法律学習の経験のある人向けの学習方法について伝授してみましょうか。先に言っておくと、わたしがこれから行う学習方法のことを『メモリーツリー』といったりします。『ドラゴン桜』という東大受験漫画を読んだことがあればもしかしたら聞いたことがあるか、見たことがあるかもしれません。その『メモリーツリー』を司法試験勉強、というより法律学の勉強に活かすとするとどのような形になるのか、これから私が実演してお見せしたいと思います。具体的には、これから民法192条の即時取得の知識及びその周辺知識がどれ程身についているのかアウトプットを兼ねたセルフチェックしつつ、インプットのきっかけを作る作業をしたいと思います」

 そう言うと桐生は近くに置いてあった司法試験用の六法を取り出して、民法192条が記載されてある頁を素早く見つけて先程の「即時取得(民法192条)」と書かれた文字の周囲に、即時取得の成立要件である「取引行為」「平穏に、かつ、公然と」「動産」「占有」「善意」「過失がない」といった文字を書き足していきこれらの文字を丸い枠で囲った。そうすると、今度は「平穏に、かつ、公然と」と「占有」と「善意」と書かれた文字の上に「占有態様の推定(民法186条1項)」という文字を書き、この文字を先程の3つの即時取得の要件とを線で結びつけた。また、「占有」という文字の書かれた右側の余白部分に「占有改定(民法183条)」と「指図による占有移転(民法184条)」という文字を書き、これら2文字を先程の「占有」と書かれた部分とを線で結び始めた。すると、桐生の筆が一瞬止まり、しばらく考えた後で「占有」という文字と「占有改定(民法183条)」という文字を結んでいた線の上に大きく「×」の印をつけた。また、桐生は一度六法を見直すと、今度は赤ペンで「代理占有」という文字を「占有」という文字の書かれた右上の余白に書き込んだ。その作業が終わると、桐生はまた少し考え込んだ後で、「取引行為」という要件の書かれた文字の下側の余白に「相続」という文字を書き込み、それに加えて「相続」という文字の下側の左右の余白に「一般的・通常の相続」「例外的相続」と書き込んだ後に六法で相続の項目を検索し始めた。間もなく相続に関する条文を見つけた桐生は、一瞬「あ」という声を漏らした後で赤ペンを取り出し、「例外的相続」と書かれた文字の上に赤ペンで大きく「×」印をつけた上でその×印の近くに赤ペンで「遺言と勘違い」とメモ書きと思われるものを書き残した。その光景を見た牧野は「桐生先生でも間違えることはあるんだなぁ」と意外に思ったが、そんなことを牧野が思っていることを桐生は知ってか知らずかお構いなしに、「一般的・通常の相続」と書かれた部分の周囲に「単純承認(民法920条)」「法定単純承認(民法921条柱書)」「限定承認」という文字を書き足していった。「法定単純承認なんてあったっけ?」と内心焦ってしまった牧野であったが、やはりそんな牧野の心情など気にすることもせず目の前の作業に桐生は集中し続けていた。桐生は赤ペンで「法定単純承認」と文字の書かれた周囲の余白に「①相続人が相続財産の全部または一部を処分したとき」「②相続人が第915条1項の期間内に限定承認または相続の放棄をしなかった」「③相続人が、限定承認または相続の放棄をした後であっても、相続財産の全部若しくは一部を隠匿し、私(ひそか)にこれを消費し、又は悪意でこれを相続財産の目録中に記載しなかったとき」と書き加えた。最初は白紙だった用紙も段々と文字で埋まっていき、書くことも無くなってきたかと思いきや、桐生は「動産」と書かれた文字の横に反対の矢印をつけてその矢印の先に「不動産」という文字を書き加えた。すると桐生はまた再び六法を開いて、今度は民法85条以下を検索し、「動産」と書かれた文字の上に「不動山以外の物」という意味の印をつけて「民法86条2項」とメモを書き加える。次に、「不動産」という文字の下に「土地及びその定着物」と書き、余白に「民法86条1項」と書き加えた。そして、「動産」「不動産」をつなげた線を引き、その真ん中に「物(民法85条)」という文字を加えると、一度桐生はペンを止め何事かを考えた後に赤ペンに持ち替えて「物(民法85条)」と書かれた項目の上に「有体物」と書き込み、更にその上の余白に細々としたメモを書き加えていった。こうして、「とりあえずはこんなものでしょうか」といい、完成したメモリーツリーを牧野に見せてきた。完成したメモリーツリーはこのようなものである。

即時取得のメモリーツリーイメージ図

 「さて、とりあえずメモリーツリーの見本のようなものができましたので、これの作成過程を説明していきたいと思います。よかったらそれは差し上げますので、それを見ながら適宜メモするなり好きに使って下さい。」

 そういうと桐生は完成したメモリーツリーを牧野に手渡し解説を始めた。牧野は手渡されたメモリーツリーを見てもこれがどういう意味なのかさっぱりわからなかった。

 「そのメモリーツリーを見てもよく分からないといった顔をしていますね。それはある意味では当然です。なぜなら、そのメモリーツリーというのはある意味で私の脳内を可視化したものと言えるものですから、そのメモリーツリー上に書いてあることは書いた私にしかわからないというのがポイントです。基本的にこのメモリーツリーというのは他人に読んで理解してもらうことを目的として作成されたものではなく、あくまで自分の理解と記憶の確認のために作成するものですから、作った自分が後で理解できれば問題ないのです。それでは、これから本格的に私がどのような思考回路を経てそのメモリーツリーを作成したのか、説明したいと思います。」

 「メモリーツリー」という言葉自体は聞いたことがあったが、今までその実物を見たことも作り方を教えてもらったこともなく、ましてや自分で作ってみようとしたこともなかった牧野は、初めて法律を勉強した時のことを思い出しながら桐生のメモリーツリーの作成過程を聞くことにした。

 「今回は民法192条の即時取得をメインテーマにメモリーツリーを作成することにしたので、まず真ん中に大きく『即時取得』という文字を書き、そこから即時取得に関連することを思い出しながら、『即時取得』と書かれた文字の周囲に情報を追加していきます。最初に追加すべき情報は何かと言えば、条文の要件です。短答試験を突破する上でも、論文試験で問題を検討する上でも、司法修習中や実務家になってから要件事実を検討する上でも条文の要件や効果といったものはとても大切ですから、こうした最低限の知識がしっかり頭の中に入っているか確認することは大切です。そういうわけで即時取得の要件を書いていくわけですが、このメモリーツリーを作る上であえて条文で列挙されている順番通りに要件を列挙することはしませんでした。それは何故かと言えば、即時取得の要件のうち『平穏に、かつ、公然と』という要件と『占有』という要件と『善意』という要件は、『民法186条1項により推定が働く』という知識が予め頭に入っていたので、これらの知識を結びつけようとしました。その結果、まず『即時取得』と書かれた文字の上の方の余白に即時取得の要件である『善意』『平穏に、かつ、公然と』『占有』という文字を書き加えました。さらに、これら3つの文字を『占有態様の推定(民法186条1項)』という文字で結びつけることにしました。これで、即時取得の勉強をしながら『占有態様の推定』という知識も連鎖的に学ぶことができるという確認ができます。ついでに、民法186条1項の条文を見ると『所有の意思をもって』『占有をする』とあるので、メモ書きとして『占有態様の推定(民法186条1項)』と書かれた文字の余白に『所有の意思をもって』という言葉を付け加えました。今回のメモリーツリーではこれ以上の深追いはしませんでしたが、2回目以降の即時取得のメモリーツリー作成の際に『占有態様の推定』について知識を深掘りしたければ、『占有態様の推定』について知っていることを深掘りしたメモリーツリーを作っても構いません。あくまで現在の自分の記憶がどこまであるのかを図るのがメモリーツリーの目的ですから、全く同一のメモリーツリーを作る必要はありません。上手なメモリーツリーとは何かというのは千差万別でしょうが、私が一つ思うのは、一つの項目に複数の情報が書き込まれているメモリーツリーなのではないかと思います。それは何故かというと、複数の情報が書き込まれている項目というのは、どのような角度から問題を出されてもその項目のことを答えることができることに繋がるからです。単純な一問一答形式の知識ではなく、有機的・立体的な知識の横断ができることが短答試験や論文試験突破の鍵の一つと言えるでしょう。そのための訓練に最適なのが、メモリーツリーなのです。」

 「話の途中で申し訳ないのですが、このメモリーツリー作成に六法などの条文を初めから見てもいいのでしょうか。あるいは、六法以外の基本書や予備校のテキストを見ながらメモリーツリーを作成してもいいものなのでしょうか。」

 人生で初めてメモリーツリーの作り方というものを教わったので、牧野は前提となる部分から質問を始めた。今までオフィス・アワーを活用してこなかった牧野はこれまで知るよしも無かったが、目の前の桐生という教員は他の教員とは異なり、遠慮も容赦も無く学生にダメ出しもするだろうが、学生から問われた質問にはどこまでも真摯に答えるのだろうと確信して、自分でも慣れないながらも質問できることは質問しようと決意したのである。

 牧野の質問も当然予想の範囲内にあったとでも言わんばかりに桐生は牧野の質問にこう答える。

 「そうですね。そのメモリーツリーを作成する目的によってどの程度までテキストを参照していいかは変わってくると思いますね。まず、知識がしっかり身についているか確認するためには六法も含めて何も見ないという縛りを課すことが考えられます。何も見ない状態でどこまでメモリーツリーを埋められるか確認するためです。全然メモリーツリーを埋められないということはその分野の知識や周辺知識・関連知識も全然頭に入っていないという証拠ですから、そのことを自覚してから六法や基本書・テキストを見れば漠然とこれらの書物を眺めているときよりも断然頭にその内容が入ってくると思います。また、こうして読んだテキストの内容で、特にこれは記憶した方がいいと思った内容についてメモ代わりにメモリーツリーに書き込んでいくというのもいいと思います。そして、2回目以降のメモリーツリー作成の際に先程のメモの内容を再現できるか、何も見ないで確認するといったことをしてみます。こうした作業を何回か繰り返すことで、自然と条文や論点の知識も深まっていくと思います。それも、ただ知識が増えるのではなく、ある知識が別の知識と紐付いて増えていくので、忘れにくく思い出しやすい、本物の知識として今後の受験勉強もだいぶ優位に進められるようになり、何より勉強を『楽しむ』余裕さえも生まれてくると思いますよ。」

 「なるほど。ありがとうございます。質問ついでにここまで聞いていいのかわからないのですが、どうしてメモリーツリーなんて便利な学習方法を誰も教えてくれないのでしょうか。各科目の勉強以前に勉強方法の総論みたいなことも教えてもらえないと、僕みたいな要領の悪い人間はいつまで経っても試験に合格できる気がしないのですが」

 自分で言ってて情けなくなったが、事実なのだから仕方がない。そんなことはお構いなしに、桐生は回答を続ける。

 「そうですね。これはあくまで私見になってしまうのですが、日本の教育というのは、知識を一方的に教える・与えるということに関心はあっても、その知識をどう定着させるかという方法論についてはほとんど目を向けてこなかったということが考えられます。学校で知識は授けるから、その知識の定着は各自でやれというか、自宅の家庭環境でどうにかしろという暗黙の棲み分けがあったのではないでしょうか。または、勉強方法というものは自明のものとされているからあえてわざわざ教壇で教える必要は無いという言説がまかり通っているのか、あるいは、むしろ勉強方法を教えたくても教えられないということもあるかもしれません。教壇に立つ先生方は自分が教える科目が好き、若しくは少なくともその科目については勉強するのが得意という人が多いですから、その前提となる科目の知識を身に付けるという方法論はあまりにも自明すぎて、わざわざ知識の身に付け方を教えるということは皆当たり前のように出来るだろうという前提が当然のものとして授業が組み込まれている気がします。私自身の学習環境では体験しませんでしたが、上位の私立進学校や両親が高学歴の子供の場合は、効率的な学習ノウハウが受け継がれているということもありうるのかもしれませんが、大多数の人にとっては、人から直接勉強方法を教えてもらう機会が無いというのが現実でしょう。とはいえ、不幸中の幸いと言うべきでしょうか、書店の『自己啓発本』だとか『勉強法』といったコーナーの本棚を見れば、こうした勉強法に関する本はいっぱい置いてあります。例えば、私の手元にある本でいえば、『東大生のノートから学ぶ天才の思考回路をコピーする方法』(片山湧斗著、JMAM)という本があります。この本を貸してあげますから、これでいくつか勉強法というか、勉強が出来る人のノートの取り方を参考にしてみて下さい。勿論、『メモリーツリー』についても言及していますから安心して下さい。この勉強方法に変えて3ヶ月も継続すれば、良い方向の学習成果の変化が見られることになるかと思います。」

 「なるほど、わかりました。ありがとうございます。オフィス・アワーの後でじっくり読んでみます」

 桐生から『東大生のノートから学ぶ天才の思考回路』という本を受け取った牧野は、今度の休みに大型書店で勉強法に関する本を眺めてみようと決意した。この時点で闇雲に法律を勉強しようとしていた牧野の意識は変わったとも言える。

 「さて、とりあえずの質問もなくなったようですので、先程の即時取得のメモリーツリーの作り方の説明の続きを再開したいと思います。『占有』と書かれた項目の右側に余白があったので、占有に関する論点でも書こうかと思いましたので、占有に関する条文として『民法183条の占有改定』『民法184条の指図による占有移転』というのがありますので、これらを先程の『占有』という項目に結びつけることにします。ここで、即時取得の論点の一つとして『占有改定は192条の占有に含まれるのか』あるいは『指図による占有移転は192条の占有に含まれるのか』といった論点が思い出されることでしょう。判例によると、前者の占有改定の場合は即時取得を認めず、後者の指図による占有移転の場合は即時取得を認めるという結論でした。理由としては、第三者から見て占有が移転したと言えるかがポイントになります。占有改定の場合は第三者から見て占有が移転したとは見てわからないのでこういう場合に即時取得は認めない、逆に指図による占有移転の場合は第三者から見ても占有は移転したと言えるので、即時取得は認められるといった理解になりますね。こうした結論の差異を表すために、『占有』という文字と『占有改定(民法183条)』を結ぶ線の間に大きな『×』を加えることで、占有改定の場合には即時取得は成立しないということを示しています。もし占有改定や指図による占有移転の理解が扶桑している場合なら、余白に占有改定と指図による占有移転の簡単な図表を書くというのもメモリーツリー作成には有効です。法律学習は概念を文字だけで理解するのではなく、それを具体的な図式に表してみせることも有効な学習法の一つですし、漫画『ドラゴン桜』で紹介された『メモリーツリー』では文字の他に簡単なイラストをつけることで記憶の補助としているものもあります。問題文の事実関係や法律論の特定の用語がどういう状況を示しているのか図式化する訓練を積んでみるというのも学習法としてメモリーツリーに取り入れても良いでしょう。もっとも、私が今回作成したメモリーツリーについてはイラストは省略されていますが、もし今後御自分でメモリーツリーを作成する場合には理解が不足している法律知識についてはテキストなどを参照にしつつ図表やイラストを追加するのも良いと思います。」

 「また質問なんですけど、イラストや図表というのは上手く作った方が良いのでしょうか」

 「メモリーツリーはあくまで自分が理解できればいいので、図表やイラストが多少いびつでも自分がきちんと記憶や理解が出来るのであれば上手さに拘る必要はないですね。それにイラストや図解はあくまで記憶が出来ていない分野を暗記するための補助として用いるものなので、既に理解・記憶している分野のものについては文字情報だけで完結させるなど、情報の質によって何を書くべきか・書くべきでないか取捨選択する必要はあると思いますよ。完璧なノートを作ることに拘り始めてしまうとかえって非効率な勉強になってしまいますから。あくまでメモリーツリーは効率的な勉強をするための手段に過ぎませんから、良いメモリーツリーを作るためという風に目的を勘違いしてはいけません。」

 「わかりました。気をつけます。」

 「では、また改めてこのメモリーツリー作成の続きから説明したいと思います。占有に関する六法の項目を見ると、そもそも占有権の取得という原則論が民法180条にあったので、念のためメモ書きとして192条の『占有』に紐付けて民法180条のことを付け加えました。あと、占有の種類として民法181条に『代理占有』というものがあったことをうっかり失念してしまったので、こうした頭から抜けている知識については赤ペンでメモを記入することにしています。こうすることで、次回以降そのメモリーツリーを見た時に、赤字になっている部分を重点的に基本書やテキストを読むなり六法の条文に目を通すなり、過去問で重点的にチェックするなり、意識を強く向ける動機付けにします。こうした作業を繰り返すことで、自分の弱点になる分野を逐一潰していきます。とりあえず、このメモリーツリーにおける『占有』の説明は、こんなところでしょうか」

 ここまで桐生が説明しても、メモリーツリーの説明は4分の1程度の分量の説明に過ぎなかった。メモリーツリーは上手く使えばA4サイズでも十分な情報量を詰め込める魔法のアイテムになり得るかもしれないと、牧野はメモリーツリーの可能性に魅力を感じているところであった。

 「さて、長くてうんざりするかもしれませんが、即時取得のメモリーツリーの説明の続きです。即時取得の要件の一つである『取引行為』についてです。『取引行為』の具体例として、例えば売買契約が思い浮かびましたが、それはあまりにも自明すぎることなので、あえてこのメモリーツリーでは書きませんでした。その代わり、私の短答試験を解いた記憶では、『取引行為』にあたらないものの具体例として『相続』というものがあったので、メモリーツリー上では『取引行為』に反対の矢印をつけて『相続』という言葉を付け、相続について深掘りするメモリーツリーを作ることにしました。私が作るメモリーツリーの特徴の一つは、頭で思いついたことをどんどん書き加えていくことです。普通のテキストでは、即時取得という項目で『即時取得と相続』という論点自体は簡単には紹介されるでしょうが、そこから相続について深掘りすることはほとんどないでしょう。しかし、メモリーツリーではそういった項目の縛りというのはなく、何なら科目を飛び越えて知識を結びつけることでより試験科目の深い理解を促すことも可能になります。その点についてはあとでもう少し詳しく説明しましょう。メモリーツリーで『相続』という項目を作った後で、私はうかつにも『一般的・通常の相続』『例外的相続』という項目立てを立ててしまいました。相続は①単純承認と②限定承認か、③相続放棄のいずれかしかなく、例外的な相続というのはないという基本的な知識を勘違いしていました。『例外的相続』というのは私の中で『遺言状』について一般的なものと例外的な状況の下で作られるものの2通りがあるという知識と混同していることに気がつきましたので、『例外的相続』という項目については赤ペンで『×』印をつけて修正しました。メモリーツリー作成の段階でポイントの一つになるのは、もし何か間違いをしてしまったときは、消しゴムや修正液などで修正するのではなく、赤ペンなど間違った跡が見えるもので修正した方が良いということです。何故自分が間違えたのか、その原因を正確に把握することで以降の間違いを減らすためです。間違うにしても今後に活かせる間違い方をしましょうということです。で、『一般的・通常の相続』の項目について六法を確認しながら『単純承認』『限定承認』を線で結び、反対矢印をつけた先に『相続放棄』と付け加えました。そして、『単純承認』の先に『法定単純承認』という項目を付け加えました。法科大学院で教員を続けていくと、意外にも相続の法定単純承認の細かい要件については詳細に取り上げることもなくなるので、私も受験生時代には覚えていた要件もつい失念してしまいました。そこで、覚えるべき条文の要件については、多少長くなっても赤ペンを使って写経するようにしています。こうすることで、全文を一字一句間違えることなく暗記をすることは不可能でも、大体こういう条文がこの辺りにあるという記憶には残りますので、次回以降の学習の際に思い出しやすくなり、やがては確たる知識として自在に使いこなせるようになるでしょう。」

