2105B志乃【花園の桜鯉】
盆にのせた茶器を揺らさないよう、しずしずと歩く。風が吹けば、この庭園名物の八重桜が舞って、茶器の中へ入りこんだ。使いの式は茶を寄越せとしか告げずに消えたので、肝心の茶を所望した主人がどこにいるものかがわからない。
池のほとりかと思ったが、藤棚の下にはいなかった。満開の躑躅の陰にも。少なくとも座って茶を飲める場所にいるだろうことは間違いないが、と池へ目をやれば、池の上に足を出して浮かんだ水榭にたたずむ漢服が風に揺れている。
熱心に池を見ている背中へ、水榭への桟橋を歩きながらため息をついた。ここへ来るまでに、茶はもう冷め気味だ。茶を寄越せというなら居場所も伝えろと何度言ったところで、この人はこうして私が探し当てるのを待っている。
それでも毎度のこととして苦言をすれば、これまたいつも通りの生返事だ。顔こそこちらを向いたものの、視線はやはり池に注がれている。
こぼさないように、と言いながら白磁の茶器を渡すと、ゆらりと茶の水面を揺らしてから口に運ぶ。一口飲んだきり、茶器を持った彫像のように動かなくなった。茶の味が気に入らなければすぐに返されるので、まあ及第点ではあったのだろう。
ぼんやりとした顔で、それでもじっと池を見るのが気になって、私も彼の視線を追った。
どうやら、鯉を見ていたらしい。白にところどころ金が混じった立派な鯉が、悠然と泳いでいる。
綿球の如くまるまるとふくよかに咲いた八重桜は緑の葉を出して夏に向かっていた。花弁を散らし、時折ガクごと水面に花を落とす。
しばらく見ていると、鯉は池に落ちた桜を一輪呑み、水底へ潜っていった。
鯉はいずれ竜になるが、桜を呑んだあの鯉は、どんな竜になるだろうか。
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