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常識の存在意義

※2024年2月24日更新
鬱の皆さん、お元気ですか?(元気がないから鬱だっつの)僕は経験者として早く皆さんを救い・幸せに導きたいです。もちろん簡単じゃないことぐらいわかっています。でもそれが使命なので、ほんのちょっとずつですけど、頑張って行きます。

で、今日は「常識とは何か?」ってことについてお話させていただこうと思います。人が鬱になる原因の多くは常識との付き合い方にあると感じるので。

僕らの人生は例外なくいつの間にか始まっています。この世に生を受けた時の記憶は誰にもなく、自分の親もその親もそのまた親も、過去・現在・未来この世に生を受ける者すべてにとって人生はいつの間にか始まっている旅なのです。

そして親や周囲の教育を受け、いつの間にか与えられている言葉で考え、生きていくため、愛されるために、無意識に自分のいる世界の常識に自分を合わせていきます。

中世ヨーロッパの王様が恐ろしい実験をしました。赤ん坊50人に対し生まれてから一切言葉を聞かせず育てさせたのです。王様は子供たちが神の言葉を話すようになると期待していたのですが、残念なことにその子供たちは一人も育たず死んでしまいました。そもそも人間の話す言葉は人間の発明ではなく、すべての言葉が神からの贈り物であり神の言葉なのに愚かなことです。

言葉は常識の核です。我々は言葉≒常識(コモンセンス)を先人たちに与えられずに思考できませんし、生きていくことはできません。言葉≒常識なく生きるということは地面がないところを歩くに等しいことです。

ただし常識というのは、単にそこにいる人たちの思い込みによって成り立っているものであり、それは時代や場所によって変わるモノですし、過去の常識はほぼすべて未来の非常識となります。そしてたとえ同じ時代と場所に生まれた人でも、それぞれの常識を全部比べてみれば人によって全く違うことがわかるでしょう。常識とはそんなまるで雲や煙のように捉えどころがなく曖昧なものなのです。

ではその曖昧な常識の本質(存在意義)とは一体何でしょうか?僕はそれを創造主から直々に教えられました。

いつも言っていることですが、人生というのはRPG(ロールプレイングゲーム)そのものです。プレイする時点でプレイヤーが主人公なのは当たり前のことです。でも一人で部屋に籠ってゲームをしても面白くないので、クリエイターはインターネット(世界線)で他のプレイヤー(主人公)と一緒にプレイさせてくれているのです。

常識というのはインターネット(世界線)でつながった各プレイヤーに与えられた共通の初期設定のようなものです。その初期設定が人それぞれ全く違ってしまっていたら我々はコミュニケーションが取れず、みんなと一緒にプレイできません。

前述したように我々が思考できるのは他人から言葉というその社会の常識を与えられたからです。そして自分のいる世界を現実だと認識し、他者も自分と同じ人間だと思ってコミュニケーションが取れて愛し合ったり憎み合ったりできるのは、常識を(ある程度)共有しているとお互いに認識している(と感じられる)からであり、それがなければ本当に夢と現実の境目すらわからず、社会は成り立ちません。

ただし常識が正しいというわけではありません。もし初期設定である常識が全部正しく真理なのであれば、真理というのは人を幸せにするものですから、世界は最初から平和で幸せになっているでしょう。しかしそれでは人生がRPGとして成立しません。みんな「もしこの世界にクリエイターがいるのなら、なぜ我々は何の問題もない平和で幸福な世界にしてくれなかったのか?」と恨みに思いがちですが、もしゲームを始める前から世界の平和と幸福が実現されていれば、プレイヤー(主人公)が世界を救うという設定が成り立たず、ゲーム(成長)要素がなく、プレイヤー(主人公)に存在意義がなくなるのです。

ドラクエのクリエイターである堀井雄二さんがゲーム販売前にモンスターを全部倒して世界の平和と幸福を実現して物語を終わらせてしまったらゲームにならないでしょう。

RPGの世界は一見真理に思えるような間違った常識によって魔物に支配されたディストピアから始まるのが当然であり、それはこの我々がプレイしている(仮想)現実でも同じだということです。ゲームにおいて初期設定というのは必ず課題を含んでいるものであり、言わば間違っているのが当然なのです。

それなのにただ単に常識(初期設定通りの思い込み)に従ってそれを疑おうとしない・更新しようとしない・乗り越えようとしないのは、RPGにおいてスタート地点の街に引きこもって冒険を始めないに等しいのです。

