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#小説
2207D志乃【瞬間カクテル】
昼と夜。いや、夕と夜か。
型板ガラスの濁らない凹凸を、層になった時間の色が染めている。目に刺さるような西日の鋭さは和らげられて、菱の面格子が落とす細い影をキッチンに落とすこともない。
オレンジキュラソー、レモネード、バタフライピー。色味から思いついたリキュールやドリンクを並べてみるが、味が合うのかどうかもよくわからない。ただ、このひなびたワンルームで朝出かけたときのまま散らかったキッチンの窓か
2207B志乃【レンズ】
きろり、と巨大な目が動いて私を見た。
水抜きパイプなんかに潜んだ私をじっと見る顔は、無感動で静かだ。
暑すぎる日差しに耐えかねて、しかし地中に埋まるのと変わらないパイプ奥では冷えすぎる。日向と影の境にぼんやり寝そべることを咎めるでもない透明な一つ目は、もしかしたら私のこの場所をうらやむ同族なのかもしれない。
しばらく私と見つめ合った一つ目は、カシャ、と一声鳴いて去って行った。
2206B志乃【雲菓子】
夏の空にもくもくと、ご機嫌に浮かんで流れる雲のひとかけを、無造作に引きちぎって持ってきた。砂糖を練り込んで、大空に比べれば小さな小さなタルトに詰めて、予熱したオーブンに焼き色がつくまで閉じ込めて……。
雲さんはどこから来るの、と僕を叩き起こした子供たちが泣き叫びそうなことを考えながら、泡立て器を振るう。ピンとツノが立つまで念入りに泡立てて、メレンゲ作りはひと段落だ。まるでちぎってきたかのように、
2205D志乃【それが恋だと氷も騒ぐ】
一つのグラスにストロー二本だなんて、どう使うんだ。
……そう、思っていた時期が、自分にもあった。
今目の前にはジャム瓶みたいなグラスが一つ。たっぷりの氷と、くし切りのレモンと、それから赤と緑のストローが一本ずつ。夜だというのに茹りそうなほど暑い空気の中で、グラスはテーブルに池を作りそうなほど汗をかき、ついでにレモンの果汁を滴らせている。
テラコッタオレンジの中身は溶け始めた氷に薄まりそうで、
2110A志乃【秋香】
固い緑の葉の影に、つまみ簪のように寄せ集まった橙の小花。吹けば散り散りに落ちていきそうな脆い様子だが、これを見つけたのは花姿からは想像もつかないほどに強い香りが鼻孔をくすぐったからだ。
そよ、とかすかな風に頬を撫でられ、冷えてきた夕風に混じる甘いにおいに、もうそんな季節かと足を止める。垣として道に並ぶ金木犀は、さほど多くの花をつけてはいないのに、よく香った。
雨でも降れば足元を橙に染めて、香
2021Su志乃【橋竜】
しとしと、水気を吸ってしんなりと地面に重なる枯葉を踏んで歩く。落ちた小枝も若木の枝のようにやわらかく、靴底に圧されても曲がるばかり、折れようとはしない。
息ができる水の中にいるような潤った空気は、すぐ近くに滝があるからだ。高く空の上から落ちるような滝は、その足もとに涼しいながらも年中雨が絶えないかのような、特殊な気候を作り出している。
透き通るような緑の木々に、無造作につかんだ宝石をまき散ら
2105B志乃【花園の桜鯉】
盆にのせた茶器を揺らさないよう、しずしずと歩く。風が吹けば、この庭園名物の八重桜が舞って、茶器の中へ入りこんだ。使いの式は茶を寄越せとしか告げずに消えたので、肝心の茶を所望した主人がどこにいるものかがわからない。
池のほとりかと思ったが、藤棚の下にはいなかった。満開の躑躅の陰にも。少なくとも座って茶を飲める場所にいるだろうことは間違いないが、と池へ目をやれば、池の上に足を出して浮かんだ水榭にた
2021Sp志乃【年輪】
二時間前には所狭しと皿に乗った料理が並んでいた食卓を、満足のため息とともに眺める。とうに食事の片付けも済んで、皿は洗い終わっていた。食後のお茶も和やかにお開きになり、なにも乗っていない深い木の色が暖色蛍光灯に照らされているばかりだ。
濡らして固く絞った台拭きを黙々と往復させる。お茶の前にだって一度綺麗に拭いたのだから、大して汚れてもいない。油汚れに突っかかることもなく全面拭き終えて流しへ行き、
2102D志乃【ミッション】
隠れる場所がないな、と言うと彼女はくすくす笑った。
公園デートをしに来たのであって、かくれんぼをしに来たわけではないのは承知している。
大きなタイルの階段に、詰草の花が白く霞んだ緑の絨毯。人の背丈の三倍ほどに水を噴き上げる立派な噴水が、公園の中心で子を引きつれるようにして日差しに輝いている。赤いレンガ敷きの広場とベンチ。サルビアだろうか、鮮烈な赤の花が噴水の奥で列をなし、何かを描いていた。
2102A志乃【ふくら雀にさよならを】
向こうの岸に真っ白な客船、もっと奥には積み木で階段を組んだようなビル群。寒い季節のそっけなくて淡い空の下、遮るものもない海風が遠慮なく吹き付けてくる。塩気を感じないのは、鼻が冷えているからか。
人一人上に立っても一ミリも揺れたりしないだろう、頑丈そうな柵の向こう。深々と紺がさざめいていた。あぶくを含むこともない、囁くような波の上をスケートのように滑ってやってくるのだから、海風だって早くもなるだ
2021Wi志乃【泡沫アストロノーツ】
宇宙を漂っていた。
蒼い闇の中、ちらちらと揺れる白い塵や薄いカーテンのようなわずかな光がたわんで流れる。見える範囲には何もなくて、当然生き物の気配もない。
ずいぶん遠くまで流された。
気密服から空気が漏れて、ゴポン、とあぶくが昇っていく。……そうだ、宇宙に音はなかった。ここは真空ではなく、何かに満たされている。
動くのかどうか、ためらいながら腕に力を入れれば、押し戻すように抵抗する大きな
2020Au志乃【カーテンコールに耳をふさいで】
終幕だ。
土嚢袋を放り出したように、重く惨めな音がして、世界が反転する。さっきまで睨んでいた敵の姿は見えない。代わりに、一面の曇天が視界を覆った。今にも雨が降りそうだ。
吸っても吸っても足りない酸素に喘いで、飲み込む唾が気休めにもならない程乾ききった喉を空気が掻き散らしていく。仰向けに転がったまま噎せて咳き込めば、口の中には鉄臭い苦みが広がった。汗で張り付く服も髪も、呼吸さえままならない体も
1909A志乃【コウ】
街を濡らした雨雲がのろのろと空を這って、日光に居場所を明け渡そうとしている。
ビルの屋上に据え付けられたクレーンから枝分かれするように、鮮やかな虹が見えた。背の高いことを誇るようにどっしり立っているマンションの、はるか頭上を飛び越えて天に伸びる虹は、妙に存在感が強い。このまま夜まで中空に輝いているのではないかと思うほど、しっかりとそこにある。
雨曇りに慣れた目には眩しくて、ふっと目をそらした