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刑法から見る尊属殺違憲判決事件の解説~令和の時代に見る昭和の大事件~


1 憲法14条1項「法の下の平等」に関する代表的判例と言われる「尊属殺違憲判決」を解説する意義


 高校生の政治・経済の授業の中で憲法に関する判例がいくつか紹介され、大学受験生はその判例の大まかな事実の内容、結論、その結論に至る理由を(法学部生目線から言えば)簡単にでも押さえることが要求されると思われる。中には内容をよく理解しないままとりあえず教科書や予備校のテキストが書いてある通りの内容を記憶し受験本番で点数を獲得できればよし、と割り切れればそれはそれで幸せなのだろうが、中にはハッキリ理屈が分からないと気持ちが悪くて他の勉強に手が付かない人もいるのではなかろうか。この気持ちが悪くなってしまうのは大抵「要領の悪い受験生」であって、他の試験科目との兼ね合いでも苦労することが予見される。

 さて、(日本国)憲法が高校の社会(政治・経済)の講義だけではいまいち理解した気になりきれないのは、本来大学で学ぶべき民法や刑法を憲法とセットで学ぶという本当の意味で憲法を理解する作業なしに結論と理由付けだけを記憶させようとしているから不具合が生じるのである。

※なぜ憲法単体だけではなく民法や刑法といった基本法も勉強しないと真の意味で憲法を理解したことにならないかといえば、憲法が具体的違憲審査制度を採用しているからである。すなわち、何らかの法律や規定が「憲法に反しているのではないか」と疑問に思っただけでは裁判所は実際に動いてくれることなどなく、具体的な民事事件や刑事事件になって初めて憲法の規定との整合性がとれているか審査される可能性が生まれるのである。この点について関心のある方は「警察予備隊違憲訴訟(最大判昭和27年10月8日民集6巻9号783頁、行集3巻10号2061頁)」を調べてみて欲しい。なお、本筋から逸脱するのでここでは警察予備隊違憲訴訟についてはこれ以上言及しない。

 そこで、本来大学の法学部で説明するような刑法の内容を高校生相手にも分かるように説明して本当の意味で尊属殺違憲判決を理解してもらうことを試みようと思う。そして、尊属殺違憲判決事件についてどういう意味で日本国憲法14条1項にいう「法の下の平等」に反しているか具体的に理解して欲しいと思う次第である。

 加えて、NHKで放映していた朝ドラ『虎に翼』でも尊属殺違憲判決が取り上げられたことで、学生や受験生だけでなく『虎に翼』を視聴した広い世代にも少なからず関心の芽生えた事件であると思われる。なので、ドラマから憲法の判例や他の法律に興味を持った方々にも理解が深まる投稿をしようと思った次第である。

2 事実の概要


 ここで、尊属殺違憲判決と呼ばれる最判昭和48年4月4日刑集27巻3号265頁・判時697号3頁の事実の概要を書き加えることとする。なお、「最判」とは「最高裁判決」の略称であり、「刑集」とは「刑事判例集」の略称のことをいう。また、「判時」とは「判例時報」という法律系の雑誌のことをいう。これら刑事判例集(民事事件の判例集の場合は民事判例集、略して「民集」)や判例時報、判例タイムズ(「判タ」と略される)といった法律冊子は法学部の図書館に揃えてあるのでもし法学部生やロースクール生などで大学構内の施設を自由に取り扱えるなら一度これらの資料を見てみることを勧める。ゼミで判例の一次資料をチェックする際に役立つだろう。

 話がいささか脱線してしまったので本筋に戻す。どんな事件も内容を具体的に把握していた方が理解が進むので紹介しようと思うが、以下、事実の内容は少なからずショッキングな内容を含んでいることをあらかじめ断っておく。法学部に進学して法律を勉強することは、少なからず社会的にショッキングな出来事に対して真っ正面から向かい合う学問でもあるので、そうしたものに耐性がない読者がいるのであればブラウザバックしてくれても構わない。そして法律学以外の楽しそうな他の学問なり何なり好きなことに時間をかけた方が精神衛生上良い。しかし、本来社会が蓋を閉じるようなことにもあえて蓋を開け探求するという大学の学問にひるむことなく真実を知りたいという、知識に対して耐性のある者はこのまましばしお付き合いいただきたい。なお、プライバシー及び匿名性の確保のために登場人物にはX、Y等の記号を充てる事をあらかじめ断っておく。