 そこまで説明すると桐生は何事かを思いついたか、あるいは思い出したように「あぁ~」という声を漏らした。牧野は何事かと疑問に思ったが、桐生はそんな牧野の様子を気にすることなく話を次に進めた。

 「あぁスイマセン。よくよく考えたら、このメモリーツリーは即時取得をテーマにしていながら、即時取得に関する大事な条文について言及していなかったなぁと一人で反省していたところです。ある意味ではこのメモリーツリーを作成するにあたっては、まず相続の知識よりも先に出さねばならない、短答的な意味でも重要な知識です。後でその確認なんかも込めて簡単にテストしますから覚えておいて下さいね」

 テストという単語を聞かされて牧野は少しげんなりした。いくつになっても、何度経験しても、テストというのは嫌な響きのあるものだ。まして、桐生先生のオフィス・アワーで、桐生先生を目の前にして行われるテストとなると一層萎縮してしまう。しかし、こうした壁を乗り越えてやっと司法試験受験の入り口に立てるようになるのだろうと、牧野は桐生の発言をなるべく前向きに捉えられるように密かに内心で努力していた。

 「テストと言ってもそこまで厳しいものではありません。何なら六法を見てもいいです。あくまでこれはオフィス・アワーの一環ですから。さて、そのテストをする前にせっかく作ったこのメモリーツリーの説明を終わらせてしまいましょう。長かったかもしれませんがもう少しです。」

 そう言うと桐生は一息入れて、「即時取得」のメモリーツリーの最後の説明に入る。

 「では、即時取得の最後の要件である『動産』についてですね。動産については正直そこまでメモすることはありませんでした。せいぜい六法をめくって『不動産以外の物』という知識を付け加え、『動産』に対して『不動産』とは『土地及びその定着物』という知識をメモ書きし、それぞれの根拠条文として民法86条の2項1項というメモを付け加えました。」

 ここまで桐生は淡々とメモリーツリーに記入したことを説明していたが、ここから先は桐生が熱量を込めて説明をしているのだということが牧野にも伝わった。桐生は「動産」「不動産」の説明をした後でこのようなことを言い出したのである。

 「そして、わたしは突発的にふとある疑問が思いついてしまったんです!メモリーツリーを作成してみると、当初自分でも予想だにしていなかった発見があるといいますか、法律学の面白さというものを再発見させてくれるような不思議な魅力があるのです。その疑問は何かというと、『はたして会社の株式というのは民法上「動産」に含まれるのか』ということです。民法86条だけを見れば不動産以外の物は動産ですから、定義上株式は動産という結論になりそうです。ですが、そもそも『物』とは何かという疑問にいきつくと民法85条という条文がありました。民法85条によると、『「物」とは、有体物をいう』のだそうです。わざわざ株券を発行しているような特殊な場合は、株式は『有体物』にはあたりそうですが、基本的には株式というのは株式会社の構成員としての地位ないし権利というのが通説であり、その通説からすると『有体物』にはあたらなさそうですから、私はメモリーツリーの『有体物』というメモ書きの上に反対矢印をひいてその先に有体物ならぬ『無体物』という私オリジナルの造語を作り具体例として様々な権利を列挙して書きました。『知的財産権』『漁業権』『採石権』といった権利と同様に、株式は民法上動産の定義には当てはまらないということが言えそうだという発見をしたのです!勿論、民法の学説上は管理可能性説などを採用して『動産』の解釈を広げて会社の株式を『動産』に含めるといった説もあるかもしれません。この辺りの詳しいことが聞きたいというのであれば、私以外の民法の先生に尋ねてみて下さい。あと、念のために補足をしておくと、民事執行法上の『動産』は民法上の『動産』よりも広い定義付けがなされているのでその辺りも注意して下さい。とにかく、私がここで伝えたかったのは、能動的に六法を参照しながらメモリーツリーを作成する作業というのは、法学の基礎・基本を身に付ける上でとても有効ということです!漠然と基本書やテキストを読み込んだり問題演習をしているよりも有益ではないかということを理解して欲しいですね!」

 
 普段の桐生の法科大学院での講義は基本的に淡々と落ち着いて説明を丁寧に尽くすといったものであり、感情的に熱を込めるといったことは滅多にしないので、熱量を込めて説明を尽くす目の前の桐生の姿に牧野は圧倒されていた。そんな牧野の様子を気にすることはなく、桐生の指導は続いていく。

 「さて、そんなこんなで即興で完成させた即時取得のメモリーツリーなのですが、自分で作っておいてこういうのも何ですが、あまりこのメモリーツリーは褒められたものではありません。即時取得をテーマに作成しておいたにもかかわらず、即時取得に関するある大事な規定の存在がすっぽり抜け落ちてしまっているのですよ。その規定がなんなのか、わかりますか」

 ここに来て急に問題を出題されて牧野は少し驚いた。そういえば後でテストすると桐生先生が言っていたがこのことかと牧野は思い出した。ただ、初めて桐生のオフィス・アワーに来たときとは違い、だいぶ桐生のオフィス・アワーの雰囲気にも慣れてきた牧野は、落ち着いて即時取得の周辺条文の知識を思い出していた。そして、程なくしてこう答えた。

 「民法192条の後の条文に、具体的には民法193条と194条に即時取得の目的物が盗品または遺失物であった場合の特則が規定されていたので、その条文に関する知識が抜けています。」

 牧野は多少自信ありげに答えた。先程は不甲斐ない姿を桐生に見せてしまったが、こちらも伊達に長く勉強をしてきたわけでは無いのだ。落ち着いていれば、最低限の知識は持っているのだ。それを証明できたと思ったが、桐生の追求はそう甘くはなかった。

 「あぁ、成る程。たしかにその条文も大切ですね。民法193条・194条に関する知識も入れておいたほうがより即時取得をテーマにしたメモリーツリーとしてはいい出来になったかもしれません。ですが、もっと直接的に即時取得の成立に関係する条文があります。もっと言えば、条文には書かれていない即時取得の成立要件もありました。それが何なのかわかりますか?」

 牧野が先程まで持っていた自信は簡単に崩れ去ってしまった。先程の条文の指摘で完璧だと思っていたのでショックはなかなか大きかったのである。しかし、そんなことは桐生は慮ってくれないと思ったので、仕方なくもう一度手元のメモリーツリーに目を通す。すると、即時取得のメモリーツリーに一つ気になるところを発見した。

 「即時取得の成立要件の中に『過失がない』っていうのがあるんですが、たしか無過失の推定が働く条文か何かがあったはずです。民法186条1項の中では無過失までは推定されないことは間違いないっていうのは覚えているんですが、正直どの条文で無過失が推定されるのかまでは、ちょっと覚えてないですね。あと、条文に書かれていない要件っていうのも、すぐにはパッと思いつかないです。」

 桐生が書き忘れていたような要件を自分がすぐに完璧に思い出せるわけがないだろうと思いながら、精一杯自分の中で覚えている知識を総動員して牧野は答えた。牧野の解答に対して、桐生は今までと比べると少し落ち着いたトーンで答え始めた。

 「まぁ、本来は私自身もメモリーツリー作成時点で気付くべきだったので、あまり深く問い詰めることは今回に限り特別にしないことにしましょう。ですが、予備試験や司法試験合格者レベルにある人間はこれくらいは問題なく答えてくるところなので、キッチリ復習して下さいね。間違いは放置してはいけません。後でそのメモリーツリーに赤ペンで加筆修正して下さいね。」

 桐生自身も自分が即時取得の要件を完全には書き切れていなかったことに少なからずショックを覚えているようで、あまり牧野を厳しく追及するようなことはしなかった。ただ、失敗を機転にして新たに問題を作ろうと気を取り直して目の前の牧野のオフィス・アワーに取り組もうとした。そして、桐生の補足説明はまだ続いていく。

 「民法の推定規定は即時取得の要件だけでなく、時効等の分野でも要件成立に関わってくるものですので、今回のオフィス・アワーでキッチリ確認しておきましょう。占有の態様については先程から確認しているように、民法186条1項により推定されます。具体的には、『所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する』ということなので、民法186条1項だけでは無過失までは推定できないというのは、確かにその通りです。では、他に占有に関する推定規定がないかと探してみると、民法188条という規定があります。読み上げてみますと、民法188条は『占有者が占有物について行使する権利は、適法に有するものと推定する』とあります。直接的に『過失がない』あるいは『無過失』と規定されているわけではありませんが、『適法に有する』というのを『過失がない』あるいは『無過失』と解釈することで、民法192条の『過失がない』という要件は民法188条によって推定される、という結論に至ります。一方、条文にはない即時取得の要件ですが、これはズバリ言ってしまうと取引の相手方が目的物に対して『無権利者』であることです。取引の相手方が所有権などの権利を有する権利者である場合に民法192条の他の要件に当てはまる取引行為をしたとしても、それは即時取得の成立を論じるまでもなく、通常の承継取得が成立するだけなのです。なので、論文試験で即時取得の成立を検討する場合はまず取引の相手方が無権利者であるか否かを検討することになります。そうしないと、通常の承継取得が成立する取引と即時取得が成立しうる取引とを混同しているのではないかと採点者に誤解を与える恐れがありますから。即時取得の成立要件として、条文の要件を検討する前に当然の前提として取引の相手方が無権利者であることに注意を払うようにしましょう。」

 桐生の説明を聞きながら牧野は赤ペンでメモリーツリーに桐生の補足説明を追加していった。これで、即時取得のメモリーツリーはより完成度の高いものとなったと牧野は思った。それに対して、桐生はまだ補足説明を続けた。

 「はい、これで何とか即時取得をテーマにしたメモリーツリーというのは基本的な知識については抜けなく完成したと言えるでしょう。ですが、補足知識の追加や、改善の余地はまだまだあると言えます。例えば、これは連想ゲームのようになってしまいますが、『取引行為』にあたるものの具体例、逆に『取引行為』にあたらないものの具体例というものをもう少し考えていきましょうか。ではまず、『取引行為』の具体例というものにはどのようなものがあるか、挙げられるだけ挙げてみてくれますか」

 桐生からそう言われて、まだ終わらないのかと思う反面、段々メモリーツリーの余白を埋めるのがゲームのように感じられる楽しさも感じるという、不思議な気分を牧野は味わっていた。牧野は頭をフル回転させ、何とか桐生の質問に喰らい付こうとしていた。そこには、以前のような結果が伴わず自己肯定感の低い牧野の姿は過去のものとなり、新しく生まれ変わったかのような高揚とした気分の牧野がいた。そして、桐生の質問に対してある程度解答の道筋が見えた牧野は落ち着いた口調で桐生の質問にこう答えた。

 「まずは、典型中の典型例ですが、民法555条の売買契約が考えられます。あとは、民法549条の贈与契約なんかもこの『取引行為』に含まれるかと思います。典型契約で他のものが『取引行為』にあたるかは正直思いつきません。」

 牧野がそう答えると、桐生はこう返す。

 「成る程。典型契約の中で『取引行為』に当たり得るのはまさにその2つですね。とりあえず、典型契約の中でその2つの契約類型が『取引行為』に当てはまるということがわかればいいでしょう。出来れば、典型契約からは外れるかもしれませんが、民法483条の代物弁済も思い出せるとなお良いですね。では、反対に『取引行為』に当たらない行為として、予めメモリーツリーに書かれている『相続』以外で何か思いつくものはありますか?」

 牧野は今度は瞬時に返答した。牧野もここに来て桐生のオフィス・アワーに耐久がついたようである。

 「例えば、民法709条の不法行為『取引行為』に当たらない行為の典型例ではないかと思います。例えば、刑法235条の窃盗によって動産を窃取した場合などが『取引行為』に当たらない行為の具体例に挙げられると思います。また、刑法246条1項の詐欺罪刑法236条の強盗罪に当たる行為も民法では不法行為にあたるとして、『取引行為』には当たらないと考えます。」

 牧野は今度こそ自信を持って正解を答えたつもりだった。しかし桐生は「ふ~む」と少し考えながら説明をする前に何かを考え込んでいた。何かがまずかったのだろうかと思ったが、牧野はもうくじけることはなかった。むしろ、これで新しい発見に一歩近づくことが出来ると喜びさえ覚えるようになってきた。しばらくして、桐生が答えた。

 「不法行為としての窃盗、これも確かにいい具体例だと思います。科目の枠を越えて民法だけでなく刑法のことも考えられたのは個人的に評価できるポイントだと思います。ただまぁ、そこまで深く考えなくても、単純な事実行為としての流木の伐採や鉱物の採取といった行為を挙げてもよかったと思います。これは条文を読み込むだけでなく、もっと基本書や予備校のテキストの具体例なんかを参照しても良いかもしれません。何なら、インターネットで『即時取得』と検索してもそこそこ正確性が担保された情報が出てきますから、そういったものを参照に具体例を押さえておくのがいいでしょう。あと、あなたが私の『ふ~む』といった反応に対して『何か自分は間違えた答えを言ってしまったのか』と考えているかもしれませんが、決して間違っているわけではないのですよ。ただ、民法上不法行為に当たりうる刑法の犯罪類型の中には、意思表示の瑕疵に関する民法総則の規定もあるものですから、その辺りの規定とどう絡ませようかと少し考えていたところです。まず前提として民法192条の『取引行為』は有効な取引行為であることが前提になります。民法95条1項の錯誤に当たる場合や民法96条1項の詐欺または強迫に当たる行為は取り消すことが出来ますから、取り消された取引について即時取得は成立しないとされています。不法行為として刑法に規定される犯罪行為を挙げる場合は、民法上意思表示の瑕疵にも当たりうるので、この辺りの知識を整理する場合には注意して下さい。とにかく、結果的には『取引行為』に当たらない具体例として刑法の規定も考えた上で民法709条の不法行為について言及したことは良いことだと思います。自信を持っても大丈夫だと思いますよ。」

 長いオフィス・アワーの時間を経てやっと桐生からお褒めの言葉を賜ることが出来た。牧野はそう感じていた。そして、桐生からこのオフィス・アワーで最後の言葉が放たれた。

 「さて、とりあえず即時取得を中心としたメモリーツリーの作り方講義はこれでおしまいですかね。最低限、法律学を効率的に・確実に学ぶ手法は教え込んだつもりです。あえて付け加えることがあるとすれば、せっかく作成したメモリーツリーには作成した日付を記入することをオススメします。メモリーツリーがそのままあなたの学習日記のようなものになります。また、最初に作成したメモリーツリーの余白に後日新たに情報を書き加える際は、最初に書いたメモリーツリーを作成した際に使ったペンのインクとは別の色のインクを使って情報を追加して、情報を追加した日付も記載した方が良いと思います。メモリーツリーを何枚も作成していくうちに、これだけ自分は勉強していたという成果が可視化されて自信もつきますし、逆に言えば勉強していないことも丸わかりになるので、勉強しなければならないというモチベーション付けにもなります。このメモリーツリーの作成は従来の基本書やテキスト・条文を淡々と読んでいくだの過去問や答練を重ねていくだけの単純な作業に陥りがちの学習とは違い、オリジナリティが溢れる創造性が高いものとなっているので、学習も続きやすいのではないかと自負しております。もし最初に作成したメモリーツリーの内容をしばらくして忘れてしまっても問題ありません。ただテキストや六法の記載を流し読みして思い出した気になるよりも、よっぽど確実に一度作成したメモリーツリーを見返した方が記憶の蘇りっぷりも違ってくると思いますよ。また、同じテーマで思いつくままメモリーツリーを作成してみて、その差異を比較検討するのも学習効果は高いと言えるでしょう。過去の自分はあの点に関心が高かったからこういうメモリーツリーが出来たのに対して、今回のメモリーツリーはこの点に関心があったからこういう情報が出力されたのだと比較検討することで、現在の自分の穴となっている部分の単元や科目を再認識しやすくなるでしょう。メモリーツリーは、作成すればするほど効果が出てくるので、是非今後の法律学習にメモリーツリー作成を活かしてみて下さい。そういうわけで、あなたに特別課題として、このオフィス・アワーで最初に出した設問1~設問10をメモリーツリーにして再現してみて下さい。きっと漠然と条文を素読したり基本書やテキストを読むだけでは得られない発見があることでしょう。とりあえず、今回のオフィス・アワーで私が伝えられることは全て伝えたつもりですが、何かここまでで質問は何かありますか」

 「いえ、質問はありません。本日は丁寧なオフィス・アワーを開いて頂きありがとうございます。早速、設問をメモリーツリー化していきたいと思います。」

 「その意気です。新しくできたメモリーツリーもよろしければ添削しますので、来週のこの時間に持ってきてくれますか。」

 「わかりました。本日は、本当にありがとうございました」

 こうして、牧野の最初のオフィス・アワーは牧野にとって最高の結果を伴って終了した。牧野はオフィス・アワー終了後に聖稜大学法科大学院の自習室の自席に戻り、早速六法を片手にメモリーツリー作成に取りかかった。

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 まずはオフィス・アワーでいきなり出題された設問1の留置権についてメモリーツリーを作ることにした。手本となる即時取得のメモリーツリーを参考にしつつ、六法を見ながら留置権のメモリーツリーを自分なりに作っていく。とりあえず留置権の成立要件だけを六法から抜き書きしてみると、一応は完成したがなんとも余白の多いメモリーツリーが出来上がった。それだけでは寂しい気がしたので、何とかメモリーツリーの余白を埋めるために留置権について知っていることをもっとメモリーツリーに書き加えることにした。民法の基本書の内容を思い出してみると、確か留置権は目的物を権利者の手元に置いておく「占有担保物権」という区分がなされていたことを思い出し、同じように占有担保物権に分類される「質権(民法342条)」についてメモリーツリーに書き加えることにした。そして、留置権や質権といった占有担保物権の反対概念として「非占有担保物権」というものもあり、その非占有担保物権の代表例として「抵当権(民法369条得1項)」があったことを思い出し、留置権や質権に反対矢印を引いてその先に「抵当権」とメモリーツリーに記載してみる。これでもまだメモリーツリーの余白を埋めきるには不十分であり、もっと何か埋めるものがないかと考えあぐねていたところであることに気付いた。当初このメモリーツリーでは「占有担保物権」「非占有担保物権」という分類をしていたから対立する概念として質権と抵当権とを反対矢印で結んでいたが、質権抵当権「約定担保物権」という概念として分類すると、実は共通する概念であるということが発見できたのだ。「約定担保物権」とは、契約の当事者が「こういう物権を設定しましょう」と意思表示をして初めて発生する、すなわち契「約」「定」める担保物権のことをいう。質権や抵当権とは、売買契約や金銭消費貸借契約といった契約が履行されないときに備えて予め設定される「質権設定『契約』」や「抵当権設定『契約』」を結んで初めて発生する権利なのである。それに対して、今回のメモリーツリーの主題である留置権は、質権や抵当権といった約定担保物権とは異なり、契約の当事者がわざわざ契約を結ばなくても法律上予め定められた要件を満たせば自動的に発生する「法定担保物権」であるという意味で、質権や抵当権とは異なる物権ということができるのである。

