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桜並木の記憶

東武東上線の池袋駅から、電車に揺られること約10分。どこか寂れた雰囲気の駅舎が窓に映り、私はそこで降りた。幼少期を過ごした思い出深い街、中板橋は古い友人のように、いつ訪れても変わらぬ温かさで迎えてくれるような気がする。

 昔ながらの商店街を歩いていると、あちこちから「いらっしゃい!」という威勢のいい八百屋や魚屋の声が飛び交う。道の真ん中で井戸端会議をするおばあちゃん達、下校中の子供のはしゃぐ姿。その一つひとつが私を幼い頃に引き戻し、ノスタルジーの世界へ攫っていく。

 中板橋は、板橋区を代表する桜の名所としても有名だ。毎年3月末から4月初旬にかけて、石神井川の両岸を覆うように、埋めつくすように1,000本を超える桜が咲き乱れる。まるで桜のトンネルのような景観は見事で、遠くからわざわざ足を運ぶ人もいるほど。

 その頃になると商店街には多くの人が溢れ、にぎやかな街は一層活気づく。当時父の単身赴任で母と2人暮らしだった我が家にも、たくさんの来客があった。2階建ての古いアパートの1室、2DKの少し手狭な部屋に6~7人が押し寄せるものだから、普段とは違う非日常感にわくわくしたものだ。

 いつもより饒舌で機嫌が良い母が作る、餃子や豚の角煮、エビチリなど、色とりどりの中華料理がテーブルを彩る。グラスに注がれた日本酒のツンとした匂いが部屋中に漂い、頭がクラクラした。笑いながらみんなで食卓を囲み、窓辺からひらりと舞う桜を眺める時間。父がいない寂しさも、忙しい母が構ってくれない苛立ちも、つかの間忘れてただただ幸せだった。

 来客が帰る頃には日も暮れて、夕闇のなか、ポツポツと提灯に灯が灯りだす。私は静まりかえってしまった部屋から、街全体が淡いピンク色に包まれていく様子をいつまでも飽きずに眺めていた。灯りに照らされ、くっきりと輪郭を浮かび上がらせた怖いくらいに綺麗な桜を、今でも鮮明に思い出せる。

 昔アパートがあった場所には、今は新しいマンションが立っている。通いなれた児童館も、好きだったお店も様変わりし、私は圧倒的な時間の流れを前に立ち尽くす。それでも、今年も中板橋の桜並木は素晴らしかった。思い出補正は大いにあれど、私にとって桜の名所といえば、ここが不動の1位なのだ。夫と2人で訪れたので、桜景色を背景に彼に写真を撮ってもらった。後で写真を見返したら、予想の3倍くらい笑顔で映る、幸せそうな自分がそこにいた。

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