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[事実の概要]
 Yは、14歳の時に実父Mから犯され、以後、10年あまり夫婦同様の生活を強要され、5人の子供まで産んだが、1968(昭和43)年8月頃、職場でたまたま知り合った青年と愛し合い結婚を考えるようになった。しかし、これを知ったMは、これを嫌い怒り狂ったうえ、10日あまり脅迫虐待を加えたため、Yは煩悶し、忌まわしい境遇から逃れようとして同年10月5日夜、Mを絞殺した。

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 Yは実父であるMから性的虐待を受け(上記の通り父の子を産むまでのことをされている)、その生活に耐えかねて父親を殺害したという刑事事件である。昨今は「毒親」「親ガチャ」といった言葉が市民権を得ているが、このMという人物はこれらの言葉すら生ぬるい鬼畜外道・獣(ケダモノ)といった類いのナニカである。Mは実の子に殺されたという意味では「被害者」であるが、殺される原因を自ら生成しているという意味では「加害者」である。Mが殺されるまでにYにしてきたことは当時の刑法の規定で強姦罪、監禁罪、脅迫罪…といった犯罪にあたる行為である。Yは逮捕こそされたものの逮捕に至る事情を鑑みれば検察が不起訴処分にしてもよさそうなものである(刑事訴訟法248条参照)。しかし、検察は通常の刑事手続通りYを尊属殺人犯として起訴したのである。一方、Yの弁護士はYを「加害者」ではなく「被害者」であるとして何とか救済しようと刑法の理論や憲法論まで持ち出して裁判で争うことになるのである。

3 第1審判決を理解するための刑法入門


 最高裁判決を見る前に日本の裁判は三審制を採用していることから確認を念のためしておく。いきなり最高裁判決が出されるわけではなく、まずは第1審の地方裁判所で当該事件の判決がなされるわけである。

 ここで、刑事事件を判断するに当たって「犯罪とは何か」ということを確認しておく(これは高校社会の範囲を逸脱した、本来大学で刑法を履修してから学ぶ内容である)。刑法上「犯罪とは何か」と問われたら「①構成要件に該当する、②違法で、③有責な行為である」という回答が返ってくるだろう。この①構成要件該当性違法性有責性が初学者にとっては(法律学を勉強していない高校生以下の学生にとっては)意味が分からないと思うので可能な限り説明を加えていく。

①構成要件該当性


 刑法における構成要件該当性とは、ざっくり言ってしまえば「自分の行った行為が刑法上犯罪とされる行為に当てはまるか」ということである。刑法は「第2編 罪」から各種犯罪を規定しており刑法77条に規定される内乱罪から刑法263条の信書隠匿罪までにあたる行為を「犯罪」と定義して、これらの行為を行った者を犯罪の構成要件にあたるとして(一応)有罪の推定を働かせるのである。逆に言えば、刑法上犯罪と定義されていない行為については自由に行動することが保障されているともいえる。「罪刑法定主義」という、罪と呼ばれる行為とその罪に対応した刑罰はあらかじめ法律に定められなければならないとされる重要な原則を反映しているともいえるのである。この罪刑法定主義という思想は日本国憲法31条にも現れている。ちなみに、日本国憲法31条は以下のように規定されている。

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

日本国憲法31条

 だから、例えば深夜に美味しそうな食事の画像を添付したり配信するといういわゆる「飯テロ」という行為も、「テロ」という名称がつけられているものの「飯テロ」を犯罪として規定ないし処罰する法律が存在しないので、国家から罰せられることのない合法な行為として行うことが許されるのである。これは社会的・道徳的・倫理的に許されるかどうかとは別次元の問題である。インターネットやSNSではよく「○○罪だから処罰しろ」という言説が見られるが、厳密にその「○○罪」というのが存在しているのか、また「○○罪」が存在するとしてもその「○○罪」に当たる行為なのかどうかはきちんと検討する必要がある。自分の頭の中にしかないルールを持ち出して「○○罪だから死刑」といったような態度は近代国家は採用しないのである。刑罰を与えるに値する行為というのは予め国民に選ばれた代表である政治家が立法府で作った法律という形で明示する必要がある。

 言ってしまえば、被疑者の行った行為が、刑法という名の犯罪のカタログに掲載されている行為と言えるかどうか確かめるのが、刑法的な意味で「犯罪とは何か」を検討する第一歩であることを抑えていただければ幸いである。