 基本書や予備校のテキストに書かれていることを漠然と眺めているだけでは当たり前のこととして脳が強く意識しないことでも、メモリーツリーを作成するという能動的な作業をすると、当たり前のことでも何か自分がとてつもなく大きな発見をしたような気分になれるから不思議なものだと牧野は思っていた。当初は留置権と似たようなものだと思ってメモリーツリーに記載した質権が、実は留置権と反対の性質も有していたことを発見し、そのことをメモリーツリーで表現しようとすると、矢印や反対矢印が縦横無尽に引かれてごちゃごちゃしたノートになってしまった。このメモリーツリーを見て、恐らく現在の自分の脳は担保物権に関する知識が曖昧で中途半端だからメモリーツリーもそれにつられてごちゃごちゃした見づらいものになってしまうのだろうと感じた。2回目以降に留置権のメモリーツリーを作る時はもっと頭を整理した状態で計画的に作ろうと反省した。それはそれとして、せっかく「法定担保物権」という分類を発見したのだから留置権以外に法定担保物権がないか六法で確認すると「先取特権(民法303条)」を発見したので、先取特権もメモリーツリーに記載することにした。

 ここまで書いてもまだメモリーツリーには余白が生じていたので、留置権に関する条文をもう少しじっくり読み込んでみることにした。すると、留置権の最初の条文である民法295条2項「不法行為」という文字があったので、せっかくだから留置権のメモリーツリーに不法行為の成立要件でも書くことにした。課題である設問4不法行為の成立要件を答えさせる問題であったが、そんなことはいったん気にしないことにして、とにかく目の前の留置権のメモリーツリーを文字で埋め尽くすことを最優先にしようと決めた。六法をめくって、民法709条を探し当て、不法行為の成立要件をメモリーツリーに書き加えていく。民法710条以下にも不法行為に関する条文は並んではいるが、とりあえず民法709条の要件だけ書き連ねることにした。

 他にも留置権に関連して何か書けるものがないかと思って条文を眺めていると、民法298条1項「善良な管理者の注意」、すなわち善管注意義務の根拠条文を発見したので、他にも善管注意義務の根拠条文がないか探してみることにした。まず発見したのは、民法400条「特定物の引き渡しの場合の注意義務」という条文であった。他に思いついたのは委任契約における委任者の善管注意義務を定めた民法644条である。そして、相続にも善管注意義務に関する規定が何かあったはずだと六法をめくっていると、民法の終盤の方に記載されている相続法において新設された「配偶者居住権」にも善管注意義務が記載されているのを発見した。根拠条文は1038条1項であったので、この条文もメモリーツリーに記載していく。自力では留置権以外の善管注意義務の根拠条文は見つけられそうになかったので、手元にあった予備校のテキストで答え合わせをすることにした。予備校のテキストによると、質権や有償寄託、後見人や遺言執行者等にも善管注意義務が課せられていることを知った。もっとも、自分が発見できなかったこれらの善管注意義務に関する条文は、自分が既に発見した善管注意義務の根拠条文を準用しているものばっかりだったので、善管注意義務の根拠条文自体はほぼ自力で見つけられたということがわかって何か嬉しくなった。また、直接善管注意義務の根拠条文として明言されているわけではないが、解釈上(あるいは通説として)通常の事務管理(民法697条1項)も善管注意義務が課されているというので、メモリーツリーにその情報をメモとして付け加えた。ここまで記載して、何とか1枚目のメモリーツリーを文字で埋めることが出来た。気がついたら1時間近く時間が経過していた。今までの自分の法律学習においては必死に勉強してもやっと1時間が経過したというように、法律の学習が苦痛に感じていたせいかその分時間の経過も遅く感じていたが、メモリーツリーを作成していると時間があっという間に経過するのを実感した。自分でも夢中になってメモリーツリーを作成していることを実感した。このような有用な勉強方法を教えてくれた桐生先生に感謝してもしきれないと牧野は感じていた。もっとも、後日このメモリーツリーを桐生に見せに行った際に「留置権における善管注意義務について言及できたのなら、費用償還請求権(民法299条1項等)についてもまとめられるとなおよかったですね」とダメ出しを喰らうことになるのは、また別の話である。

 メモリーツリーを作る余力はまだ牧野には残っていたが、流石にオフィス・アワーからずっと民法のメモリーツリー作成ばかりが続いたので、気分転換に別の科目のメモリーツリーを作成することにした。設問10行政事件訴訟法に関する問題だったので、これをメモリーツリーにすることにした。「仮の義務付け」「仮の差止め」(以下、両者をまとめるときは「仮の救済」とする)はお互いに正反対のことを行政に命じることの出来る裁判所の権限の一つであるが、これらの要件を比較してみると意外にも共通する要件があることを発見した。どちらも「償うことのできない損害を避けるため緊急の必要があ」ることを必要とし、「かつ、本案について理由があるとみえるとき」に仮の救済の申し立てが出来るとしている。また、仮の救済は「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき」(行政事件訴訟法37条の5第3項)には申し立てが出来ないことも共通している。そこで、似たような申立制度に「執行停止の申立て」(行政事件支所方25条2項)があったのでそちらの要件も比較してメモリーツリーを作ることにした。設問8の課題と重複しているが、気にすることなく行政執行停止の申立ての要件も比較することにした。条文を比較してみると興味深い発見があった。それは、仮の救済が出来るための損害の程度は「償うことのできない損害」と特に重い損害が要求されているのに対して、執行停止の申立ての場合は「重大な損害」(行政事件訴訟法25条2項)で足りるとされていることだ。また、仮の救済は「本案について理由があるとみえる」ことを要求しているが、執行停止の申立ての場合は「本案について理由がないとみえるときは、することができない」(行政事件訴訟法25条4項)と表現が変わっているのだ。どうしてこれらの規定はこういう言い回しなのか、仮の救済の「本案について理由があるとみえるときは」「命ずること」「ができる」という表現と、執行停止の申立ての「本案について理由がないとみえるときは、することができない」という表現は、日本語としての意味合いは同じことを言っているような気もするが、法律的には何かが変わったりするのだろうかと疑問に思った。この点について疑問を解消できないか基本書や予備校のテキストをざっと読んでみたり、インターネットで検索をしてみたりしたが、満足のいく答えは発見できなかった。次回桐生先生のオフィス・アワーで質問しに行く用事が一つ出来たと思うことにして、この疑問は保留することにした。

 仮の救済のメモリーツリーを作成するに当たって要件を比較するという作業は、執行停止の申立ての要件だけでなく義務付け訴訟や差止訴訟の要件とも比較したメモリーツリーを作ればより完成度の高いメモリーツリーが作成出来そうだということに気がつき、義務付け訴訟の要件と差止訴訟の要件を六法で確認する作業に入った。当初は設問10をメモリーツリー化する作業をしていたのが、気付けば設問8設問9もミックスした形のメモリーツリーが出来そうになっていた。というより、桐生先生は最初から行政事件訴訟法の重要な条文の要件を比較検討しながら記憶している習慣を身に付けているかを確認したかったのだろうということを今更ながら気がついた。行政事件訴訟法における「義務付け訴訟」には「非申請型義務付け訴訟」(行政事件訴訟法3条6項1号)「申請型義務付け訴訟」(行政事件訴訟法3条6項2号)の2種類があるが、「仮の義務付け」の申し立て要件と比較する分には前者の非申請型義務付け訴訟の訴訟要件(行政事件訴訟法37条の2)の方が都合が良いので、こちらだけを今回作成するメモリーツリーに記載することにした。申請型義務付け訴訟の訴訟要件(行政事件訴訟法37条の3)は別途設問9をメモリーツリー化した際に改めて明記することにした。

 気分を変えて仮の救済の申立て要件と、「非申請型義務付け訴訟」及び「差止訴訟」の訴訟要件を比較してもまた新たな発見があった。前者の仮の救済の要件として要求される損害の程度は上述の通り「償うことのできない損害」という非常に重い損害の程度であるのに対し、非申請型義務付け訴訟や差止訴訟の訴訟要件として要求される損害の程度は「重大な損害」に留まっていた。また、非申請型義務付け訴訟や差止訴訟の訴訟要件にはいわゆる「補充性の要件」が要求されていることが仮の救済の要件と異なることが判明した。もっとも、補充性の要件と一言で言っても、非申請型義務付け訴訟の場合と差止訴訟の場合とでは補充性の規定の仕方が異なることも注意すべきポイントであると感じた。非申請型義務付け訴訟の場合は「重大な損害を生ずるおそれがあり、かつ、その損害を避けるため他に適当な方法がないときに限り、提起することが出来る」(行政事件訴訟法37条の2第1項)と規定されているのに対し、差止訴訟の場合は「重大な損害を生ずるおそれがある場合に限り、提起することが出来る。ただし、その損害を避けるため他に適当な方法があるときは、この限りでない」(行政事件訴訟法37条の4第1項)と規定されているのである。差止訴訟の場合に補充性の要件がただし書きで書かれているのは、恐らく主張・立証責任を原告から被告に転じるための政策的配慮だろうと予想するのだが、実際のところはどうなのだろう。この点も、後日桐生先生のオフィス・アワーで尋ねてみようと思った。

 このようにして、初めてのメモリーツリー作成作業に四苦八苦しつつもその作業に楽しみも覚えながら、桐生の課題をどんどんメモリーツリー化していくことに牧野は成功しつつあった。最初に作り始めたメモリーツリーの出来は作った牧野本人から見てもあまり褒められたものではないが、これまでの牧野の学習成果と比較すると、大きな飛躍の一歩となったことは間違いないと言えるものであった。

 こうして、メモリーツリーを駆使した法律学の勉強に目覚めた牧野は自然と積極的に・前向きに学習する習慣をやっと身に付けることが出来るようになっていった。その成果が現れたのか、数ヶ月後に行われた司法試験の短答模試において初めて全科目で合格平均点を上回ることが出来るようになっていた。しかし、未だ論文試験となると成績は伸び悩んでいた。知識や条文の検索能力は格段に飛躍したものの、実践的な試験問題の検討の仕方や答案の書き方はまだ十分に身についていなかったのだ。牧野の司法試験対策はここからが本番なのであった。

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 何度となく牧野は桐生のオフィス・アワーに赴き、メモリーツリーを通して知識の定着を確認してもらっていた。何度目かの牧野のオフィス・アワーが終了した後でTAの浅野は桐生にこう言った。

 「それにしても、あの牧野という学生も随分と法律知識は身についてきたんじゃないですか?あの様子だと、行政書士試験や予備試験の短答くらいはもしかしたら良い線まで行くんじゃないですかね?」

 「どうでしょうね。あくまで彼は基礎は出来上がりつつあるのは実感しますが、まだ実戦経験を積まないことには油断は禁物です。司法試験や予備試験においては短答はあくまで足切りに過ぎず、本番は論文試験ですから。その論文対策がまだ彼は不十分だと思いますよ。そろそろそちらの学修に移ってもらわないと、本番に間に合わなくなるかもしれないのが不安なのですが。」

 「それはそれとして、桐生先生は普段の授業でメモリーツリーを布教したりしないんですか?あんなに画期的なノートの取り方もそうそうないでしょうし、うちの学生がメモリーツリーを駆使して法律知識を多角的・立体的・有機的に身に付けるようになれば、一気にトップクラスのロースクールに躍り出ることも不可能ではないのではないかと思うのですが、実際のところどうなんでしょうか」

 「知識の習得や一定程度の知識の使い方という面ではメモリーツリーは有効だと思いますよ。出来ればもっとうちの学生に布教してやりたいものですが、生憎授業ではメモリーツリーの作り方を布教する方法を教える時間的余裕が無いのが現実です。一応、授業中の黒板の板書にはメモリーツリーを意識したような形で板書をしているのですが、果たしてどれだけの学生がその意図に気付いてくれているかは疑問が残るところです。授業アンケートでも『桐生先生の板書は一見してわかりにくい』と書かれたこともザラですし、そのようなアンケートを書いた学生がオフィス・アワーで尋ねてきた際にメモリーツリーのことは教えましたけど、果たしてその学生がメモリーツリーを使ってくれるようになったかは不明です。メモリーツリーもあくまで勉強法の一つにすぎず、合う人には合いますが合わない人には合わないものですから。メモリーツリーの強制ということはこちらからはしませんし、あえてこちらから普段の授業でメモリーツリーを教えることはしていないですね。あくまで、成績が底辺を這いずり回ってにっちもさっちもいかなくなった受験生の特効薬的な方法論として、このオフィス・アワーに来た学生に教えているにすぎないのが現状ですね」

 「先生も授業とは別にYoutubeでメモリーツリーを布教する授業動画でも作って配信すれば良いじゃないですか。動画一つあればそれを見た生徒は自主的にメモリーツリーを活用するようになりますよ。コロナ禍でリモート授業が主流になった経験値もあるんですから、やってやれないことはないはずです。」

 「しかし、いざメモリーツリーを作るとなると、なるだけ見栄えの良いものを作りたいという欲求が出てしまうんですよ。ですが、司法試験合格に必要なのは綺麗なメモリーツリーを作ることではなく、あくまで合格答案を作ることなんです。その辺りの勉強の比重を考えると、自分のメモリーツリー作成は少し自信がないんですよ正直なことを言うと。即興でメモリーツリーを作ってみると意外と知識の穴があることに気付いてしまって、どう修正しようか思い悩んだ時にはもう後の祭りになることはしばしばありますし。上手なメモリーツリー作成にかまけて普段の授業の準備やオフィス・アワーの準備が疎かになっては本末転倒でしょう」

 「ですが、一度はどこかのタイミングでメモリーツリーの作り方の講義は開催した方が良いと思いますよ。通常の授業では無理でも放課後とか、せめて夏期や春期の長期休業期間で特別講義を開講するとか、若しくは学部生のオープンキャンパスで『法律の勉強の仕方』っていう特別講義を開催してもらってそこでメモリーツリーを布教するとか色々あると思いますけども、なんとかならないんですか」

 「浅野君は妙にメモリーツリーにこだわりを持ってますが、何かメモリーツリーに思い入れがあるんですか」

 「実はドラゴン桜を読んで初めて見たメモリーツリーに衝撃を受けて、試しにメモリーツリーを作って勉強するようになってから学校の成績が爆上がりするようになったんです。それが高校生の頃でした。そしてメモリーツリーを駆使して大学入試や法科大学院入試、予備試験や司法試験などの資格試験合格に役立ててきたんです。メモリーツリーの有用性は僕が保障します。ですから、桐生先生には何卒このメモリーツリーという革新的な勉強法を普及してもらいたいなぁと思ってるんですよ」

 「現実的に私が学生達に一斉にメモリーツリーの作成の仕方を伝授する方法があるとすれば、Youtubeなどの動画配信で伝えるというのが一番なんでしょうが、しばらく私はYoutubeに動画を投稿する気はありませんよ。コロナ禍のオンライン授業の準備ということであれば、聖稜大学の学事担当者が色々準備をして下さったら機械に疎い私でも何とか授業をすることが出来ましたが、メモリーツリーの作成方法伝授なんてのは明らかに授業外のことですから、学事担当は協力してくれないでしょう。そうすると自力で何とかしなければならないわけですが、私には当然Youtube配信のノウハウなんてないわけですから。機材やら編集知識・テクニックなんてありもしません。まさか、浅野君がその辺り詳しかったりするんですか?」

 「いやぁ、焚き付けるようなことを言って申し訳ないんですが、僕もYoutube配信については素人ですね。単純に動画を出すだけならスマホがあれば十分なんですが、桐生先生の講義の延長線にあたる配信になるわけなんですから、編集とかもっと凝ったことをした方が良いと思うんですよね。そういった編集とかの知識は全然ないんですよ。前にも言ったかもしれませんが、Youtubeに動画を投稿したこと自体はあるんですが、それはあくまで僕が一方的に喋ってるだけで、字幕や編集、効果音が入ったりとかそういったことはしていないシンプルなものなんです。一方で、桐生先生がメモリーツリーの作り方を伝授する動画を作るとしたら、桐生先生の手元が写るカメラと、桐生先生の顔が映るカメラと最低2種類のカメラが必要になると思うんです。そして、この2つのカメラの映像をどう組み合わせるかといった知識は僕にはないのでなんとも言えません。要は、予備校の講師が授業で手元の答案添削を受講生の前で見せるっていう授業があると思うんですけど、あれを再現する技術と知識がないんですよね。」

 「つまり、誰かYoutube配信に詳しい者の協力が無いと、メモリーツリー布教配信というのは夢のまた夢というわけですね、現状は。誰かYoutube配信に詳しい人でも近くにいればありがたいのですが、そんな人が都合よく現れるまでは私のメモリーツリー布教作戦は机上の空論ということですね」

 そういう桐生であったが、この数日後に桐生は思わぬ形でYoutube配信デビューをすることになる。

第7話


 聖稜大学法科大学院の教員である桐生の元には授業の前後やオフィス・アワーで司法試験や予備試験を控えた学生がやって来るが、偶に司法試験に合格し実務家となった聖稜大学法科大学院OB・OGが桐生の元を尋ねることがあった。ある者は時間つぶしに桐生の元に行き雑談をして、近くに学生がいれば受験のアドバイスや実務の実情について軽く話すといったことをした。またある者は、実務家になってからも桐生に相談やアドバイスを求めることをしている者もいた。桐生は実務家になった元教え子に対して大抵「いい加減実務家になったら一人で決断できるようにならなければなりませんよ」と一言加えつつも適切な助言を付け加えていた。

 そんな桐生のもとに聖稜大学法科大学院OBであり現在は弁護士として活躍して5年目になる島崎慎吾が訪れていた。

「いやぁどうもご無沙汰しております。相変わらず手厳しくも手厚いオフィス・アワーを続けているんですか?人手とか足りてます?あ、これ先日北海道で出張した時のお土産です。よかったらどうぞ」

 島崎はそう言いながら手土産を桐生に手渡した。中身は北海道産のお菓子の詰め合わせである。

「心配せずともこちらは大丈夫ですよ。人手もTAの浅野君がいますし。なかなかウチの法科大学院の司法試験合格率の実績がグンと向上しないのが悩みの種ですが。まぁ、教育は長い目で見るのが大切とも言いますしねぇ」