しかし、ただ闇雲に常識に逆らえば良いという話ではありません。初期設定を知らずに課題を知ることはできませんし、共通設定である常識(コモンセンス)を無視しては他のプレイヤーと一緒にゲームはできません。

現実世界でも全く常識知らず・常識外れな人とはコミュニケーションが取れませんし、もしそんな人がいたらその人はまともな社会生活を営めないでしょう。

例えば日本のお笑いで学校ネタは鉄板ですが、日本でみんなと同じような学校生活経験がなければ、みんなと一緒に笑い合うことはできません。常識というのはそのようにみんなと心を通じ合わせる上で必要不可欠なものなのです。だからこのRPGの初期設定である、自分が生きている時代・場所の常識をわきまえていなければならないのです。

ただし我々には個性があるのですから、どうしても常識に合わせられない部分が出て来ます。しかしそこにこそ自分の個性と使命が浮き彫りになるのです。

それは自分がどうしても合わせられない・間違っていると感じる常識と闘うところに自分の主体性があり使命(存在意義)があるというです。常識を自分にも他人にも無理やり押し付けてお互いに押し殺し合うことは愛と勇気の欠如であり、愛と勇気を試すためのこの人生というRPGにおいて、それは不幸な脇役NPC人生へ不幸へ導かれるのが当然なのです。

常識に逆らうことは勇気の入ることですが、臆病さからそれをハナから諦め、保身のために自分の個性を押し殺してまで常識に合わせるという安易な選択を取り続けることは、自分の人生から主体性という天より与えられた最も大切なものを自ら放棄してしまうことにつながります。それではプレイヤー(主人公)でありながらNPC(脇役)として生きているのと同じなのです。

どうか自分が心から納得していない常識で自分や他人の魂を押さえつけることに慣れないで下さい。常識と戦って見て結果的に常識の方が正しかったとしても、失敗を恐れて何も経験せずにただ常識に合わせることと常識と戦って失敗を経験して試行錯誤した上で自分なりに心から納得できる答えを出すこととは、例え結果が同じだったとしても価値が全く違うのです。

真理は経験を伴わなければ概念に過ぎず価値のないものです。愛という素晴らしい概念も、経験を伴わなければ価値がありません。経験(過程)が結果を価値ならしめるのであり、僕らは常識に従うためではなく、伝聞情報を集めるためでもなく、経験するために生まれてきているのです。

もちろん常識を疑うことはとても困難です。誰にとってもわけがわからないうちに勝手にスタートしているこの人生というRPGにおいて、我々は周囲のNPCたちを見渡してその社会の常識(初期設定)を学びます。しかし我々は親や誰かに怒られたり・無視されたり・バカにされたり・見下されたりして傷つかないよう周囲を見渡してこさえた自分勝手な思い込みの産物であり、そしてまた人間というのは自分の思い込みに沿った情報ばかりを集めてその思い込みを強化するようにプログラムされていているからです。

この仮想現実RPGにおいて、あなたの周囲の人間たち(NPC=プレイヤー以外の存在・脇役AI)は頼んでもいないのに勝手に正義を背負って「お前は間違っている。大人しく常識に合わせろ」と常識を強制してきます。

「愛でメシは食えない、金を稼いで人様に迷惑をかけなくなって一人前だ。お前なんか大した存在じゃないんだから、好きなことでメシが食えるなんて思うな。社会は厳しいぞ。大人しく自分と一緒に嫌な仕事の我慢代で金を稼ぐ社会の奴隷になれ」みたいな感じで、自らを苦しめている悪しき常識を他人にも強制してこようとします。

実際、世の親たちや先生たちはエージェント・スミスばかりです。「子供たちが社会に排除されずにうまく生きていけるように」という親心や「正しい自分には価値がある(と思いたい)」という偽りの正義心から、自分の常識を独善的に強制してしてきます。自分自身が教育されてきたのと同じように子供たちが好きじゃない勉強を強制し、将来の不安を煽り、個性を邪魔モノのように扱い、嫌なことを我慢して自分を押し殺すことに慣れさせ、安定した職業につかせようとします。

そうやってまるで映画マトリックスのエージェント・スミスのように、周囲の人間はみんなこぞってプレイヤー(本来は主人公)であるをNPC(脇役AI)である自分のコピー(マトリックスの構成要員)にしてこようとするのです。要するに自分が自分を押し殺してまで常識に合わせている苦しみを他人にも無理やり味合わせることで強制的に同情させようとしているのですね。そうしないと自分の人生を肯定できないのでしょう。