②違法性


 基本的に構成要件に該当すればそのまま有罪推定が働くのが刑法の原則であるが、その原則をあらゆる事象に適応させると不都合が生じるケースがある。

 例えば、外科医が手術をするために患者の患部をメスで切開すると、切開した医者は刑法204条で定めるところの「人の身体を傷害した者」にあたるとして傷害罪の構成要件に当てはまることになる。しかし、だからといってこの国の手術をする外科医を全て傷害罪で逮捕することはあまりに非現実であるから、何かしらの例外を認める必要が出てくる。そこで登場するのが刑法35条という規定である。「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」(刑法35条)と規定される「正当行為」に外科手術があたるとして、外科医は無罪となるという論法である。なお、これは医師国家試験に合格して医師免許を持っている通常の医師の救済方法であって、無免許の天才医師であるブラックジャック大先生は刑法35条では救済されない。ブラックジャック大先生は刑法37条1項本文に定める緊急避難の要件を満たしているか検討した上で無罪になるか否かを検討する必要が出てくることになる。

 また、例えばAが勢い余ってBを殺してしまったという事案も、一律に殺人罪が成立すると処理するのは早計である。殺されたBがそもそもストーカーであって意中のAと無理心中を図ろうとしたところ、ストーカー被害者であるAは自分の身を守るためにBが持っていたナイフを奪ってBに刺した結果、Bが死んでしまったといったような場合、Aを刑法199条の「人を殺した者」にあたるとして刑罰(「死刑または無期若しくは5年以上の懲役」)を課すことは果たして妥当だろうか。このような場合も、ストーカー被害者であるAの行った行為はあくまで刑法199条の構成要件にあたるとした上で、例外的に刑法36条1項正当防衛が成立するか検討し、正当防衛が成立すれば無罪となる、といった理屈で救済する道が残されている。なお、正当防衛は本件尊属殺違憲判決でも重要な概念となっている。

 こうした正当行為や緊急避難、正当防衛といったものは「違法性阻却事由」とも呼ばれ、構成要件にあたるか検討した後で違法性阻却事由が存在するか否かを検討し、有罪か無罪か検討することになる。

③有責性


 上述した①「構成要件該当性」と②「違法性」を順に検討した後で更に検討すべき事項が③「有責性」である。近代国家においては自己の行った行為の善悪を判断できる人間に対して刑罰を科すべきという価値判断があり、そもそも物事の善悪を判断する能力に欠けている者(幼稚園児など)には刑罰を科さない・犯罪を成立させないといった運用がなされている。「14歳に満たない者の行為は、罰しない」刑法41条で定められているのがその典型例である。また、本件尊属殺事件に関しては心神喪失(刑法39条1項)・心神耗弱(刑法39条2項)が関係してくる。

4 ここまでの刑法理論の簡単なまとめ


 だいぶ説明を省いてしまったが、おおよその犯罪成立の三要件を検討した。犯罪の成立過程は、以下のようになる。

①構成要件該当性→②違法性→③有責性の順で検討し、犯罪が成立するときは、
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構成要件該当性検討→(構成要件にあたる)→違法性検討→(違法性あり)→有責性検討→(有責性あり)→有罪
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という流れになる。

一方、無罪となるときは、
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構成要件該当性→→→→→→違法性→→→→→→有責性
 ↓            ↓       ↓
 ↓(構成要件に当たらず) ↓(適法)   ↓(責任なし)
 無罪          無罪      無罪
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ということになる。弁護側としてはこの下側の無罪を勝ち取るための法律論を組み立てることになるのである。

5 1審判決の内容


 第1審判決(宇都宮地判昭和44年5月29日判タ237号262頁)を解説する前に刑法200条について少し解説しておく。現在は刑法200条は既に削除され存在しない規定となっているが、事件当日は刑法200条「尊属殺」という規定が存在していた。刑法199条にいう殺人罪の強化版とでも言うべき規定であり、父母、祖父母といった目上の親族=「尊属」を殺害した場合「死刑または無期懲役」しか科されないという重い規定であった。どうして重い規定と言えるかについては後述する。

 簡単に言ってしまえば、1審では刑法200条は憲法に反しているので200条の適用はなく、そのため刑法199条という通常の殺人罪について判断し、過剰防衛を理由に刑を免除した。先程の①構成要件該当性→②違法性→③有責性の順で検討すると、

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①刑法199条にあたるか→「人を殺した者」にあたる
→②刑法36条1項の正当防衛が成立するか検討
     ↓同条2項の過剰防衛が成立することで刑を「免除」
    無罪