 桐生に自分の名前を言われたのを聞いて、桐生の近くにいたTAの浅野は島崎に軽く会釈した。浅野は桐生から島崎の手土産を渡されてすぐに中身のお菓子に手を伸ばしていた。

「それで、今日はいったい何の用でここまで足を運んだんですか。事前にメールでも連絡は来ていましたが、『頼みたい仕事がある』と。メールだけでは色々と説明しきれないことがあるからとこうして直接面会することにしたわけですが。わざわざ菓子入りまで用意して」

「はい。単刀直入に言いますと、私のYouTubeチャンネルに出演してもらえないかなぁと思いまして。あ、チャンネル名は『【弁護士】島崎慎吾チャンネル』です」

 予想外の方向からの提案に桐生は訝しんだ。そもそも目の前にいる弁護士がYouTuberというのも驚きだ。今時は弁護士も手軽にYouTuberになろうとするものなのだろうかと、桐生は時代の流れを感じざるを得なかった。

 島崎の言うYouTubeチャンネル名で手元のスマホの検索をかけてみると、確かにその名の通りのYouTubeチャンネルが浮上してきた。島崎は顔出しでYouTubeに出演しており、スマホの画面に出ている男性弁護士が今桐生の目の前にいる、なんとも不思議な光景がそこにはあった。そして、このYouTubeチャンネルに自分が出演するのか、と桐生は思った。

「自分自身がメディアになれるこのご時世に自分から情報発信しないともったいないなぁと思ってYouTubeを始めてみたんです。弁護士業務も一段落して時間に余裕も出てきましたし。若手弁護士のルーティンとか、弁護士の仕事紹介とか、司法試験や司法修習、二回試験の話とか、法律解説とか出来ることは色々やってるんですけど、どうも再生数が一定以上のところで伸び悩むというか。何か他の弁護士や法律系YouTuberに無いコンテンツを提供できないかなぁと思いまして、先日思いついたのがコラボと言いますか、桐生先生との対談なんてどうだろうと思いまして。」

「別に私はYouTubeをしてるわけでもないですし、一介の法科大学院の教員にいわゆるバズらせる力なんてないと思いますが。」

「桐生先生には普段のオフィス・アワーみたいにバッサリと正直なところを言ってもらえればいいなぁというのを期待してまして。勿論、危ないところはこっちで編集もしますし」

「因みに、仮に私がそのYoutubeに出演するとして、そのYoutubeは生放送で行うんですか、それとも動画撮影という形式で収録ということになるんでしょうか」

「私は基本的にライブ配信という形で配信することが多いので今回の対談もライブ形式にしようかと思っています。ただ、内容によっては話だけだと視聴者には内容が伝わりづらくて字幕や図表が必要かなと感じたら後で動画編集したものを改めてアップロードするということをしています。そして、私のチャンネルでは『メンバー』という、いわばファンクラブ的なものを設けておりまして、まずはそのメンバー向けにライブ配信をするというのが実験的な意味も込めて行っております。そして、そのライブ配信の内容をより広い範囲で広めたいなと思ったら編集して動画という形にして一般の視聴者にも閲覧できるような形にしています。」

「成る程。念のため、教務課の方にも掛け合って、私のYoutube出演に問題が無いか確認を取ってから改めて返事をするということでもいいですか。私自身としては、私の法科大学院での教育の成果を外に向けて発信するいい機会ですから、その依頼受けてみようと思っています」

「ありがとうございます。では、報酬といいますか、出演依頼料など細かいことは教務課の許可が取れてから改めて決めることにしましょうか。本日のところは、これにて失礼します」

 こうして、桐生の人生初のYoutube出演の話が決まっていった。後日、聖稜大学法科大学院の教務課から正式なYoutube出演許可を取り付けた桐生は、Youtube配信のために島崎の弁護士事務所に赴いていた。

「改めまして、本日はありがとうございます。Youtube配信や撮影は私の弁護士事務所で行っておりましてこうして事務所まで来てもらった次第です。本格的な専業Youtuberに比べたら撮影機材や環境はまだまだ改善の余地はあると思いますが、とりあえず最低限の配信クオリティは保てていると思います。それでは、こちらに座って下さい」

 島崎から促された桐生は撮影用の部屋にある一つの椅子に座った。そして、その椅子に対面するように島崎も座り、配信の準備を進めた。

「それでは、いよいよ配信を始めます。準備はよろしいですか」

「慣れないことで多少の緊張は無いとは言い切れませんが、なんとかしてみせます。私は実務家でもあり教員でもありますから」

 島崎の問いかけに対し桐生は力強く答えた。そして、いよいよ配信が始まった。

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島崎:『皆さんこんばんは。弁護士の島崎慎吾です。このチャンネルは、弁護士業務や法律に関することを皆さんに身近に感じてもらえるように便利な情報をお届けする配信です。』

 配信の最初の定型文なのだろうが、島崎は慣れた口調で自身のYoutubeチャンネルの概要を説明して見せた。桐生はかつての自身の教え子の成長した姿を間近で見て思わず感動してしまっていた。

島崎:『さて、本日はいつもの配信と趣向を変えて、ゲストを交えて対談をしようと思います。本日のゲストは、聖稜大学法科大学院の実務家教員であり、私の恩師でもある桐生光一先生です』

桐生:『皆さん初めまして。聖稜大学法科大学院で教員をしております、弁護士の桐生です。本日は島崎先生のチャンネルにお邪魔させていただきます。本日は宜しくお願いいたします』

島崎:『こちらこそ宜しくお願いいたします。まずは桐生先生の簡単な経歴から紹介してもらえますか』

桐生:『はい。私は幼い頃から弁護士を目指して聖稜大学法学部に進学し、そのまま聖稜大学法科大学院の1期生として入学しました。その後司法試験を受験して1発で合格し、司法修習を経て弁護士となりました弁護士としての実務経験を経てしばらくのうち、母校である聖稜大学法科大学院で教鞭をとらないかというお誘いを受けました当時の私は一人の実務家として働き続けること以上に後進育成に興味を持ち始めていた時期だったので、その誘いを受けることにしました。以来、聖稜大学法科大学院で教鞭をとっています私の授業の科目は民事法が専門となりますが、基本的に司法試験の基本7科目であれば基本的なことは質問対応できる程度の知識と経験があります

島崎:『ありがとうございます。桐生先生は授業外のオフィス・アワーが手厚いことで有名でもあります。私もかつて聖稜大学法科大学院の学生時代に先生のオフィス・アワーでお世話になりました。そういうご縁もあって、今回の配信に出演してもらうことになったわけです。今回の配信は、桐生先生のオフィス・アワー出張版として色々な質問に答えていただきたいと思います。改めて、宜しくお願いします』

桐生:『宜しくお願いします。先程から私のオフィス・アワーのことが話題に上がっておりますが、オフィス・アワーの私は遠慮も容赦もしないので、その点はご容赦願いたいですね』

島崎:『はい、このチャンネルがBANされないようにお願いしますね(笑)

 桐生を交えての配信は、まずまずの調子でスタートした。しかし、島崎は桐生のブレーキ役にTAの浅野も読んでおくべきだったかと少し後悔した。桐生もTPOをわきまえられる人間であるから下手なことは言わないだろうとは思ったが、幾度となくオフィス・アワーでヒートアップしている姿を目撃している島崎としては少し不安になった。一方で、これくらい先が読めないゲストを交えた方が視聴者も何より自分自身も面白くなるはずだという確信を島崎は感じていた。

 島崎のYoutubeチャンネルもとい、桐生のオフィス・アワー出張版はここからが本番であった。

島崎:『では、ここからは事前に募集していた質問について桐生先生に答えていただこうかと思います。桐生先生はオフィス・アワーのつもりで答えて下さいね。ではまず最初の質問です。「私は行政法が苦手です。司法試験の過去問を見てもその場で個別法を読み解くのが苦手です。特に、過去問や有名判例にも出てくる法律である建築基準法や都市計画法の仕組みがチンプンカンプンです。行政法の基本書や建築基準法の概説書を読んでも、予備校で行政法の講義を聴いてもやっぱりよく分かりません。どうしたら行政法の苦手を克服することが出来るでしょうか」といったことですが。桐生先生。どう答えますか?』

桐生:『そうですね。行政法で躓く人が少なくないのは事実でしょう。司法試験の行政法の論文試験は他の試験科目に比べて誘導文が載せられているので、その誘導に乗った答案は作成し易いと言えます。ただ、行政法の個別法をその場で読み解くのは大変だと思います。だからと言ってこの世の全ての個別具体的な法律の知識を頭に入れようとするのは行政法の勉強の仕方としては間違いです。これは司法試験に限った話ではなく、行政書士試験の勉強でも法学部生の定期試験でも、そして実務家の在り方としても同じことが言えます。とはいえ、重要判例に登場した個別具体法、質問にもありました建築基準法や都市計画法といった有名な法律の概要をいくらか頭に入れておくことは大切だと思います。おそらくそんなことは質問されている方も百も承知だと思いますが、実際に分かりやすい司法試験向けの参考書というのはなかなか見つからないでしょう。まして、司法試験予備校の講義でもあまり個別具体的な質問をしても「司法試験の合格に深掘りは不要」という理屈で納得のいく説明がされることも多くはないと思われます。そこで、私がオススメするのは、隣接した法律系の資格試験の参考書を読んだり講義を視聴するということです。具体的には、宅建の「法律上の制限」と呼ばれる分野の講義を視聴することをオススメします。この配信を視聴できる環境にあるということは、すぐにYoutubeで「宅建 ○○法」と検索すればいくらでも分かりやすい個別具体法の講義が出てくることでしょう。司法試験レベルと言わずとも法学部レベルの行政法の講義に慣れているのなら宅建の法令上の制限の講義は難なく理解できるようになるはずです。こうしていくつかの個別具体的な法律の仕組みを予め押さえておくだけでも司法試験や予備試験の行政法の自信が付くはずです。また、書店で宅建受験生向けの参考書に目を通してみるのもオススメです。自分に合う参考書を見つければいいでしょう。個人的にオススメの書籍は『ゼロから宅建士ベーシックブック③法令上の制限、税・その他』(明海大学不動産学部編著、住宅新報出版)です。文字だけでなく図表も充実しているので視覚的に個別行政法の仕組みを理解できます。建築基準法の事例が分からないからといってクソ真面目に書店で建築関係の書籍コーナーに行ったり堅苦しい行政法の専門書籍にあたるよりは百億倍はマシでしょう。私から言えるのはそんなところでしょうか』

島崎:『はい、ありがとうございます。かつて自分がオフィス・アワーを受けていたときのことを思い出しました。実際のオフィス・アワーの時よりはだいぶ丸くなっている気がしますが(笑)』

桐生:『余計なことは言わなくてもいいんですよ。次の質問は無いんですか?』

島崎:『分かりました。それでは、次の質問に行きたいと思います。「会社法の勉強を進めていますが、どうしても細かい論点の勉強の深掘りが出来ません。具体的には、会社の組織再編がどうしても頭に入りません。司法試験の論文試験対策だけなら、最悪組織再編の分野の事前勉強は捨てて、本番で運悪く出たらその場で条文を引いて何とかしようと思うのですが、自分は予備試験組なので組織再編の短答知識も勉強しておかないと不安なのですがいい講義も参考書も見つかりません。こうした細かい会社法の分野の勉強はどのように進めれば良いでしょうか」とのことです』

桐生:『そうですね。こちらの質問も先程の行政法の質問と本質は同じような気もします。まず大前提として、司法試験や予備試験の受験生で会社法を勉強するというのであれば、まずは株主総会や取締役といった機関設計や株式の発行といった基本的な論点の基本的な理解や論述の訓練を積むべきですね。この辺りの基礎・基本が十分に身についていない状態で会社の設立や組織再編といった細かい重要論点に飛びつこうとすると結局中途半端な勉強になってしまい会社法の得点が伸びませんからその点は注意が必要です。その上で質問者さんの問いに答えるとするならば、会社法の組織再編について司法試験受験生向きの講義や参考書が無ければ別の資格試験の講義や参考書に目を向ければいいと思います。具体的には、司法書士試験の受験生向けの講義や参考書を見ればいいと思います。同じ会社法が試験科目に置かれているとは言え、司法試験や予備試験と司法書士試験では細かい勉強の比重が異なってきます。司法試験や予備試験受験生における会社法の基本書の定番といえば有斐閣の『リーガルクエスト会社法』でしょうが、この書籍で組織再編の理解が十分に出来ないということであれば、一度書店で司法書士受験生向けの受験参考書を手に取ってみて自分に合う参考書を購入するというのも一つの手かもしれません。個人的には辰巳法律研究所で司法書士試験受験講義をしている松本雅典先生の「リアリスティック講義シリーズ」の「会社法・商業登記法」の教科書か、TAC・Wセミナーで司法書士試験受験講義をしている山本浩司先生の「オートマシステム講義シリーズ」の「会社法・商業登記法」の教科書をオススメします。どちらの先生の書籍や講義がいいかは、Youtubeでそれぞれの先生方の講義動画がいくつかアップされているので、実際に視聴して判断するのもいいかもしれません。勿論、他の先生の講義や教科書の法が自分に合うということでしたらそちらでも構いません。とにかく、自分の目で実際に確認することが大切です。もっとも、あくまでこれらは司法書士試験受験生向けの教科書ですから、司法試験や予備試験には不要な知識も多く含まれていますその辺りを上手く区別して読み進めるといいと思います。』

島崎:『ありがとうございます。ここまで二つの受験生からの質問を受けて私からも疑問に思ったことがあるので急遽質問させていただきますね。「桐生先生は司法試験や予備試験以外の法律系の参考書をいくつか挙げられていますが、他の法律系の資格や公務員試験なんかもカバーされているのですか?」

桐生:『私はあくまで法科大学院の教員ですので、主に重点的にチェックしているのは司法試験や予備試験の受験関連の書籍や一般向けの法律関連の書籍だったりするのですが、受験指導をする上で視野狭窄に陥ってはいけないと思いまして、意識的に可能な限り他の資格試験の情報も摂取するようにしています。その中でも偶々司法書士試験や行政書士試験、宅建は個人的に自分が今まで勉強してきた法律科目ともシナジーがあると思ったので関連書籍を読み進めたり、時々オフィス・アワーで学生に勧めることがあるといった具合です。公務員試験は、法律科目はいくらか指導することは可能でしょうが、政治学や経済学など私の専門外の専門分野はフォローしかねますね。もし自分の法科大学院の学生が公務員試験に進路を変更したいと本気で相談しに来た場合には、公務員試験予備校を活用した方が効率的な勉強が出来ると勧めています。生憎私も人間ですので、自分で不可能なことは他人の力を頼ることにしているのです』

島崎:『成る程。せっかくですので、法科大学院の教員である桐生先生に、法科大学院での教育について正直なところを伺ってもよろしいでしょうか。「法科大学院をはじめ司法制度改革が始まって20年程度が経過したわけですが、その最前線に立っていると言っても過言では無い桐生先生から見て、法科大学院教育というのはどのように映っていますか?」

桐生:『そうですね。法科大学院に忖度せず、あくまで受験生目線から見た立場で言えば、どの法科大学院出身者の司法試験合格率よりも予備試験通過者の司法試験合格率の方が圧倒的に高い時点で、法科大学院教育の敗北は認めざるを得ないでしょう。それに、法科大学院にせよ予備試験にせよ、受験予備校の存在が無ければ果たして司法試験の合格率というのは現在の水準を保てたのか甚だ疑問です。勿論、私自身法科大学院の教壇に立つ以上手を抜くというようなことはせず、出来うることは全力でやっています。ですが、法科大学院での教育というのは色々と制約が多く十分な指導が出来ているとは言いがたいのが事実です。直接司法試験の勉強に繋がらない内容の勉強や課題が多く課されることで、かえって司法試験の勉強に集中できないというのが法科大学院の正直な実態なのではないでしょうか。法科大学院の教育というのは実務家の養成というよりは法学部の授業の延長線というか、研究者向けの授業ばかりで、本当に実務家養成という意識が法科大学院の教員間に共有されているのか疑問に思うところもあります。法科大学院の教員でありながら『大学の自治』を楯に実務では採用されていない自説を推し進める授業があるという都市伝説も聞いたことはあります。少なからず時間と金をかけなければ合格できない試験であるという側面がある以上、出来ることなら予備試験を念頭に受験対策を進め、予備試験ルートだけでは司法試験受験に到達できない場合の第二の手段として法科大学院進学も視野に入れるというのが現実的な路線でしょうか。私は法科大学院の教員ですが、だからと言って無責任に法科大学院への進学をオススメすることはしません。法科大学院へ進学する金と時間の余裕があるのならば、予備試験合格への対策を本気で行った方が健全だと思います。そして、もし法科大学院への進学をするというのであれば、司法試験の合格率や、出来れば留年率や奨学金など細かいことをよくよく調べた上でなるべく司法試験の合格率が高い法科大学院への進学をした方がいいと思いますよ。私に遠慮して聖稜大学法科大学院へ進学しようなんてことは間違ってもしない方が賢明というものです』

島崎:『成る程。忌憚の無い意見をどうもありがとうございます。受験生目線に立つと法科大学院教育には否定的な立場に立たれている桐生先生ですが、では、あえて法科大学院教育のメリットのようなものがあれば、教えていただけますか』

桐生:『そうですね。忌憚の無い意見を言わせていただければ、モラトリアム期間の延長ということでしょうか。それは冗談だとしても、法科大学院制度にメリットがあるとするのならば、人間関係に深みと専門性が得られるということでしょうか。法科大学院の教員は、大学の研究者だけではなく実務家の教員もいます実務家目線から見る法律の仕組みや運用の在り方の話を聞く機会は貴重ですから、そういった意味で学習意欲の底上げには役に立つのではないでしょうか。また、これは難関大学の法学部や法科大学院に見られる現象かもしれませんが、現在進行形で行われている法律の改正に携わっている先生方の話を聞くことも出来るということもメリットの一つと言えるかもしれません。もう少し学生目線のメリットを伝えるとすると、司法修習での人間関係を形成する際に、同じ法科大学院出身者がいるというのは大きな安心感とメリットがあると思います。まぁ、法律という専門知識を少なからず有している人たちと知り合えるという意味では人生において大きなアドバンテージになり得るのではないかと思いますよ。相続なり交通事故なりといったトラブルが起こったときに相談する相手が身近にいるのといないのとでは大きな差が生じるでしょうし、法律素人と比べるとそうしたトラブルが発生したときの心の余裕も違ってくると思います。予備試験が金と時間を節約して実務家になりやすいルートなのだとすれば、法科大学院進学は実務家になった後の人間関係の保障が少なからず効くという側面があると言えるでしょうかね』

島崎:『ありがとうございます。このチャンネルの視聴者さんの中にもし司法試験の受験や弁護士になることを考えている人がいれば、桐生先生の言ったことを念頭に置きながら進路設計を考えていただければと思います。法科大学院に進学するにせよ、予備試験を受験するにせよ、簡単な進路ではないことは頭に入れた方がいいというのが個人的な見解ですが、桐生先生はどう思いますか』

桐生:『一つ残酷な真実を伝えるとすると、司法試験に限らず公認会計士試験にせよ医師国家試験にせよ、何なら大学入試などでも同じことが言えるかもしれませんが、経済的に裕福な家庭の方がこうした受験戦争には優位な立場に立ちやすいということが言えます。誰が言ったか、司法試験は「資本試験」と揶揄される程度には金持ちに優位な仕組みとなっています。効率的な受験勉強が出来る予備校にいくらでも課金できるというだけでも、最初から地頭や要領の良くない受験生でも時間をかければ合格できる可能性が高まるということですから。特に司法試験の受験環境で言えば、首都圏に在住しているか地方に在住しているかでもだいぶ環境が変わってきます予備校の校舎が首都圏であればいくらでもあったりしますが地方では校舎も無く通信での受講を強制されるというのも珍しくありませんし、予備試験の受験会場は露骨に首都圏に住んでいる受験生に有利なように出来ています。だから、もし司法試験や予備試験の受験を検討している人がいるのであれば、単に長時間・長期間勉強さえすれば合格できるという単純な発想は止めるべきだと思います。現実的に存在する格差を乗り越えて合格を目指すべきなのですから、受験勉強をするにせよ、受験とは関係ない学校の課題に取り組むにせよ、頭を使って工夫するということが必要になります。特に学生ではない社会人や専業主婦(夫)といったような勉強以外の仕事や家事・育児に時間を取られるとされる方が受験を考える場合には、勉強時間を捻出するのにも工夫を取り入れる必要があります。通勤時間のわずかな時間を勉強に充てるとか、テキストを読めないのであれば音声データで講義を聴講できないかなど、とにかく自分の持っている資源を有効に活用する工夫が絶対に必要になります。現役で・短期で合格を掴み取る受験生はこの工夫の勘所がよく分かっています。これ以上詳しく言うとかえって結論が分かりづらくなってしまいそうなのでとりあえずここで話は止めますが、まずは自分の目指す試験に合格するということがどういうことなのかをしっかり意識することが大切です。合格水準は具体的に各科目で何点取る必要があり、現在の自分の実力がどの位置にあるのか、合格までに何をすべきか・しないべきかを意識して考える必要があるということです。逆に言えば、これらのことを意識せずに漫然と勉強を続けていても、勉強する環境自体はどれだけ良くても金と時間をドブに捨てているのと同じことになります。最悪の場合、受験予備校や法科大学院制度の養分にされて終わります。そうはなりたくなければ、普段からしっかり頭を論理的に使って生活するべしということですね』

島崎:『ありがとうございます。受験勉強というのは戦略が大事、歴史で例えると、当初は弱小藩の武将であった織田信長が工夫を凝らして各地の屈強な戦国大名を撃破し、名実ともに有名な戦国武将になったことと本質は同じと捉えていただければイメージしやすくなるでしょうか。』

桐生:『そうですね。まぁ、歴史上の人物をわざわざ挙げるまでせずとも、聖稜大学の学生であれば私の授業やオフィス・アワーを活用することが戦略の第一歩といっておきましょうか。不思議と難関試験に不合格となる受験生の特徴には一定の再現性がありますから、私の元に質問して下されば貴方が不合格の道をたどりそうなのか否か判断することは出来ます。私の学生でない人は自分の通っている大学・法科大学院の教員なり予備校の教師なり、あるいは自分より優秀な同期や先輩に積極的に質問をしたりといったことをするのは大切なことです。自分の現時点での実力を知るというのはなかなか苦しいことだと思いますが、将来合格を本気で目指すのであれば避けては通れないプロセスです。それに、分からないものを分からないまま放置せずに分かっていそうな人に尋ねてみるという習慣は司法修習生や実務家になってからでも大切な習慣ですから、受験生のうちに身につけておいた方がいいと思いますよ。まぁ、これがなかなか実現できる人が少ないから合格率が伸び悩むとも言えるのですが、逆に言えば質問をする習慣をつけるだけで相当優位に立ち回れますよ』

島崎:『ソクラテスの言うところの「無知の知」を実践するということですかね。日本人はなかなか自分の意見を発言したり質問しに行くことが苦手とされていますが、発言や質問が出来るようになると受験だけでなくその後の社会に出てからも役に立つぞということですかね』

桐生:『そういうことですね。特に学生のうちから分からないものを分からないままにしない習慣を身につけるということが大切ですね。そして、分からないことをすぐに解決する一番手っ取り早い方法は身近な人に尋ねてみるということですね。』

島崎:『ありがとうございます。では、また別の質問を拾っていきましょうか。「弁護士業務と法科大学院教員ではどちらが収入や仕事面で優位だなと感じることがありますか」だそうです。桐生先生の仕事面に関する質問ということで、桐生先生の体感でも一般論でもいいので、この辺りについて答えていただけますでしょうか』

桐生:『はい。まず前提として押さえておくべきことは、弁護士業務と一言で言っても、様々な要因があるので簡単に一般化できないということです。首都圏で働くのか地方で働くのか、いわゆる町弁として働くのか企業法務に特化して働くのか企業と顧問契約を結んで弁護士業務の一環として企業のサポートをするのか、それともインハウスロイヤーとして働くのか、インハウスロイヤーで働くとしてどれくらいの規模の企業でインハウスロイヤーとして働くのか…等々様々な要因があるので一概には言えません。就職活動をこれからしようとしている学生が「とりあえず大企業」とか「とりあえず公務員」といっても話が抽象的すぎて先に話が進めないのと同じことです。なので、私がこれから言うことも基本的に私の主観を離れることはないでしょう。質問者さんの求める意図からは外れてしまうかもしれませんが、究極的にはその人が何を一番に求めるかに依存すると思います。私の場合ですと最初にも言いましたが通常の弁護士業務よりも後進育成に力を入れたいと思ったので法科大学教員という仕事を選んだだけで、収入はあまり重要視していませんね。勿論、貧しくなることまで許容しているわけではありませんし、貧しくなって学生への指導が疎かにならないように法科大学院の教務とは別に収入の確保をしています。もう少し視野を広げて話をするならば、単純な収入や社会的地位の向上を目指すのであれば、弁護士よりも検察官や裁判官を目指すことをオススメします。国家公務員と言うことで給料や福祉も安定していますし、弁護士のように依頼人がいなければ食っていけないなんてこともありません。また、検察官や裁判官ともなれば、後に弁護士に転身したり、法科大学院の教員になれるだけではなく、公証人という法務局の役員になることも出来ます。要は天下りが弁護士よりもずっとし易い、すなわち安定した職に就きやすく稼ぎやすいということです。』

島崎:『とうとうぶっちゃけ始めましたね。天下り先があるというのは人聞きが悪いですが、一応念のため補足をしておくと、公証人というのは法務局に勤める公務員で、登記や公正証書といったような法律書類に法的な不備がないか確認する役人のことですね。元裁判官や検察官という法律のプロなだけあって法的な不備は滅多なことでは起こらないという安心感を国民・市民の皆さんに与える仕事であります。公証人の名誉のために補足させていただきました。下手なことを言って炎上したくはないので』

桐生:『私は下手なことは隠さずに正直にそういう進路もあると学生に周知させた方が賢明だと思うのですがね。結果的に裁判官や検察官を目指す学生が増えるかもしれませんよ?』

島崎:『ではここで、仕事に関する質問に関連してこんなことを聞きたがっている人もいました。「仮に将来法律家を目指すとして、試験に合格するための勉強をしなければならないのは当然の前提として、それ以外に法律家に要求される資質みたいなものはありますか」、だそうです。この点、桐生先生はどのように考えていますか』

桐生:『成る程。…法律の勉強が得意か苦手かという次元以外に、法律家という職業が貴方に向いているかいないかという点も考えた方がいいかもしれません。法律の勉強は得意でも、実務家として働くとなるといまいちパフォーマンスを発揮できないという方もいます。これは法律家に限らず、学歴は高いのに就職してからあまり成果を上げられない人がいることも本質は同じことではないかと思いますが。要するに、法律家として一定の仕事の成果を上げるためには、勉強が出来るだけではなく、コミュニケーション能力やビジネスマナー、一般常識といったものを備えている、あるいは備えているフリが出来ることが重要となります。弁護士業務という話に限定すると、弁護士業とは法律という専門知識を用いたサービス業に他なりませんから、顧客相手に自分が弁護士資格を有し「先生」と呼ばれるからといって横柄な態度を取る人や社交辞令としての挨拶をしようとすらしない人の元に仕事を任せたいと思う人はいないでしょう。弁護士の大半は社会人経験のない学生上がりのまま実務家になりますから、早いうちに社会人としての最低限の振る舞いが出来ないと後々大変になるのではないかと思います。そして、法律家というのは、医師や宗教家といった職業でも同じことが言われるかもしれませんが、その職業の本質として他人の不幸を前提として成立しているものです。なので、そうした他人の不幸に当てられ続けることに耐性のない人は法律家には向いていないかもしれません。仕事をする以上、一定の人間関係からストレスが生じることは避けられないと思いますが、法律家として仕事をする以上はその人間関係の限界的な状況に何度も遭遇することでしょう。しかも、その限界的な状況を打開するために何かしらの方向へと答えを出さねばなりません。なので、一般的な会社員やアルバイトといったような単に上司から言われたことに従えばいいという心持ちで仕事をしようとする人には法律家の仕事は大変な仕事になると思います。むしろ、政治家や会社の経営者のような、重要な判断を自分の責任に基づいて下せる度量や覚悟といったものが法律家には必要と言えるかもしれません。ついでに話しておきますと、外資系の法務に携わりたいという人は不規則な生活になりやすいので一定以上の体力や健康管理も必要になってくるかもしれません。これは聞いた話ですが、外資系企業のオフィスは深夜でも照明がわざと明るくなっていたりするのだそうです。そうした環境にストレス耐性がないとすぐに仕事を辞めてしまう人も出るのだそうです。しかも、その手の企業は給料は高給だったりと人気はありますから人が辞めてもどんどん新しい人が入ってきて、環境を改善しようというインセンティブがあまり働かないんだそうです。…長くなってしまいましたが、自分がどういう環境で働きたいか、あるいは働きたくないかと言ったこともよく考えた方がいいということですね。』

島崎:『成る程。まとめると、法律家というプロとしての責任感と、社会人としての一般常識の両方が要求されるということでしょうか。法律の勉強にかまけてこれらの能力の育成を怠ると一流の実務家とは言えない、というより働く上で色々なデメリットが生じてしまうといったところでしょうか。』

桐生:『的確なまとめをありがとうございます。色々その場で思いついたことをよかれと思って喋ってしまいますので、時々助長な喋りになってしまうのが私の悪い癖なのですが、島崎先生が上手いことフォローしてくれるので助かります。』

島崎:『桐生先生に褒められると今日の天気は槍が降るのではないかと思ってしまうのですが大丈夫ですかね(笑)』

桐生:『聞き捨てなりませんね。私は褒めるべき時には素直に褒めますよ。他には何か質問とかないんですか』

 ここまで当たり障りのない質問ばかりを拾っていて少し退屈に感じていた島崎は、たった今目に付いた少し過激な質問を思い切って桐生にぶつけてみることにした。

島崎:『そうですね…あ、じゃあなかなか聞きづらいこういう質問はどうでしょうか。「弁護士資格を持っている人の中には左翼的な思想や活動をしている人が目立つような気がします。また、弁護士資格を持っている政治家の中には時々この人は本当に司法試験を合格したのかと思うほどに法律の知識が欠けているように見えたり、そもそも一般常識に欠けるような人も見かけます。司法試験というのは、ある種頭のおかしい人が合格しやすいとか活動家枠的な秘密の合格枠なるものが実は存在したりするのでしょうか」

桐生:『成る程。これはなかなか手厳しい質問ですね。まず、司法試験そのものは思想の左右によって合格しやすい、あるいはしにくいといったことはないように思います。司法試験の本質は「裁判官登用試験」ですから、第一義的には裁判官にふさわしいか適性を見極める試験ということです。裁判官の出す判決の中には「これはどうだろう」と一般人の視点から見ても専門家から見ても疑問に思う判決もあるかと思いますが、基本的には一般人の持つ感覚から乖離しないような価値判断を下せるような人を選抜しようとしているわけです。その証拠というわけではありませんが、司法試験における憲法の論文試験では、憲法9条の是非について論じさせるということは絶対に出ないと言い切れます。政治的論争の絶えない性質の題材をあえて問題として出題するということはしないということでもありますし、憲法9条について特別な思い入れのある人間を採用する、あるいは不採用にするといったことはしないといった現れでもあります。ただ、ある意味では頭のおかしい人が合格するというのも一種の真理なのかもしれません。受験勉強というのは大半の人は大学入試でおしまいにするでしょうが、大学入試を終えてなお受験勉強の生活に身を投じる、それも日本最難関の資格試験の一つとされる司法試験に挑戦するというのはある意味頭がおかしくないと、頭がおかしいという表現が不適切ならば少数派に属する人間でないと出来ない所業と言えるかもしれません。後は質問に答えるとすると、私が確認した限りでは司法試験に活動家枠といった合格枠は存在しません完全な陰謀論に惑わされないようにしましょう。陰謀論に話がずれてしまいますが、陰謀論にはまってしまう人は普段の生活や人間関係が上手くいっていない可能性が極めて高い傾向があります。陰謀論の沼にハマってSNSで妙な言説を広めたり、自分と意見の異なる者に攻撃的な言動をする前に自分の生活を見つめ直すことをオススメします。さて、改めて質問者さんのような疑問が湧き上がる原因を考えてみますと、少数の左翼思想にかぶれた活動家まがいの実務家がメディアに取り上げられて目立っているというだけで、弁護士全体が左翼思想にかぶれているわけではありません多くの弁護士は政治的なスタンスは中道か、そもそもそこまで自分の政治的立場には無関心といった人の方が多いかもしれません。例えば、学校の教員や保育士が児童・生徒相手に性犯罪を犯してその事件が報道されたからといって、教員や保育士全員が性犯罪者予備軍というのは極論だというのは何となく分かるでしょう。弁護士の多くは別に左翼思想の活動家ではないというのは、そうした話と本質は同じだと思うのですよ。』

島崎:『そうですね。私の周りの若手から中堅の弁護士の仕事をしている様子やプライベートの様子を見ても、あまり世間で言ういわゆる左翼的な活動に力を入れているというのは見かけませんね。実際にアンケートを採ったわけではないので私の体感になってしまいますが、憲法9条や日米安保法案、日本国内の米軍基地の是非といった政治的な事項については内心での関心はあったとしても、実際にデモ活動を行ったりする実務家というのは少数派のような気がします。それに、いわゆる左翼思想を持つことは司法試験合格の必要条件なんてこともありません。もっと言うと、効率的な受験勉強という観点から言えば、右側だろうと左側だろうと余計な政治思想について関心を持つことは百害あって一利なしです。そうした思想にかぶれている時間があるなら一問でも司法試験の過去問研究に費やした方が合理的というものです。そして、司法試験の合格に必要な能力というのは、実務家になっても要求される能力ですが、条文を正しく解釈する能力だったり、効率的に事実を拾って法律に規定される要件に当てはめたりする能力だったりします。司法試験に限らず受験勉強に時間を費やすことと、特定の思想にかぶれることは水と油の関係と言えましょう』

桐生:『全く以てその通りですね。私見を述べさせていただくならば、現実離れした理想にとりつかれている暇があるなら、もっと現実を正しく認識する訓練を積んだ方がいいと百億万回言ってやりたいですね。強引にイデオロギーに現実を合わせようとしても大体ろくなことになりません。周囲の人間が離れていくだけでなく、そのイデオロギーを主張している本人もイライラが収まらない毎日を送る生活に陥ってしまうことでしょう。これは左翼思想がどうという話だけでなく、受験勉強なんかにも言える話です。「自分は特別な才能があるはず」とか「俺はまだ本気を出してないだけ」とか言ったり信じているだけで正しい行動に行き着かなければ自分の望む現実は永遠にやってこないんですよ。最悪の場合、自分の望む結果が得られないことを社会のせいだ、国家のせいだと決めつけて変な宗教や政治団体の活動にのめり込んでしまうことにもなりかねません思想が過激化すると、暴力的な行動を取ることに一切の躊躇がなくなることも珍しくはありません。先程、左翼思想がどうのこうのという話が出てきましたが、左翼思想というのは平和とか平等とか自由・人権の尊重といったきれい事がいっぱい並ぶことだと思います。そして、憲法の勉強を勧めると正にその平和や平等、自由の尊重といったものが登場するわけです。弁護士の中に左翼思想の活動家まがいの人が目立つというのは、最初からその人に左翼思想の活動家の素質があるわけではなくて、左翼思想とマッチする概念に近い学問や実務に触れるうちに思想に感化されると言ったことが大きいのではないかと思っています。あるいは、司法試験の勉強を終えることで「自分はこの世の全ての学問を修めた」と勘違いしてしまう者が出てきてしまうのかもしれません。まがりなりにも日本一の難関国家試験をパスしたのですから、そうした自尊心が芽生えても致し方ないのかもしれません。しかし、皮肉なことに、そうした自尊心をそのまま放置してしまうと自分の専門外の知識については全く知らない、興味関心を示さないばかりか、勝手に自分の思い込みに基づいて的外れな言説を流布してしまう「専門馬鹿」になってしまうことにもなりかねません司法試験に合格して法曹としての資格を得るまでの努力は尊敬に値しますが、だからと言って他分野の専門家や専門知識を下に見ていい理由にはなりません実務家になることはゴールではなくあくまでスタートなのです。実務家は謙虚にいつでも初学者の気持ちを忘れずに、そして妙な思想や言説に惑わされないように学び続ける姿勢を続けてほしいものですね』

島崎:『実務家になっても法律の勉強は終わらないというか、ある意味で実務家になってからが法律の勉強の始まりと言えなくもないですからね。学生時代に見たことも聞いたこともない法律を実務で当たり前のように使うようになったり、学生時代に学んだ基本六法でさえも改正を繰り返して自分が過去に学んでいたものでさえもあてに出来ない状況が続いています。公認会計士や税理士、医師や薬剤師といった高度な専門知識を有する職業に就いている人には共通の悩みかもしれませんが、中にはそうした変化について行けない実務家も出てきたりするんでしょうか

桐生:『これは私の先輩弁護士から聞いた話でしかないのですが、ある年配の弁護士かつて企業法無関連の仕事も請け負っていた時期があったそうなのですが、旧商法が改正されて会社法が独立して成立した後で改正の流れについて行けなくなったとかで企業法務を請け負うことを辞めてしまったというような話を聞いたことがあります。つい数年前に民法の債権法の分野が約120年ぶりに改正されたことが話題になりましたが、実務的に問題は生じてないのか少し不安になりますね。』