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ということになったのである。

6 2審(原審)判決の内容


 第2審は最高裁判決の前という意味で「原審」と呼ばれることもある。本件の第2審(東京高判昭和45年5月12日判時619号93頁)では、まず第1審判決が破棄された。すなわち、刑法200条は憲法に適合した有効な規定であるとされ(刑法199条は刑法200条が優先的に適用されるとしてここでは考えないものとした)、過剰防衛の成立も否定された。その次の段階として心神喪失(刑法39条1項)の成立を検討したところ、心神喪失は否定されその代わりに心神耗弱(刑法39条2項)は認められた。つまり、尊属殺人は成立するものの、刑罰の減軽は認められたのである。上述の①構成要件該当性→②違法性→③有責性の順で検討すると、

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①刑法200条にあたるか→「直系尊属を殺したる者」にあたる
→②刑法36条1項の正当防衛が成立するか検討
 ↓正当防衛は成立せず、同条2項の過剰防衛の成立も否定
→③刑法39条1項の心神喪失にあたるか検討
 ↓心神喪失にはあたらない
有罪
(ただし、刑法39条2項の心神耗弱は認められ、ここから刑罰の減軽処理が行われる。刑罰の加重減軽については後述)

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ということになったのである。

7 上告の理由と執行猶予制度


 裁判所の判断が納得出来ないときは、その納得出来ない判断をした裁判所よりも上のランクの裁判所に判断を仰ぐことを申立てることが出来る制度のことを「上訴」という。上訴の中でも一審(地方裁判所)から控訴審(高等裁判所)への上訴のことを「控訴」、控訴審(原審・高等裁判所)から最高裁判所への上訴のことを「上告」という。

※上記の上訴(控訴、上告)の説明は厳密に言えば正確ではない。簡易裁判所が第一審になる場合地方裁判所への上訴が「控訴」地方裁判所から高等裁判所への上訴のことを「上告」というからである。ここでは、わかりやすさを優先させるため、尊属殺事件の事実と同様に第一審が地方裁判所(宇都宮地方裁判所)の場合の上訴の仕組みを紹介していることをご了承いただきたい。

 本件は刑事事件であるので刑事訴訟法に基づいて手続は進行していく。刑事訴訟において上告が出来るのは刑事訴訟法405条各号に定められている場合である。同条1号にはこのように記載されている。

「憲法の違反があること」

 ここでやっと憲法の話が出てくるのである。尊属殺違憲判決というネーミングから、法律学を本格的に学んだことのない人は最初から憲法的な論点が裁判上の争点になっていると思いがちかもしれないが、実際の裁判実務を丹念に紐解くと裁判実務で憲法が論点として絡んでくるのは手続の後半の方なのである。言ってしまえば、裁判実務上わざわざ憲法を持ち出さなくとも民法や刑法といった基本的な法律の枠組みの中で紛争を解決できるのならばその枠組みの中で解決しようとするのが基本的な裁判実務の在り方である。そして、その基本的な法律の枠組みだけでは事件を適切に解決できない場合に初めて憲法が登場するのである。

 そして、尊属殺違憲判決の上告理由として具体的に憲法のどの条文の違反があるのかといえば、「法の下の平等」を定めた憲法14条1項に違反するとして上告がなされたのである。

※これは私見であるが、尊属殺違憲判決の上告手続は仮に憲法論を持ち出さなかったとしても刑事訴訟法411条2号の「刑の量定が著しく不当であること」に当たるとして上告すること自体は可能であったと思われる。もっとも、刑事訴訟法411条に基づいて上告し尊属殺違憲判決を判断しようとすると、憲法判断がなされず刑法200条が無効という判決は得られない可能性がある。刑事訴訟法411条2号は完全に余談であるが、この「刑の量定が著しく不当である」という規定は、今回の憲法14条1項に定める「法の下の平等」に反するか否かを判断する上でとても重要な指標となるのでここで挙げることにする。

 では、具体的にどこが憲法14条1項の定める「法の下の平等」に反するのかといえば、通常の殺人罪を定めた刑法199条と比べて刑罰が著しく重いということである。通常の殺人罪である(当時の)刑法199条と尊属殺の200条の量刑を比べてみよう。

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刑法199条(当時)「死刑又は無期若しくは3年以上の懲役」
刑法200条「死刑又は無期懲役」