島崎:『民法95条「錯誤無効」という世代と「錯誤取消し」という世代が生まれたというので、ジェネレーションギャップが生まれるという現象がまずは考えられますかね。後は刑法の性犯罪について「強姦罪」派と「強制性交等罪」派と「不同意性交罪」派でもジェネレーションギャップが生まれそうですね。実務家同士の飲み会でこれらの呼び方の違いにジェネレーションギャップを感じるといった程度なら笑い話で済むでしょうが、古い法律の知識のまま実務で運用しようとしてしまうと色々大変なことになりそうですよね』

桐生:『古くなった法律知識を振りかざす実務家というのは消費期限の切れた弁当を売りつけようとするコンビニと同じで有害以外の何者でもありません。自分の運転技術に疑問を持つようになった高齢者が自動車免許を返納するように、法律や制度の改正に追いつけなくなった実務家も自主的に引退してほしいものですね。古くなった結果誤った法律知識を押しつけたことで人災が発生するよりは百億倍マシなはずです。』

島崎:『先程の質問の中に実務家の中に「法律知識が欠けている人がいる」といった話がありましたが、あれは少なくともその実務家自身に法律知識が欠けているという意味ではないはずです。いつの時期にせよ、一定水準以上の法的知識もなしに司法試験に合格したり司法修習を修了することは出来ませんから。にもかかわらず、法律知識が欠けていると思われてしまうというのは、恐らく実務家になってからの法律や諸々の制度の改正といった変化の流れを勉強し続けることを辞めてしまった実務家の姿が目立ってしまっているということなのかもしれませんね。「法律以外の知識がない」というのも目の前の事件解決のための知識以外の余計な情報を収集する余裕の無い実務家が増えているということなのでしょうか。あるいは、実務家として要求される法律知識の習得に精一杯で、それ以外のいわゆる教養とされる知識を身に付ける余裕が無いということなのでしょうか。桐生先生はこの点どう思いますか。』

桐生:『そうですね。法律実務家がいわゆる「専門馬鹿」に陥ってしまうということに帰結するのでしょうね。私が思うに、専門馬鹿に陥ってしまう実務家というのは司法試験の勉強をしていた時点で非効率的な勉強を続けていたのではないかと邪推しているのですよ。そして、幸か不幸か司法試験には合格してしまったことで、誤った学習過程が成功体験として刷り込まれてしまい、実務家になっても非効率な勉強の仕方に拘ってしまったことで自分の専門領域外の知識については勉強する余裕の無い実務家が生まれてしまっているのではないかと思います。そのために、教養の無い、一般常識に欠ける実務家が目立ってしまうという現象が起こってしまうのではないでしょうか。もしくは、元々法律以外の分野に関心の無い実務家の数が多いということなのでしょうか』

島崎:『法律家に限った話ではないですが、どんな業界で活躍するにしても専門馬鹿にならないように、教養の深い人間になるための勉強が欠かせないといったところでしょうか。特に近年はAIの進歩もすさまじく、単純労働だけでなく専門領域でもその場で働く人の地位が脅かされると聞きます。そう遠くない将来、AIが判決文を書く未来なんかを妄想したりするのですが、機械に仕事を奪われないようにする、あるいはAIをはじめ機械と共生するために出来ることは何があるでしょうか

桐生:『私自身は未だに弁護士としても法科大学院の教員としてもAIを活用していないのでここでの発言は差し控えますが、新しい技術やサービスを臆することなくまずは使ってみるというのも大切なのではないかと思います。使ってみて初めて分かることもあるでしょうし、逆にまだ世の中に普及もしていない段階からAIを規制しようというのもそれはそれで健全な社会の発展を阻害することになり良くないと思っています。私としては法律分野のChat GPTみたいなものが導入されればいいなと思っています裁判所でそうした技術が導入されれば裁判のスピードが格段に上がり事件処理もスムーズになり、裁判官にしても裁判を利用する市民にしてもどちらも利益を得られることになるのではないかと思っています。また、法科大学院や司法試験受験の現場でも法律分野のChat GPTが登場してくれればなぁと思っています論文試験の添削や模範答案の作成などだいぶ捗るでしょう。あるいは、こうした技術を法科大学院に導入することで、法律という専門知識だけでなく実務家として必要なコミュニケーション能力だったりプレゼンテーション能力を身に付ける時間的猶予が生まれるかもしれません。もっとも、頭の固い大学教授陣はこうした技術を大学や専門大学院の講義に導入することに反対しそうな気がしますが』

島崎:『桐生先生は司法の現場におけるAI導入について賛成の立場なのですね。私も使えるところではこうしたサービスを使っていきたいと思っています。先程から「法律の知識しかない専門馬鹿に陥らない、教養のある実務家になることが大切」といった話が続いていますが、もしかすると今の時代における教養とは、AI等の新しい技術と上手く共存できる知識を持った人という意味になるのかもしれませんね。桐生先生は今後の法科大学院教育の現場でこうしたAI等使っていこうと思いますか。』

桐生:『現状では私が受け持つ授業で堂々とAIを使うということは考えてはいないですね。私個人の問題もありますが、それ以上に大学当局の兼ね合いなど色々あるもので。もっとも、授業準備の効率化に繋がると分かれば直ちにAIを使うことになるでしょう法科大学院生、あるいは司法試験受験生向けのAIを発見できたら、可能な限りその存在を周知したいですね。受験勉強は効率的に行ってこその世界ですから』

島崎:『話が思いがけずAI論へと脱線していきましたが、これからの時代は分野を問わずAIを使えるか否かが人生を大きく左右するということになるのでしょうか

桐生:『先程の会話で「AIと共存することが教養」というような話が出てきましたが、間違いなく今後の社会ではAI格差が生まれると思います。現在の我々が生きている資本主義社会においては経済格差、教育格差、世代格差、情報格差といったことが問題として取り上げられていますが、今後の時代は如何なるAIを使いこなせるか、新たなAIをいち早く取り入れることが出来るかというAI格差が顕著になってくるのではないかと思います。そしてこの格差問題は法律実務の世界においても、司法試験を始め受験勉強の世界においても、教育の分野においても、どの分野でも避けられない問題だと思います。AIを優位に使える者が富や成果を独占してそうでない者が不利な立場に置かれる社会が現実のものになってくると。まるでSF小説のような世界ですが、もう既にある意味ではSFを超えた社会が到達していると言えなくもないかもしれません。』

島崎:『桐生先生は弁護士というだけでなく法科大学院の教員という立場からAI技術の教育への導入について何か意見か一家言あると思っているのですが、今後AIと共存する、あるいはAIに負けないような教育を施していくことが大切だと思うのですが、その点桐生先生はどのようにお考えですか。』

桐生:『私自身がAI素人なので、法科大学院という教育現場において堂々とAI論について語るようなことはまずしないという前置きを置いておいて、その上でどういう教育をするかというと、広い意味で読解力、あるいは論理的思考力の出来る人間を司法試験対策を通じて養成出来ればいいなと思っております。司法試験で課される論文試験というのは出題者の求める答えを制限時間内に出力できるかという一種のコミュニケーションの場です。この本質を理解しないで自分が覚えた知識をただ吐き出すだけの答案を作成する受験生というのが少なからずいます。こうした受験生というのはAIどうこう以前に通常の人間同士のコミュニケーションにおいても色々と難儀することでしょう。相手との会話のキャッチボールが正しく出来ていないからです。こうした人は自分の伝えたいことを自分の伝えたいように一方的に押しつけがちなので建設的な議論が出来ませんインターネットやSNSを覗けばそうした光景に出くわすのも珍しくはないはずです。先程の質問で「弁護士の中に左翼的思想を持っている人がいる」といった話が出てきたと思いますが、こうした思想にかぶれている人も本質的な意味ではコミュニケーションが上手くとれるとは言えません。自分と同類の少数派に属する人間同士では上手くコミュニケーションが出来るように思われますが、自分と少しでも思想が異なる人とは建設的な議論が出来ません相手を一方的に間違ってると決めつけて上から目線で自分勝手な話を垂れ流すか、自分が不利になると思ったら議論を放棄して逃げ出すかのどちらかでしょう。こうした姿勢は法律の実務家にせよそうでないにせよ、21世紀の令和の日本に生きる文明人として適切とは言いがたいと思います。こうした建設的な議論の出来ない人が多数派を占める、あるいは少数派でも声が大きい状況が続いてしまうと、せっかくAIといった技術やサービスが進歩してもそれらを十分に使いこなせないという残念なことになってしまうでしょう。AIを使いこなす前段階として、母国語である日本語を論理的に使いこなす訓練を積んだ方がいいと思います。具体的には、大学入試の現代文の評論文を論理的に読み解く訓練を継続した方がいいと思います。ひいては、大学入試の現代文対策を通じて潜在的な読書階級に属する人間を増やすことが大切だと思います。テレビやネットや動画配信サービスが充実した現代においてもなお読書の持つ効用は有用だと考えています。先程から教養を身に付けるためにはAIを使いこなすことも一つの重要な要素という話をしていると思いますが、私は教養を身に付けるためには読書習慣をつけることも大切な要素だと思っております。読書の効用は広い意味でコミュニケーション力が身につくことだと思います。現在を生きている目の前の人間だけでなく、時代や国籍を超えて、何なら死者ともコミュニケーションをとれるのが読書の醍醐味だと思うのです。そうした読書というコミュニケーションの訓練を積むことで、AIといった新しい技術を活用する上でも応用が利くようになると思うのです。あるいは、未だにAIでも解決できない問題を補填出来るようになると思います。』

島崎:『桐生先生から読書の効用について説かれるのは目から鱗ですね。法科大学院ではどうしても司法試験受験対策の話ばかりを聞かされたものですから、もっと幅広い読書の効用について話を聞けたのは貴重な機会のように感じます。』

桐生:『確かに言われてみれば、私も普段は司法試験受験指導にかまけて一般的な読書の大切さを法科大学院生に説くようなことはしていませんでしたね。まぁ司法試験受験や普段の法科大学委員の授業に追われている受験生に一般的な読書まで課すのは酷だと思うので、普段の教壇ではそのようなことは言いませんが。今回の配信の特別講義ということで』

島崎:『そういえば、桐生先生はオススメの作家とか本とかって何かないんですか?法律分野の専門書に限らず、何かオススメがあるなら読んでみたいです』

桐生:『最近というか、実務家になってからあまり本は読めてないですね。法科大学院の教員になってからも最初の方はなかなか慣れないことが多くて読書に割ける時間が少なかったので、その間に流行の作家とか話題になった本なんかはちょっと分からないことが多いですね。…司法試験受験生であっても、そうでなくても、ためになりそうな小説を一つあげるとしたら、伊藤計劃の『ハーモニー』とかどうでしょうか。SF作品として上質というだけでなく、憲法の論文試験で出題されうる論点になり得るテーマがある作品なので、一読の価値があると思います。作品のあらすじというか舞台設定をお伝えしますと、人類がある大混乱を経て極端に健康を重視するように舵を振り切った近未来の世界を舞台にした作品でして、その世界では大人になったら体内に「WatchMe」というナノマシンを入れることで自動的に病気を駆逐することで究極の健康を手に入れることができるようになった反面、個人の身体は社会的リソースであるという規範がまかり通っている世界観です。未成年のうちはこの「WatchMe」を体内に入れることがないので、自分の身体は自分のものであると主張する少女達が話を進めていくのですが、憲法を本格的に勉強している方であれば、「パターナリズム」について論点がぱっと思い浮かぶようになるといいですね』

島崎:『はい。いま桐生先生から専門的な用語が出てきたので私のほうからいったん補足説明をさせて頂きたいと思います。憲法を勉強していくと、日本国憲法は様々な自由を保障しているというだけではなく、その自由を一定の場合に制約できる場合があることを学ぶことになります。その自由を制約できる根拠の一つが「パターナリズム」と言われる制約類型です。これはどういうものかというと、主に未成年の人権制約の根拠になっているものですね。未成年のうちに酒やタバコを摂取することを禁止したり、18歳まで選挙権が制限されていたり、各都道府県が条例で未成年保護の名目で「有害図書指定」を定める、といったことですね。こうした規制はなぜ許容されるのかというと、国家が親代わりとなって「判断能力が未熟なあなたに代わってあなたの自由が害されない方向に導いてあげますよ」という一種のお節介が認められている、ということです』

桐生:『補足説明ありがとうございます。『ハーモニー』の方に話を戻しますと、『ハーモニー』の世界では成人になってからのパターナリズムが散見されるわけですが、果たして成人へのパターナリズムがそもそも現代では認められるのか、認められるとしてどのような形態なら認められるか、頭の体操として色々考えてみるのがいいと思いますよ。司法試験受験生ならば考えるだけでなく答案という形で起案するならどう起案するか、具体的に実際に答案を作成してみることまでやってみてもいいかもしれません。少し専門的な話になりますが、通常の人権制約根拠として代表的な「公共の福祉」に基づく制約と、「パターナリズム」に基づく制約との違いをきちんと理解しているか自分で確認することが大切です』

島崎:『また一応補足を入れますと、「公共の福祉」に基づく制約というのは「自分以外の相手の権利や自由を侵害するのは良くない」という理屈から導かれる制約理論なのに対して、「パターナリズム」に基づく制約というのは自分の中で完結しているという違いがありますね。本来、自分の身体は自分の自由な意思に基づいてどう扱ってもいい、極端なことを言えば自分自身を害することになってもそれで幸福になれるのならばそうした行動さえも自由として尊重するのが日本国憲法13条で言うところの「幸福追求権」、あるいは「愚行権」と呼ばれる権利の意味です。しかし、そうした幸福追求権ないし愚行権の行使を「あなた自身を傷つけるようなことはしてはいけません、わたしがあなたを勝手に守ります」と国家が介入して規制してくるのが「パターナリズム」に基づく制約、ということになります』

桐生:『またまた有意義な補足説明ありがとうございます。『ハーモニー』で描かれている社会というのは、まさにその「パターナリズム」が極限まで行き着いた社会を描いているのが特徴です。憲法学や法律学というのを差し引いても、自分だったらそのような世界を望むのかどのようにそうした世界で生きるのか想像力を働かせてみるというのもSF小説の醍醐味だと思うので是非一度は手に取って読んでみて欲しいですね』

島崎:『桐生先生がSF作品を紹介するというのも意外な気がします。法律初学者にもわかりやすい入門書を紹介されるのかと思っておりましたから、桐生先生の意外な一面を見れた気がして、それだけでもこの企画を実施した甲斐があったと嬉しく思います。』

桐生:『私だって法律書以外の本を読むことぐらいありますよ。ただ、何冊も新しい本をどんどん読む時間的余裕が無いので、どうしても昔読んで気に入った作品を何回も読み直すということが当たり前になっているのです。優れた作品というのは、何度読んでもその度に新しい発見がありますからお得な気分になれます。また、先日『ハーモニー』を読み返して気付いたのですが、「他人を傷つける可能性のある表現に対する規制はどこまで許されるのか」、という話もあったので、それについても紹介して皆さんと考えていきたいと思います。作中で紹介されたのは、「広島に原爆が落とされた」ことをテーマにした芸術表現がいわゆる炎上をした事件について言及していましたが、社会的評価を伴う芸術作品はどこまでの表現が許されるのか・許されるべきなのかというのも考えるに値するテーマだと思います。2011年3月11日以降の日本においては、地震や津波を想起させる表現というのもだいぶ気をつけなければ、先の広島の原爆作品と同じ末路をたどることになると思います。予め「この作品には地震や津波を想起させる表現が含まれています」といった警告文の表示を義務付ければ大丈夫とするべきなのか、他の芸術作品とはゾーニングをしっかりするべきなのか、そもそも誰かのトラウマを刺激しうるような芸術作品など初めから生み出されるべきではないのではないか、といったような議論はどんどんなされるべきでしょう。現実でも芸術展を開催しようとする博物館・美術館もこうした想像力は必要になると思いますが、法律論、あるいは憲法論としてどこまでの表現・表現規制が許されるのかといったことは考えておいたほうがいいかもしれません。もしかしたら、弁護士としての法律相談の一種として、「芸術作品の展示会でこういうテーマを中心に開催しようと思うが、法律上の問題が無いかリーガルチェックして下さい」といったものがあると考えるきっかけになるかもしれません。あるいは、こうしたテーマを題材にした司法試験や予備試験の論文試験が出ないとも限りません。司法試験・予備試験受験生は将来社会的に有益な実務家になるために、受験生のうちから社会のニュースにも日頃から関心を持つことが大切だと思います。現実の受験生の大半は目の前の過去問や基本書・テキストを読み込んだり検討したりするので精一杯だと思いますが、理想を言えば受験勉強だけに囚われない余裕も持って欲しいなというのが教育者としてのささやかな願いでもあります』

島崎:『ありがとうございます。司法試験や予備試験の受験生の皆さんは目の前の課題をこなすことで精一杯かもしれませんが、先輩としては広い視野を持って勉強を続けて欲しいなと思いますね。実務家になってからも勉強の日々が続くといいますか、実務家になって初めてスタートラインというのが本当のところですから。司法試験合格をゴールインと捉えて実際に合格してから燃え尽き症候群になられても誰も幸せになりませんから、その辺りの自覚がある人は自分の立ち位置を考え直した方がいいかもしれません』

桐生:『話がだいぶそれてしまった気がしますが、最初の質問は私のオススメの書籍でしたよね。先程は法律論とも関係がありそうなSF作品を薦めましたが、もう少し娯楽的な意味合いでの小説ということでしたら、森見登美彦氏の作品が個人的にオススメです。私が勧めておいて言うのも何ですが、最近の登美彦氏の作品は読めていないので恐縮ですが、「四畳半神話体系」は代表作としてオススメできます。法律学を勉強されている人というのは少なからず大学生であると思われるので、大学生協の本屋に行けば目に入るのではないかと思います。いわゆる「阿呆な腐れ男子大学生」が主人公の話が登美彦氏の真骨頂だと私は捉えています。そういう意味では同じ森見作品として「新釈 走れメロス 他四篇」だったり「恋文の技術」なんかが面白いですね。後は無難に「夜は短し歩けよ乙女」も良い作品だと思います。』

島崎:『桐生先生からまさか森見登美彦の名前が聞ける日が来るとは思っていませんでしたよ。私も学生時代は森見作品を読み漁ったものです。先生がオフィス・アワーで学生相手にも容赦の無い物言いをするのは森見作品の影響だったりするんですか?

桐生:『何をバカなことを言ってるんですか。名誉毀損で訴えに出てもいいんですよ?まぁそれは半分冗談として、話を続けますね。ここまでの話をまとめると、法律以外の分野でオススメの作家というなら、私は伊藤計劃と森見登美彦ということになります。そして、法律分野でオススメの本が何かないかなと思っていたのですが、パッと思いついたのは、憲法学者の木村草太先生が一般向けに書かれた著作を紹介しようと思います。まずは、法学入門書として木村草太先生の「キヨミズ准教授の法学入門」(星海社新書)がオススメです。法律学の入門書というだけでなく、他の社会科学に含まれる学問も取り上げることで法律学を相対化、言い換えれば世の中の見方は一つではないということを教えてくれる本です。最後の章では他のオススメの参考文献が多数紹介されているので、次に読む本の指針を示してくれているのも法学入門書としてのポイントが高くて良いと思います。あとは、木村草太先生の共著となりますが、「憲法学再入門」(木村草太/西村裕一著・有斐閣)もオススメです。この本の、特に木村草太先生が担当された部分で凄いと思う部分は、憲法学の中でも比較的条文の暗記に走りがちな退屈とも捉えられかねない「統治」という分野を面白くストーリー仕立てで紹介しているところです。憲法の統治を通して法哲学や社会科学、比較法学といった広い学問分野に言及しているので、知的好奇心が刺激されることは間違いないでしょう。もし、これらの本を読んで、特に憲法学についてもっと学術的な探究心を深めたいというのであれば、同じく憲法学者の長谷部恭男先生が法学教室で連載されたコラムをまとめた「Interactive憲法」や「続・Interactive憲法」(長谷部恭男著・有斐閣)といった書籍に挑戦してみて下さい。先程紹介した木村草太先生の著作と比べると専門性が上がって読み進めるのは難しくなっていると思いますが、これらの本を読み進められるようになれば、大学や大学院レベルの講義にもついてこれるだけの知性を獲得できるようになることは間違いないでしょう。また、ここで長谷部恭男先生のことを紹介したのは、長谷部先生が翻訳を担当した「法の概念」(H・L・Aハート著、ちくま学芸文庫)という本もオススメしたいからです。これは法学部や法科大学院で開講される「法哲学」という学問において一つの題材として取り上げられることのある書籍です。「法の概念」とはざっくり言えば一定のコミュニティに属する人がそのコミュニティ内のルールに従うのは何故か、そもそもルールとは何かと言ったことについて言及している本です。このH・L・Aハートの「法の概念」について論争が巻き起こった話というのは法哲学をきちんと勉強した人にとっては有名な話なのでしょうが、私はこれ以上の議論にはついて行けませんでした。ドゥオーキンという人のハート批判に関する論文が何を言っているのかさっぱりわからなかったのですよ。このハート批判についても賛否両論あるそうです。英米法の法哲学に詳しい人は頑張ってこの辺りの論争について日本語で分かりやすく翻訳してくれる人を広く募集しています。あとは刑法の古典書になりますが、ベッカリーアという人の著作「犯罪と刑罰」(岩波文庫)という本もオススメです。ベッカリーアというのはイタリアの法学者で「犯罪と刑罰」は一八世紀半ば以降に発表されました。フランス革命といった人権思想が普及し始める前から罪刑法定主義といった概念を主張したり死刑制度に反対していたりと時代背景を考えるとかなり先進的なことを主張していました。21世紀になった現在でも一読の価値のある古典だと思います。刑法が好きなら是非一度は読んで欲しい本の一つですね。オススメの書籍の紹介は、ひとまずこんなところでしょうか』

島崎:『ありがとうございます。法律以外の本と、法律系の本でバランス良く紹介されたのではないかと思います。現在法学部や法科大学院、法学研究科の学生だけでなく、これから法学部を目指そうとする中学生や高校生にも頑張れば読めそうな作品のラインナップだったかと思います。』

桐生:『私が薦めておいて言うのも何ですが、司法試験や予備試験の受験生はこれらの本を読んでも短答試験や論文試験の成績向上には基本的に繋がらないということを頭に入れて欲しいですね。司法試験に限らず、司法書士試験や行政書士試験といった法律系の資格試験や、公務員試験でもおなじことがいえます。こうした資格試験の受験勉強については、何度でもどこでも口を酸っぱくして言い続けますが、効率的な勉強が求められるということです。そして、効率的な勉強の近道としては予備校の授業を上手く活用することを私は勧めています。最終的には自分で過去問演習するなり問題演習を重ねたり知識の確認を主体的にするといった作業が必要となりますが、これらの作業を自分の力で効率的に行えるようにするには、まず入り口の部分でその道に精通したプロに導いてもらい、学習の全体像を一度把握するところから始めた方が結果的に合格に一番近づくと思います。私が先程勧めた読書は時間に余裕のある、受験勉強から解放された学生や社会人に勧めているものなので、そのあたりを勘違いしないようにして欲しいですね。司法試験受験生には自分の受験科目に関係ない読書をする自由を制約されるべきだと思います。読書の自由が欲しければ早く受験に合格することですね。』

島崎:『いきなり司法試験受験生を刺しに来ましたね。今さらですが、このチャンネルを視聴している司法試験受験生に率直な感想は何かありますか』

桐生:『こんなチャンネルを見ている暇があるならとっとと自分の受験勉強に戻りなさい。現実逃避しても都合良く現実は変わりませんよ。』

島崎:『私のチャンネルなのになんてこと言うんですか(笑)。司法試験受験生であったとしても、人間である限り、たまには休息を取る方が効率的だと私は思いますよ。』

桐生:『それくらい必死に勉強して欲しいということです。』

島崎:『では、桐生先生の印象が悪くなる前に、違う質問を拾っていきましょうか。こんな質問はどうでしょうか。桐生先生は好きな法律って何かありますか

桐生:『話をそらしましたね。まぁ良いでしょう。好きな法律ですか。法科大学院での指導科目や司法試験の受験科目に限った話をするならば、会社法ですかね。私自身が初学者だった時は会社法というのは条文数が多く、具体的名条文の規定が何を意味しているのかさっぱりわからず食わず嫌いしていた時期もありましたが、会社法の体系を理解してしまえば、会社法の仕組みというのはとても論理的に整理されている法体系だと思えるようになりました。また、会社法を真の意味で極めるためには、会社法そのものの条文や施行規則・計算規則だけでなく、民法や民事訴訟法、金融商品取引法といった関連法規も含めて幅広く学習する必要があったりとなかなか奥深いところが個人的に好きなところです。そういう島崎先生の好きな法律というのは何かないんですか』

島崎:『私が好きなのは刑法ですかね。具体的な事例に対してどのような行為が犯罪として成立するのか否かを検討するのが好きです。司法試験の勉強を始めてからずっと刑法が好きなのは変わりませんでしたし、刑法の成績も比較的良かったもので。「好きこそ物の上手なれ」ってヤツですかね。』

桐生:『というと、実務家としても刑事弁護といった活動がお好きということになったりしますか?』

島崎:『実を言うと、刑事弁護は正直なかなか大変で、安易に「好き」とは口が裂けても言えないですね。刑事事件が起訴された後の有罪率は99.9%と異常に高い数値を計測してるでしょう。証拠不十分とか、正当防衛が成立しそうな、弁護側に勝ち筋がありそうな事件はそもそも最初から不起訴処分になったりして、刑事弁護は実質ほとんど負け戦というと怒られるかもしれませんが、何とか傷を最小限にしようと腐心しているところであります。勿論、人が行うことに絶対は無いですから、検察側が何か間違いや見落としをしている可能性も0ではありません。ですから、そうしたわずかな取りこぼしがないか必死にチェックして、被疑者や被告人の人権が不当に害されることの無いように、ひいては国民・市民の皆さんが安心して暮らせる社会の形成に役立っているのだと自分に言い聞かせながら刑事弁護を請け負っていたりしますね。理論や試験問題として刑事事例を扱うのと、現実の刑事事件を扱うのとでは、やっぱり色々違いますから。桐生先生は刑事弁護についてはどのように考えておられますか』

桐生:『私は刑事弁護に限らずほとんどの弁護士業務からはいったん身を引いて法科大学院の教壇に立つ道を選びましたから、島崎先生ほど現実の刑事実務で心労を感じることはないのですが、だからこそというべきか、色々現行の刑事訴訟について思うところはあります。被疑者段階における取り調べに弁護士を同席させたり、取り調べの録音・録画の義務づけを行ったり等、被疑者・被告人の人権保障のために、ひいては我が国の刑事訴訟手続の信頼回復のために改善できることは多々あると思うのですが、なかなか法律や制度が改善されないのがいたたまれないですね。法律を制定するのは本来立法府の仕事ですから、政治家の方々にはもっと結果を出して欲しいというか、いっそ自分が政治家になって法案を提出した法が早いのではと妄想することもありますね。もっとも、私自身は政治の世界にはあまり強い関心が無いというか、政治家になりたいという欲が無いので、当面出馬する予定はないのですがね』

島崎:『そんな桐生先生に丁度良い質問があります。弁護士など司法試験を通過した法律のプロは国政・地方自治の分野に進出している人も少なからずいます。そこで質問なのですが、桐生先生がもし国政に打って出るとしたら、どのような政策ないし法律案を提出するといった活動をするでしょうか。また、個人的には、桐生先生の憲法観も尋ねてみたいです。メディアに出てくる弁護士が大体憲法改正に反対という立場一択といった印象が強いのですが、本当のところはどうなのか聞いてみたいです、だそうです。桐生先生の先程の妄想の内容や、弁護士界隈の憲法論のあれこれも聞いてみたいですね。その辺りどうでしょうか。』

桐生:『個人的には現行の法律に詳しいことと、現実の法制度を改正したり新しい制度を創出するのは別次元の話だと思いますから、必ずしも司法試験に合格できる程の法律の知識があることが政治家の必要条件とは思いませんという前置きを置いたところで。ここからは私の「こうなったらいいな」という妄想をお話ししますが、まずは経済対策ですかね。ここ30年の日本の経済が停滞している原因の一つは国内消費が落ち込んでいることがあると思っています。そして、国内消費を落ち込ませている原因の最たるものは消費税でしょう。この日本国内にいる限り誰も逃れられない消費税を減税、出来れば廃止あるいは停止に持ち込みたいと思います。そもそも私の理解では消費税はインフレを抑えるための方策の一つとして導入されるべきものです。バブル景気を迎えていた時期に日本のインフレを抑えるためにあえて消費税を導入したというのならばまだ話はわかりますが、そこから日本経済はインフレからは程遠い状態の中で何故か消費税は10%を迎えました。元々の国内の消費が少ないのならば消費を加熱させてやる政策をすべきであるのに真逆のことをやっているようにしか見えないわけです。政府は社会保障の補填に充てると言ったことを主張していますが、それならば政府の歳入・歳出のデータの透明化を図るべきだと考えます。政治家の政務活動費の透明化も必須項目だと思います。日本の政治を株式会社の仕組みで例えるとすると、国民は株主、政治家は取締役にあたるわけです。国民から徴収した資金が適切に用いられているか、取締役としての立場にある政治家には説明責任と資金が適切に運用されていることの証明が必要になるはずです。これらがなされていないのであれば、国民側から不適切な政治家を排除する仕組みも欲しいですね。まぁその不適切な政治家を排除する仕組みこそが選挙なわけですが、選挙だけだと不十分というか、臨時取締役会的なものを開いてリコールできる仕組みを国政でも採用できないかと思いますね』

島崎:『ありがとうございます。経済対策以外で何かこうしたい・実現すればいいのにという政策は他に何かありますか』

桐生:『経済対策以外だと、防衛費の増額とかも考えますかね。別に積極的に戦争をしたいわけでは勿論無いですが、近隣諸国の動向を見ると防衛費を増大さえた方が無難ということです。また、防衛に力を入れた方がかえって戦争を回避できるという数学的なデータもあるというのも聞いたことがありますし、私も現実主義者なので、話し合いで解決できそうにない問題は武力をちらつかせることも解決策の一つとして否定されるものではないと思っています。こんなことを弁護士会、特に高齢世代の弁護士先生の前で主張すると後でとんでもなく叱られたりするらしいのですが、私はもっと現実を見ろと言いたいですね。だいたい、武器も武装も完全に放棄すれば平和が訪れるなんてのは、いじめられたことも無い、環境に恵まれたお坊ちゃん・お嬢ちゃんの戯言にしか聞こえませんね。いじめても反撃してこないとわかれば、いじめっ子はますます増長していじめがひどくなるものです。いじめられないようにするためには、初めから「コイツに手を出してはいけない」と思わせることが大事なんです。そのための手っ取り早くかつ確実な方法が武装を強化するといったことなのです。憲法観の話にも繋がってくるかと思いますが、個人の憲法観という話題で憲法9条の話にしか目が行かないことがそもそもおかしいのです。憲法9条の話題が出るときは純粋な憲法論だけで解決できる話ではなく、国際慣習法を含めた国際情勢も絡めて議論しないとただの机上の空論でしかないはずですが、どうにもその視点が欠けていると思います。「憲法観」というよりは、むしろ「国家観」というもう少し広い視野をもって議論した方が良いのではないかと思います。』

島崎:『「国家観」、ですか』

桐生:『はい。これは憲政史研究家の倉山満先生の受け売りになるのですが、現在の日本国憲法をめぐる議論には国家としての日本はどうあるべきか、これから日本はどういう方向に進んでいくべきかという視点が欠けているように思います。こうした「国家観」の視点なくして憲法論を語っても机上の空論にしかならないと思います。憲法の条文をいじくる・いじくらないといったことだけで現実が動くわけではないからです。もう少し具体的な例え話をすると、防衛省がどれだけ予算を取れるかで現実に自衛隊がどれだけの活動が出来るのかも変わってきます憲法9条があるから、ただそれだけの理由で防衛費が増減するというわけではなく、逆に憲法9条を削除すれば防衛費や装備が無尽蔵に増えるというわけでもありません。もっと言ってしまえば、憲法9条を改正するまでもなく、自衛隊法の方を改正するなりした方がまだ現実的とすら言えます。国際情勢やそれに対応する防衛予算によって自衛隊がどこまで活動できるかが変わるのであって、そこに現行の憲法の条文がどうこうという話は本来出てきようがないはずなんだと私は思います。そして、こうした国防に関する議論が出来るようになるためには、教育の内容にも注視した方が良いということです。日本国としてどういう歴史があるのか、日本と比較して世界の歴史はどのような経緯をたどってきたのか、人類の歴史は争いの歴史とも言いますが、その争いの原因として、領土、資源、宗教などどのようなものがあるのか…といったことを学ぶ必要があると思います。それだけではなく、近年SDGsがもてはやされていますが、その流れに対応するためには日本の技術力がどれだけあるのか、科学リテラシーも身に付けることが大切だとも思っています。もっと言えば、これら社会や理科の知識を十分に学ぶための基礎として、国語や数学の教育を徹底させることが大切だとも思っています。最近の大学入試では「情報」という科目が追加されその対策に学校や生徒・受験生の両方がそれぞれ四苦八苦していると思いますが、こういった小手先の改革ではなく、もっと抜本的な改革が必要なのではないかと思うのです。コロナ禍によって学校でもリモート授業というのが導入されたとも聞きますし、従来の教員が教壇に立って生徒に一律的に授業をするというような形式も変えることが出来るかもしれません。各科目の授業映像を予め撮影しておいてそれを授業時間に流すなり自宅で学習するように指示を出して、実際の教室ではその授業の内容がしっかり身についているかテストやグループワークといった形の授業を増やすなど、やりようは色々とあるはずです。もっとも、こうした授業の在り方については法科大学院でキッチリ出来てるかと言われると、恥ずかしながら現実的になかなか足並みがそろわないと言うこともあって実現していないのが現状なのですが。あるいは、学習内容に手をつけられないなら、義務教育段階から飛び級や留年制度を認めるというのもありなのではないかと思います。あとは、一般の大学での軍事研究の自由を認めたり、日本国憲法の改正論について議論できるように大学の風通しを良くしたいものですね。先の大戦への反省から大学では軍事研究をしないという日本学術会議の声明があったり、憲法学会では憲法改正に賛成の立場の人に与えられる教職のポストが全然無かったりと事実上日本国憲法の護憲的立場を強制されるなどという、「学問の自由」ならぬ「学問の不自由」が跋扈しています。』

島崎:『「学問の不自由」、ですか。それはまぁ、何というか皮肉が効いていますね。桐生先生も法科大学院で教鞭をとる上でそうした「学問の不自由」を感じることがあるのでしょうか』

桐生:『それこそ、司法試験をはじめとした国家公務員試験なんて、出題者の求める論文式解答以外認めないという、まさに「学問の不自由」の具体化した現象ではないですか。大学や法科大学院の小論文入試ほどの自由が無いんですよ。それを抜きにしても、法科大学院は在校生の司法試験合格率を上げてなんぼだと思うのですが、何故か本格的な受験指導というのは禁止というか、よろしくないという雰囲気があります。受験指導をしないで何を指導しているのかという気になりますが、そこは「大学の自治」を楯に好き放題しているような気がしてなりません「大学の自治」は学問の自由を保障する上で大切な制度的保障という知識は憲法を勉強すると学ぶことですが、いくらそんな制度でも権利の濫用は許されないと思うのです。そもそも先の大戦の反省として軍事研究をしないというのは論理が破綻しているのですよ。これは言ってしまえば、犯罪の増加に繋がるから刑法を学問として認めないと言っているのに等しいですよね。でも実際のところ刑法が学問として認められないということは無いですし、犯罪を様々な角度で検証することは再発防止のためにも重要と言えますよね。ですから、本当の意味で戦争を起こさないのであれば、むしろ積極的に軍事研究する必要があるというのが論理的な帰結になると思うのですが、それでもなお頑なに軍事研究を認めないというのは、私にはもはやカルト教団の教えと大差ないとすら思いますよ。こうした科学的アプローチを否定するような大学の在り方は学生やそこで研究や教鞭をとっている教員、働いている職員のためにもならないと思うのです。ですから、そうした「学問の不自由」を強要しているような大学は国家が介入して是正する必要があるのではないかと思うのです。正直、大学当局に国家権力が介入するのはよろしくないとは思っているので、出来れば大学の自浄作用に期待したいところなのですが、生憎「大学の自治」を楯に自浄作用など期待できないですから、やはり国家が何かしらの形で学問の自由を保障させた方が良いのではないかという気がしています。』

島崎:『大学の自治に国家が介入するというのは慎重にならざるを得ないところがあるというのが私の理解なのですが、現実に法科大学院で教鞭をとっている桐生先生の発言からは説得力も感じるのが素直な感想です。さて、だいぶ話が込み入ってきましたが、これまでの桐生先生の話をまとめると、仮に桐生先生が政界に進出して力を入れるとすれば、主に①財政あるいは経済対策②国防③教育・研究に力を入れると言ったところでしょうか。これらは桐生先生の「国家観」から導かれる政策ということでしたが、改めて桐生先生の「憲法観」というのも伺ってみたいと思います。何を以て「憲法観」と定義するのかも含めて桐生先生に尋ねてみたいと思います。桐生先生、この点はどう思いますか』