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 刑法199条と刑法200条を比べるとどちらも刑の上限は「死刑」であることは変わりないのでこの点について「法の下の平等」に反するとは言えなさそうである。一方、刑の下限について見てみると、刑法199条(当時)は「3年以上の懲役」であるのに対して刑法200条は「無期懲役」である。憲法14条1項が問題になるとすればこの下限の量刑の差ということになりそうだが、これだけではまだ釈然としないだろう。

 両者の刑罰の規定に著しい差があると言えるのは、刑の実行が猶予されるか否かという点である。刑法上、犯罪が成立するか否かという点と、実際に刑が執行されるかという点は別次元のものとして考えられる。上述の①構成要件該当性→②違法性→③有責性という順に検討した結果犯罪が成立した場合、更にその先に④刑の執行猶予がなされるかを検討する必要が出てくるのである。そもそも犯罪が成立しないのに刑の執行猶予を検討する必要は無いので、刑の執行猶予を検討するのは前提として犯罪が成立するということが認められた場合のみである。

 刑罰の実行猶予が認められるためには、その根拠条文である刑法25条1項柱書を見ると「3年以下の懲役若しくは禁固又は50万円以下の罰金の言渡しを受けたとき」である。通常の殺人罪(当時)の場合は刑の下限が「3年以上の懲役」とあるので刑法25条1項柱書の「3年以下の懲役…の言渡しを受けたとき」を満たし執行猶予が認められる。

※現在の殺人罪は「5年以上の懲役」と改正されているので、そのままの下限では執行猶予は認められないことに注意していただきたい。

 では、尊属殺の場合はどうか。「死刑又は無期懲役」という規定があるが死刑と無期懲役とではどちらが重い刑なのだろうか。直感的に死刑の方が重いと言えそうだが、刑法的に検討するとどうなるだろうか。刑法9条を見ると刑の種類として「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留および科料を主刑とし、没収を付加刑とする」とある。そして、刑法10条1項本文を見ると「主刑の軽重は、前条に規定する順序による」とある。すなわち、死刑と無期懲役を比べた場合、刑法9条と10条1項本文の規定により死刑の方が重い刑であることが分かる。同様に、「無期懲役」と「3年以下の懲役」ではどちらが重いことになるだろうか。これも直感的に分かりそうではあるが、刑法の条文に則して考えることとする。刑法12条に懲役に関する規定があり、「懲役は、無期および有期とし、有期懲役は、1月以上20年以下とする」とある。また刑法10条2項によると「同種の刑は、長期の長いもの」「を重い刑とし、長期」「が同じであるときは、短期の長いもの」「を重い刑とする」とある。これらを合わせて考えると、「無期懲役」と「3年以下の懲役」では無期懲役の方が重い刑となる。そのため、尊属殺の規定だけを見れば執行猶予の余地はないように思える。

 ここで、刑の加重減軽というのがポイントとなる。同じ犯罪を犯したとしても、個別具体的な事情を考慮して実際の刑罰を重く設定することが可能なのである。例えば、一人を殺した場合と三人を殺した場合では、どちらも同じ殺人罪が適用されることに異論は無くとも三人殺した場合の方が重く処罰されると考える方が自然ではないだろうか。逆に言えば、同じ犯罪を犯した場合でも事情によっては刑を減軽することも考えられる。そして、減刑のチャンスは法律上の減軽酌量減軽という2回のチャンスが存在する。最初に法律上の減軽を行い、それでもなお減軽が足りない場合に酌量減軽を行うのである。刑法72条加重減軽の順序が規定されており、まず「法律上の減軽」(同条2号)をした上で「酌量減軽」(同条4号)を行うのである。

 では、具体的に尊属殺の刑を減軽するとどうなるであろうか。下限の無期懲役をまず法律上の減軽として処理すると、刑法68条2号により「無期の懲役」「を減刑するときは、7年以上の有期の懲役」「とする」ことになる。次に、刑法71条の酌量減軽を行うと、刑法68条3号により「有期の懲役」「を減刑するときは、その長期および短期の二分の一を減ずる」とある。すなわち、7年以上の有期懲役が3年6月の有期懲役となるのである。この「3年6月の有期懲役」というのが尊属殺を限界まで減刑したときの刑罰なのである。これでは、執行猶予をしてもらうための「3年以下の懲役」に絶対に届かないことになるので、尊属殺が認定されると絶対に執行猶予が付かないのである。この絶対に執行猶予が付かない点が通常の殺人罪と比べて著しく不当に刑が重く憲法14条の定める「法の下の平等」に反するということになるのである。