桐生:『「憲法観」と自分で言っておいて何ですが、定義付けするのはなかなか難しいですね。ですが、あえて定義付けするとするならば、「憲法観」とは「憲法にどのような機能を持たせるか、何のために憲法にその機能を持たせるか」といった思想ないし哲学だと思います。おおよそ憲法を学んだことのある人の共通する「憲法観」としては、「国家権力を抑制する」機能であると思います。ですが、ただ盲目的に国家権力を抑制すれば良いというのではなくて、そもそも何のために国家権力を抑制するのかという点も大事になると思うのです。そして、何のために国家権力を抑制するのかといえば、「個人の人権を保障するため」といえます。歴史的に国家は国民の自由や人権を蹂躙ないし制約してきた過去があるからこそ、その反省としてそうしたことができないように、国民主権を謳ったり権力分立という機能を採用したりといったことを踏まえて、「国家権力を抑制する」という「憲法観」が現れてくるのだと思います。ですが、私は個人の人権を保障するためには国家権力を抑制するだけではなく、時には国家権力を積極的に動かすことも必要だと考えています。具体的には、コロナ禍で話題になった「緊急事態条項」の発動といったことですね。国民の外出を制限したり、必要な物資を確保するために一定の経済活動を制限したりといったことをできるようにするといったことですね。また、東日本大震災といった大災害が生じた際に避難指示を出すというのも、居住・移転の自由を制約するものという側面もありますが、それ以上に生命・身体の安全を確保するために必要なことだと思います。こういった議論をすると、ナチスドイツのような独裁政権が生まれるといった声も出てくるとは思うのですが、だからと言って非常事態に何も出来ないというのも本末転倒の結果を招くだけだと思うのです。疫病の蔓延や大災害の発生といった非常事態にどういった対策を国家が取るべきかということについて、予め憲法に記載しておく必要があるというなら改正すれば良いと思いますし、憲法を改正しなくても必要な法律を制定しておくことで憲法を改正したのと同じように非常事態に適切に動けるようになると思います。なので、私の憲法観としては「平時でも緊急事態でも個人の自由を守るための国家としての機能を備えること」と言えると思います。こうした私の「憲法観」からすると、現行の日本国憲法は平時においては十分に役割を果たしていると思いますが、緊急事態が生じた場合の国家としての指針が足りないようにも感じます。そういう意味で、憲法改正の議論が起こってもいいのではないかと思っています。何が何でもとにかく憲法を改正すればいいのだとか、憲法9条を削除ないし改正すれば問題は解決するといった議論には安易に賛成しかねますね。現行の憲法を維持するとしても、もっと非常事態にどう対応すべきかといった議論はもっと尽くされるべきではないかと思います。そもそも、本来そうした議論をする場が国会であるはずなんですけどね。政治家の皆さんには、是非国民を守るための仕事をして頂きたいなと思うのですが。少し話がそれてしまった気もしますが、私の「憲法観」とはこういったものということを理解して頂けたらなと思います。』

島崎:『成る程、ありがとうございます。現役の弁護士資格を持っている法科大学院の教員で踏み込んだ改憲の話を聞けたというのは貴重な機会であったと改めて感じました。それでは、最後の質問に行きたいと思います。桐生先生は法科大学院の教壇に立ってそこそこ長い時間が経ったと思いますが、桐生先生自身は自分をどのような教員・教職者だと思っていますか?

桐生:『そうですね、改めて自分を客観的に見つめ直すというのは難しいというか、むずがゆい気がしますね。私は本当は1回の授業で10教えたくなるんですが、それを我慢して1を丁寧に教えようと努めています10教えようとすると結局中途半端になって1もまともに身に付けられない学生を量産してしまいかねないからです。1をキッチリ1回1回の授業で身に付けさせ結果的に10回の授業で10を身に付けさせる、そういう指導を心がけています。ですが、法科大学院ではきっちり10回授業をしただけでは十分とは言えません。勿論、学生の自主的な試験対策をしてもらうことが必要にはなるんですが、授業や学生の自習だけでは不十分ですからオフィス・アワーという学生が何でも質問できる時間を設けています。そして、オフィス・アワーに質問しにくる学生の中には1の授業で10の疑問を持ってくる優秀で積極的な学生さんもいらっしゃいます。そういう熱心な学生さんにはつい100教えたくなるというのが、私という教員の客観的な姿ではないかと思います。勿論、改善できるところは改善できるように努めて参りますので、今後とも学生の皆さんは宜しくお願いいたしますね。』

島崎:『桐生先生、ありがとうございました。それでは、そろそろキリが良いので本日の配信はこれにて終了ということにさせて頂きます。ここまでお付き合いありがとうございました』

桐生:『ありがとうございました』

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 こうして、島崎の桐生をゲストに迎えたYoutube放送は終りを迎えた。放送終了直後に先に口を開いたのは島崎だった。

「いやぁ、桐生先生、お疲れ様でした。どうですか。初めてのYoutubeでの配信をやり遂げた感想は」

「緊張こそしませんでしたが、Youtubeの規約に引っかかるような失言をうっかりしていないかが気がかりですね。私の発言は大丈夫でしたか?」

「私が聞いた限り大丈夫だと思いますよ。もっと過激なことを言っていたりする配信もありますが意外と削除されたりしてないものも多いですし。なにより、普段の桐生先生からは聞けない色々なことが聞けたのが個人的に大きな収穫でしたね。思いの外、対談形式というのが楽しいというのが個人的に大きな発見でした。もし次回以降もこうした対談形式の配信をするといったら、桐生先生は受けてくれますか?」

「私自身も普段の法科大学院の教壇やオフィス・アワーでは伝えないこと、伝えられないことをたくさん喋れたので、良い機会と刺激になったと思います。もし次回以降もこうして対談できる機会があるなら、是非またお話ししたいですね。」

「それはよかったです。ところで、桐生先生は自分からYoutube等のプラットフォームを使って配信したりしないのですか?桐生先生の指導を聖稜大学だけにと留めておくのはもったいないというか、桐生先生のような人がYoutube等で専門分野の講義をしてくれるようになれば、それに触発されて多くの専門分野に携わる人が自分から配信するようになり、結果的に全国どこにいても質の高い教育が受けられて、実質的に学問の自由や教育の自由が保障されることに繋がると思ったのですが、桐生先生はやってみたりしないんですか?」

「どうでしょう。私個人ではYoutube配信のノウハウはありませんし、現状は聖稜大学の法科大学院での指導を重視したいので、まだなんとも言えませんね。大学側がそもそも私のYoutube配信を許可してくれるかというハードルもあります。今回はあくまでゲストとして参加するということで許可は認められたようですが、私が主体となって配信をするとなるとまた色々と条件や前提が変わってくるのでしょう。ただ、私個人の意思としては、今日の配信のおかげで今後私がゲストとしてYoutubeに出演したり自分からYoutube配信をするといったことに前向きになれた気がします。法科大学院の教員を何かの理由で退くことになったらYoutubeで私の講義を配信することになるかもしれません」

「一応Youtube配信者としては私の方が先輩ですから忠告しておきますけど、Youtubeでの専門知識の講義配信は正直それほど再生数が稼げない、言ってしまえば稼ぎにならないということは言っておきますよ。だいたいYoutubeの視聴者層の大半は学びたい、というよりもお手軽なエンタメを楽しみたいという人の方が圧倒的に多数派なんですから。理系の教育系Youtuber業界や大学受験に関する教育系Youtuberは普通のエンタメ系Youtuberと比べると再生数は見劣りしますがそれでも教育系Youtuberとしては彼らが最高峰なんです。数万回や数十万回、場合によっては数百万回と再生されるのは彼らくらいのもので、私のような場末の弁護士の配信なんて良くて数千回、大体平均して数百回の再生数でも珍しくないんです。場合によっては二桁の再生数なんてのもザラです。もしそのような結果になっても大丈夫ですか?」

「この私を甘く見ないで下さい。私は法科大学院生の教育に心血を注ぐと誓ったのです。金が欲しいわけでも誰かにちやほやされたくて授業をしているわけではないのです。私が絶対これは教え込まねばならないと思うから教壇やオフィス・アワーで口を酸っぱくして同じようなことを何度も毎年教え続けているんです。その教える場所がYoutubeになっても変わりません。今すぐYoutubeで講義するというわけにはいきませんが、いつでもYoutubeでの講義を配信できるように今から出来る準備はしようと思いますよ。」

「まぁ実際体験してみないとわからないこともあると思いますが、多分桐生先生なら大丈夫な気がしてきました。勿論、桐生先生が本格的にYoutubeチャンネルを開設するというのであれば、是非私も協力させて下さい。」

「島崎先生が協力してくれるなら心強いです。どうでしょう。これから打ち上げというか、反省会的なことでもしますか?」

「気持ちはありがたいですが、これから先程の配信の編集をしたいんですよ。無編集の配信を最初からチェックして、動画化するにあたってキリの良いところでカットしたり、より視聴者にわかりやすいように字幕や補足説明や図表を入れたりYoutuberになるとやることが増えて大変なんですよ。なんだかんだそういう作業も個人的には楽しんでやってますからそれは別に良いんですけど。ただ、弁護士業務と並行してYoutube配信もやると時間がいくらあっても足りないくらいなんです。もし良ければ、後日改めてそういう会を設けても良いでしょうか。」

「そうですか。実は私も法科大学院の授業の用意やオフィス・アワーの準備があるので、出来ればおいとまさせて頂こうかと思ってたんですよ。自分から誘っておいてこういうのも申し訳ないですけど。教員にせよYoutuberにせよ、より良いものを提供しようとすると時間がいくらあっても足りないのは同じようですね」

 こうして、桐生は島崎の事務所を後にした。普段は言いたくても言う機会の無いことを思いの外喋れたので、桐生は帰宅してから心地良い疲労感に包まれながら眠りにつくことが出来た。

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 桐生が島崎のYoutube配信に出演したからといって、桐生の日常が変化することは特になかった。島崎のYoutube配信も特段視聴者数や登録者数が爆増するといったような、いわゆる「バズる」ことは無かったが、幸いなことに炎上することも無かった。桐生の登場は良くも悪くも島崎のYoutube配信に大きな影響を与えることは無かった。強いて言えば、聖稜大学法科大学院の学生やOB・OGが桐生の出演した配信を見るようになり、それから第2回目以降の桐生の出演が来ないかと期待して島崎の普段のYoutube配信の視聴者数が微増したくらいであった。いつものように法科大学院での授業やオフィス・アワーをこなした後で桐生とTAの浅野は雑談にふけっていた。先に浅野の方から口を開いた。

「そういえば、先日の桐生先生が出演したYoutube配信見たんですけど、個人的にはなかなか面白かったですよ。法科大学院での桐生先生の姿からは見られない一面も見られたことですし、法科大学院での授業やオフィス・アワーでは聞けないような話も聞けて刺激になりました。桐生先生は司法試験受験生に対してはYoutube配信でも容赦ありませんでしたけど、むしろ司法試験受験生のためにもっと桐生先生はYoutubeなんかに出演するか、いっそ御自身がYoutuberとしてデビューするとかした方が良いと思うんですけど、そういった活動をしたりすることは考えたりしないんですか?」

「島崎先生も同じようなことを言っていましたが、とりあえずは目の前の法科大学院での業務に集中したいですかね。今後も島崎先生のYoutubeに出演させて頂くということはやぶさかではないんですが、どうも自分がYoutuberになるというのは想像がつかないですね。ちゃんと配信するからにはそれなりの準備が必要といいますか、これまでの弁護士業務や法科大学院の教員としてのノウハウがそのまま通用するわけではないみたいですし。あれから島崎先生から話を聞きましたが、私が出演した配信自体は好評だったようです。とはいえ、それから島崎先生のYoutuneチャンネルの視聴者や登録者数が激増すると言ったような影響力は与えることは出来なかったようなのがちょっと悔しい気もしましたね。仮にも弁護士として法科大学院で教員なんてやっていると時々自分は世間で認められていると勘違いしそうになってしまうことが正直あるのですが、島崎先生のYoutube配信出演は良い意味で私を初心に返らせてくれたと思います。」

「たしかに、法科大学院という一般社会から隔絶された異空間にいると勘違いしてしまいがちになりますが、司法試験や法科大学院に関係ない一般の人からすれば、桐生先生は星の数ほどいる弁護士の一人くらいの認識ですもんね。もし今後Youtubeなんかで配信するとしたら、もっと法律とは無関係と思っている人にアプローチできるようなお話でもされるんですか?」

「いや、たしかに法律とは無関係だと思っていた人が私の話を聞いて法律学に興味を持ってくれれば嬉しいですけど、あくまで現在の私は司法試験受験生や法科大学院生をメインターゲットにして話をしたいという気持ちの方が大きいですかね。そこがぶれてしまうと私の伝えたいことが結局誰にも伝わらないということにもなりかねません。それに、誰にでも通じるような話をわざわざ私が今更しても面白くもないでしょうし。そういった話は他のYoutuberに任せることにします。私はむしろ、専門的な話をすることでニッチな需要に応えていきたいとさえ思いましたよ。そのためには、私自身ももっと学ばねばならないことが色々ありますね。そういえば、浅野君はYoutubeって見るんですか?」

「僕は法律系のYoutuberさんとかVtuberさんをメインに、時々司法試験や予備試験、司法書士受験生なんかの勉強チャンネルをチェックするくらいですかね。時々エンタメ系や法律以外の教育系Youtubeチャンネルも見たりします。自分も出来そうだなと思う反面、一度凝り出したらどこまでも終わりが見えなさそうだなと思ったりします。」

「Vtuberってなんですか?」

「『Virtual Youtuber』の略で、要はアニメキャラっぽいガワを表に出して配信するスタイルのYoutuberのことです。企業所属から個人勢、エンタメ系から学術系と幅広い分野に活動している人がいますよ。勿論、少なからず法律系Vtuberなんてのもいます。好きな法律を解説されていたり、現役弁護士がVtuberになっている方もいたりします。こうしたチャンネルは客観的な再生数こそ爆発的に増えたりするものではなく同時視聴者数も少なめですが、確実に存在する需要はある分野だと思います。個人的な見解ですが、Vtuberという姿を取ることでキャラクターがわかりやすく話を解説してくれるという印象を視聴者が抱きやすくなり、子供も含めた初学者の人も興味を持ってくれやすそうというのがあります。また、学術系Vtuber同士のコラボ配信ということで、専門分野をまたいだ相乗効果も生まれたりします。「芸術系と法律系」だったり、「民俗学と法律」だったり、普段だったらあまり馴染みの無い分野とコラボすることで、視聴者だけでなく出演者自身も知的好奇心が刺激される良いチャンネル配信になりますよ。まぁこうしたコラボ配信が出来るようになるためには、地道な配信活動を継続的に行うことが必須だったりするんですが、先生はVtuberになることには興味はありませんか?」

「Vtuberというのがどういうものかはざっくりとは分かりましたが、要はVtuberとして配信するためには更に色々な機材とか機械が必要になるんでしょう。今の私だとハードルの高さがなんとも言えませんね。まずはYoutubeで生身で配信してみて、配信に適性があるとみたらVtuberというのになってみるという戦略を立てたいですね。それで、より多くの人に私の伝えたいことが伝わるなら、時間はかかるかもしれませんが、いつかはそういうことをする未来ももしかしたらあるかもしれません。もしそうなったときは、浅野君も協力してくれたりしますか?」

「先生がYoutuberにせよVtuberにせよそのどちらかになるというだけでも面白すぎるので、是非協力させて下さいよ。こんな面白そうなことが目の前にあるのにのけ者にされるなんてごめんですよ。何年先生のTAやってると思ってるんですか。まぁ、僕もYoutubeの配信を本腰を入れてやったことはまだ全然ないので、先生とほとんど同じ素人からのスタートになると思いますが、出来ることなら裏方でも何でもやりますよ。あ、一応確認しますけど、給料とかって出ますかね」

「勿論協力してくれるなら給料くらい別途こちらで用意しますよ。まぁそれは今すぐという形ではないので、気長に『こういう企画がしたいなぁ』という妄想をいくつかしておいて下さい。それがそのうち実現するかもしれませんから。そういえば、以前浅野君は『小説を書く』と言ったようなことを言っていた記憶があるんですが、そちらの方はどうなんですか」

「現在絶賛執筆中ですよ。ちょうどnoteっていう創作サイトで作品募集しているので、授業やTAの仕事の合間を縫ってちょくちょく進めてるんですが、そろそろ締め切りが近づいているので焦ってます。もう少しで終わりが見えそうなんですけど、書き始めるとゴールがどんどん後ろに遠ざかっていくような気がして。誰かの受け売りですけど、小説なんて安易に書こうとするもんじゃないですね。小説は読む専にしといた方が良いですよ」

「じゃあ浅野君はなんで書いてるんですか」

「とりあえず今の僕の率直かつ正直なところを言えば、書きたいから、書かずにいられないから、書きたいことが山のようにあるから、ですかね。自己満足の領域を出ませんが、なんだかんだ楽しいって気持ちが勝ってるから出来るんだと思いますよ。多分、Youtubeの配信も本質は小説を作るのと同じことだと思います。あと、自分の作品が読者の心を動かせたのだとしたら、自分がこれまで色々な試験に合格した時とはまた別の喜びが得られると思うんです。僕が小説を書くのは、そうした理由ですかね」

「そうですか。まだアマチュアの領域を出ていないという印象を受けましたが、アマでもプロでも一つの作品を書き上げることは大事です。読まれない作品は存在していないか、あるいは死んでいるも同然ですから。読んでもらえる作品に出来るのは、作品に命を吹き込ませられるのは、作っている作家にしか出来ないことですから。とにかく、頑張って下さい。私の助けはいらないように見受けられますが、困ったことがあったら何か言って下さいね。ただ授業とTAの仕事はさぼっちゃいけませんよ」

「わかってますって。桐生先生こそ、そのうちYoutuberデビューすることを楽しみにしてますからね!それこそ、以前言っていたメモリーツリー普及配信の目処がこれで立ったんじゃないですか?島崎先生にも打診しといて下さいね」

 浅野がそういったところで、本日のオフィス・アワー業務は幕を閉じた。確かに桐生の宣言通り、桐生がYoutuberとしてデビューすることはしばらくはないだろう。ただ、明らかに一度島崎のYoutubeで配信した経験は、無意識のうちに普段の桐生の講義にフィードバックされていたことは間違いないと思えるようになっていったのであった。桐生が語る言葉とその背後にある信念は教壇であれ、オフィス・アワー中の研究室であれ、あるいはYoutube等のプラットフォーム上であれ、変わることは無いのは確かである。

 桐生の講義が、そしてオフィス・アワーが聖稜大学法科大学院の壁を越える日もそう遠くはないのかもしれない。

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※この作品はフィクションです。実際の人物・事件・団体とは関係ありません。また、作中の司法試験制度は今後の法改正によって変更される可能性があります。正しい司法試験制度に関する情報は御自分で法務省のHPを確認することを推奨します。各種法律も同様に最新のものを確認することを推奨します。

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