※刑法の改正により、将来的に懲役刑と禁錮刑は合体した「拘禁刑」となることに注意する必要がある。ここでは拘禁刑について詳細な説明は省く。尊属殺違憲判決を理解する上では改正前の懲役刑と禁錮刑の規定のままの理解の方が自然と思われるのでその点をご了承願いたい。
 

8 最高裁判決の内容


 最高裁判決の結論を端的の述べると「破棄自判」、すなわち原審の判断を覆し、最高裁が自分で事件の判断をするという方針を採用した。因みに、最高裁で判断するのではなく下級審に判断させ直すことを「差戻し」という。今回の尊属殺事件においては差戻しではなく最高裁自身で判断するという、最高裁が重い腰を上げて自ら判断した重要な事案であることが注目されている。

 以下、最高裁が判断したポイントを4つに分けて引用して紹介する。

(1)平等原則の趣旨

「憲法14条1項は、国民に対し法の下の平等を保障した規定であって、同項後段列挙の事項は例示的なものであること、およびこの平等の要請は、…合理的な根拠に基づくものでない限り、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨…である。」

『憲法判例 第6版』戸松秀典/初宿正典編著、有斐閣

(2)加罰規定の目的と差別の合理性

「刑法200条が憲法…に違反するかどうかが問題となる…が、それは…差別的取扱いが合理的な根拠に基づくものであるかどうかによって決せられる。」
「刑法200条の立法目的は、尊属を卑属またはその配偶者が殺害することをもって…高度の社会的道義的非難に値するものとし、…通常の殺人の場合より厳重に処罰し、もって特に強くこれを禁圧しようとするにある。」
「尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義というべく、…刑法上の保護に値する…。」
「尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させても、あながち不合理であるといえない。」
「…法律上、刑の加重要件とする規定を設けても、…合理的な根拠を欠くものと断ずることはできず、…憲法14条1項に違反するということもできない。」

『憲法判例 第6版』戸松秀典/初宿正典編著、有斐閣

(3)加重の程度と極端な厳しさ

「しかしながら、…加重の程度が極端であって、…立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法14条1項に違反して無効である…。」
「刑法200条をみるに、…刑種選択の範囲が極めて重い刑に限られ…処断刑の下限は懲役3年6月を下ることがなく、…法律上刑の執行を猶予することはできない。」
「量刑の実情をみても、尊属殺の罪のみにより法定刑を科せられる事例はほとんどなく、…2回の減軽を加えられる例が少なくないのみか、その処断刑の下限である懲役3年6月の刑の宣告される場合も決して稀ではない。このことは、卑属の背倫理性が必ずしも常に大であるとはいえないことを示すとともに、尊属殺の法定刑が極端に重きに失していることをも窺わせるものである。」
「尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限定されている点(現行刑法上、これは外患誘致罪を除いて最も重いものである。)においてあまりにも厳しいものというべく、…合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない。」

『憲法判例 第6版』戸松秀典/初宿正典編著、有斐閣

(4)判例変更による違憲性の認定

「刑法200条は、…必要な限度を遙かに超え、普通殺に関する刑法199条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法14条1項に違反して無効であるとしなければならず、したがって、尊属殺にも刑法199条を適用するほかはない。この見解に反する当審従来の判例はこれを変更する。」

『憲法判例 第6版』戸松秀典/初宿正典編著、有斐閣

 上記の最高裁の判断を簡単にまとめると、以下のようになる。
 
 まず、刑法200条=尊属殺という規定を設けることそれ自体が刑法199条=通常の殺人罪と比べて憲法14条1項に反するかを審査すると、尊属殺という規定を設けること=尊属に対する尊重報恩を刑法上の保護法益とすること自体に問題は無く、通常の殺人罪の場合よりも重い刑を科すこと自体は憲法14条1項の定める「法の下の平等」に反することではないとする。

 しかし、刑法200条の規定を見ると「死刑または無期懲役」という、どう頑張っても100%執行猶予が付かないほど重すぎる刑を科すのは憲法14条1項の定める「法の下の平等に反する」として、刑法200条は憲法14条1項に反するということになり、無効という結論に至った。これは逆に言えば、もし刑法200条の量刑規定が幅広く執行猶予が付く可能性があったならば、現在でも刑法200条は憲法14条1項に反しないとして存続していた可能性があるということである。

 大事なこと=試験でも正誤判断において重要なポイントになるので何度でも述べるが、尊属殺違憲判決において刑法200条が憲法14条1項違反という判断に至った理由は、刑法200条=尊属殺という規定そのものが憲法14条1項に反するという判断をしたのではなく、刑法200条に当時規定されていた「死刑または無期懲役」という規定=絶対に執行猶予が付かないほどの重い量刑が通常の殺人罪=執行猶予が付く可能性のある量刑と比べて著しく不合理であるから憲法14条1項に反する、という結論に至った論理的思考過程を正確に押さえて欲しい。結論が同じでも結論に至るまでの過程が違えばそれは別のものと判断されることに注意が必要である。

 最高裁の判断により、刑法200条の適用がなくなり通常の199条の殺人罪の適用がなされることとなった。違法性や有責性の検討がなされたのかどうかは不明であったが、結果だけ見れば3年以上の懲役刑が下され、それはすなわち執行猶予が認められることでもあるので、事実上無罪に等しい結果を弁護団は勝ち取ることが出来たのである。

9 まとめ及び私見


 刑法200条が憲法14条に反して違憲とされるのに長い時間がかかった。もっとも、最高裁の多数派の意見は尊属殺という規定の存在そのものではなく執行猶予が付かないほど重い刑罰規定であることが理由であることに注意しなければならない(もっとも、最高裁判事の意見の中には尊属殺の規定そのものが違憲とするものもあった)。最初から執行猶予が認められそうな量刑であった場合は現在でも尊属殺の規定が残っていた可能性がある。

 仮に現在でも尊属殺の規定が残っていた場合、私は尊属殺ならぬ「卑属殺」=子供や孫を殺害した場合の特別に重く処罰する殺人罪の規定がないことが憲法14条1項の「法の下の平等」に反するのではないかと考えていたりする。少子高齢化が加速する我が国において、子供や孫世代は貴重な国の宝と言える。そうした彼らを殺害した尊属には通常の殺人罪よりも重い刑罰が科せられても良いのではないか。そうした議論がなされることもなく尊属殺の規定が残り続けることは本来削除されるべき規定を削除しなかった立法不作為が認められ、通常の刑事裁判で刑法200条が違憲のため無効と言うだけでなく、刑法200条を削除しない・「卑属殺」という刑罰を新設しないという立法不作為を理由とした国家賠償請求も認められるのではないかと考えているのである。

 とはいえ、この「卑属殺」なる犯罪規定を新たに設けることにもいくつか問題はある。まず、既に存在している保護責任者遺棄罪・同遺棄致死傷罪の存在とかぶってしまうことである。厳密に言えば「卑属殺」と保護責任者遺棄罪・同遺棄致死傷罪とはかぶらない領域もある(と思われる)ので、運用は詳細に事案を検討すれば問題が無いような気もする。それはそれとして、子供を殺した親を通常の殺人罪として逮捕・起訴した場合でも最高刑の「死刑又は無期懲役」という運用にすれば実質的に「卑属殺」を設定したのと同様の効果が得られるのでわざわざ「卑属殺」なる規定を新設する必要は無いのではないかとも思われる。そして何より、今回取り上げた尊属殺事件の逆のパターン、すなわち子供が親に殺されても仕方のないような特殊な事情がある場合(子供が著しくひどい家庭内暴力を振りかざしていたり、周囲に犯罪を実行する危険があった場合など)に、殺した親が特別に通常の殺人罪よりも重く罰されることになってもそれはそれで憲法14条1項の定める「法の下の平等」に反することになるかもしれない。 そういうわけで、「尊属殺」なり「卑属殺」なる家族関係であることのみを根拠とした特別な法定刑を設けることは憲法14条1項の「法の下の平等」に反することになると結論づけざるを得ないということになりそうである。もっといえば、家族関係を理由に個人を重く処罰しようとする刑罰規定は、個人の尊重を定めた憲法13条にも反することになると言えるのではないかとも思う。

 そうすると、最高裁は尊属殺違憲判決において「尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義」であるとして刑法上の保護に値すると言うが、それならばそれと同じ程度に「卑属に対して保護や健全な成長を尊重する」ことも同じ程度に刑法上の保護に値すると言えるのではないか。最高裁は尊属殺違憲判決が出されるまでは長らく尊属殺規定を「合憲」と結論づけてきたわけだが、その実態は被害者である尊属は卑属に殺されて然るべき事情が少なからずあり、現に尊属殺違憲判決の弁護を担当した弁護士は同じようなことを裁判所で述べている。もっと言えば、日本国憲法は「個人の尊重」を謳った規定が散りばめられておりどこにも「家族・尊属を尊べ」という趣旨の規定は無い(もしあるのならばそれは大日本帝国憲法下でまかり通っていた家父長制が日本国憲法下でも生き続けていることを自白していることになる)のだが、まるで最高裁は「子供はとにかく個性や個人の主体性を捨ててでも尊属に報いろ」とでもほざいているようである。そして、そうした態度が誤りであることを認めるのにだいぶ時間がかかったようである。だが、尊属殺が違憲であると判決を下した大多数の理由は「尊属殺という規定そのものが違憲なのではなく、刑罰が著しく重すぎるから違憲なのである」という点に注意する必要がある。勿論、当時の最高裁判事の中には「尊属殺それ自体が違憲」というものもあるのだが、最高裁が違憲判決を出したロジックには注意をする必要がある。「個人の尊重」を謳った日本国憲法の最後の番人である最高裁判事が旧来の家父長制度的な価値観に縛られているようにも思える判決を下したのは、個人的には納得がいっていない。日本国憲法が謳う価値観が普遍的であるならば、現在において「明らかに駄目だろう」という価値観は当時においても(はっきり明言するのは憚られるとしても)少なからず「駄目」と言えたはずである。最高裁(の多数派)は「社会の基本的道義」とやらを大事にしているようだが、確かにそれは大事である側面はあるけれども、それはそれとして常に社会が「正しい」というわけではなく、そもそもその「正しさ」が変わったり・変わったように見えることもあったりするので、最高裁に限らず裁判所は迅速な価値観のアップデートを怠ることなく・それでいていつの時代にも変わることのない普遍的な人権尊重という価値観を担いつつ日々の業務に専念していただきたいと思った所存である。

10 おわりに~社会規範は永遠に「未完」であることを踏まえて~


 尊属殺違憲判決はただの一つの刑事事件であるだけに留まらず、当時「合憲」とされていた尊属殺規定を「違憲」と判断して社会規範を変えた一大事件である。もっとも、違憲判決が出て直ちに尊属殺規定が削除されたわけではなく、実際に刑法200条が削除に至るまでにはだいぶ時間がかかっている。このように、社会が変わるには小さな変化の積み重ねと多くの時間を要する。一方で、昨今はパソコンやインターネット、スマホやSNSだけでなくAIの進歩・発展が著しく法整備がこれらの技術の発展に追いついていない状況である。そして、法整備が追いついていないということは個人個人で何となく「こうした方が良いのではないか」「これはやってはいけないのではないか」といった自主的な「ルール」が衝突することもしばしばある。

 こうしたある種混沌とした時代に生きる我々に出来ることは、永遠に完成することのない社会規範の下に生きる我々に許された行為とは、とにかく「学び続ける」ということである。一昔前までは大学に進学するなり権威のある人に直接話を聞くことでしか得られない知見や専門知識にも、現在ではスマホなどの手持ちのテクノロジーを駆使することで容易にアクセスできる時代である。また、何か新しいことを学ぶにしても、一昔前までは書籍を独学で読むかどこかの学校に通う必要があったのが、現在ではインターネットによる遠隔授業や授業・解説動画の配信をするといった人も増えている。現に私もnoteというSNSを用いて不特定多数の人に簡単な刑法理論を交えた尊属殺違憲判決の解説なんてことを出来ているのである。

 学び続ける上で大切なことは、安易に一つの絶対的な「正解」を求めようとするのではなく、「正解」は複数存在し得ることがありその根拠となる背景も様々あることを常に意識し続けることである。自分とは異なる意見を持つ人はどういう背景があってそうした意見を出力しているのか、想像力や論理的思考力を駆使して考え続けることである。こうした複数の思想や学問のパッチワークを紡ぎ続けることで、いつか確固たる自分の「思想・信条」が生まれることだろう。そして、そうした不断の努力を続ける者たちが社会を形成することで普遍的な価値を持つ社会規範が生まれるのだと思う。

 実際に普遍的な社会的規範が生まれるには相当の努力と時間が必要になるだろう。本投稿が読者の皆様のそのきっかけなり第一歩となっていただければ幸いである。

<参考文献>
『憲法判例 第6版』戸松秀典/初宿正典編著、有斐閣
『令和3年度司法試験用法文』司法試験委員会発行



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