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しかしあなたがそれに屈してその思惑通りに無個性な彼らのコピーになってしまっていては、プレイヤー(主人公)として世界を救うことはできません。自分が主人公であることに目覚め、エージェント・スミスたちも目覚めさせていかなければならないのです。

人間は誰でもこのマトリックス世界を守るエージェント・スミスを恐れます。世間・常識という幻霊を恐れます。そして人から嫌われたり見下されてバカにされて傷つかないように、社会から排除されないように必死で世間・常識にしがみつき、他者評価ばかり気にして周囲の顔色を窺いながら生きています。そうして必然的に他者評価依存になり、それが社会中に蔓延しているのです。

そしてどっちにしろいずれは必ず死ぬのに死を恐れて自ら社会(権力)に隷従してしまいます。そうして自分の人生という自分だけの芸術作品を作ろうとしません。周囲の評価で傷つくのを恐れ、社会から排除されて貧困と孤独に喘ぐのを恐れ、自分の力をつまらないものだと過小評価し、自分に嘘をついてまで社会の常識に従い、お金を稼ぐために好きでもない・個性が邪魔になるようなつまらない仕事をしてし、個性を発揮して自己表現することを放棄します。

そうして多くの人が心を病み、鬱になってひきこもったりしています。僕自身がまさにそうでした。人生は物語なのに、俳優の分際で監督たる創造主の用意してくれた共演者を次々と排除して孤独に陥っていたのですね。NPCも含めてこの世界のすべてが自分自身であり、すべてが自分次第に作られているということにも気づかずに。

常識というのは一見誰もが従わざるを得ないような真理に思えます。もしそれが誰しもすぐに間違いだと気づくようなものであるなら、それは常識(共通設定)として成り立ちません。

それは一面だけ揃ったルービック・キューブのようなもので、それを変わらない真理・絶対条件であるかのように考えるのは、文字通り一面的にしか世界を見れていないのです。そしてそれは視点を変えて見渡してみて、恐れずに崩していかないと決して全面は揃わない(真理には辿り着かない)のです。

社会を構成しているのは人間ですから社会も当然生き物なのであり、その常識に逆らう人間はストレッサーとして認識されるので、ホメオスタシス(恒常性)が働いて反発を受けるのは当然なのです。あなた側の主張がどれだけ正しくても(正しければ正しいほど)社会には好転反応のようなものが出て揺り戻そうとしてくるということです。

だから歪んだ常識でそれなりにバランスが取れている社会に対していきなり攻撃的に逆らうのは得策ではありません。好天反応が強く出て排除されてしまいますからね。それはRPGにおいてレベル1のままでラスボスに戦いを挑んでもすぐ殺されてしまうのと同じことですね。だからといってハナからレジスタンスを諦めるののではなく、ちゃんと慎重に作戦を考え、徐々に仲間を増やし、お互い霊的・魂的に成長していかなくてはならないのです。

自分の個性・才能をみんなの役に立たせられて、みんなが笑顔になれるのが一番良いのですが、そうした才能を早期から見つけられる人は稀です。自分の個性がどうしても周囲と反発してしまうようなら、自分の個性にあったコミュニティーを見つけてもいいですし、自分がそれを作るチャレンジをしてみてもいいのです。そして今の僕のように常識(社会全体の価値観)を変える挑戦をしたっていいんです。主人公なんですから。自分を押し殺すしかないと考えている人は、今自分がいる社会の常識の外側を実体験的に知らないだけなのです。

あなたが周囲のエージェント・スミスたちと考え方が合わなくてもどうか直接ケンカして傷つけないで下さいね。人はいきなり正しいことを突きつけられると傷つくものなのです。どれだけあなたが正しくても、それを相手に押し付けて傷つける(笑顔を奪う)ことは愛(真理)ではないのです。

NPCたちはプログラムに従って常識を押し付ける悪役を演じさせられているだけで、もちろん彼らにも心があるのです。特に常識に合わせて魂を押し殺して生きてきたようなお年寄りたちにはいたわりの気持ちを持って下さい。彼らにも彼らそれぞれをプレイヤー(主人公)とする物語があるのです。

自分に自信のない人たちは「自分は正しい=価値がある」という安易な自尊心防衛手段を取りがちで、そのために何でもかんでも否定・批判して説教してきますから、こちらは常に正義より愛を優先させて、どんなにつまらない話や腹の立つ話も一切否定せずにきちんと聞いて共感・同情することが大事です。相手の言うことに従う必要はありませんが、その場で否定する必要もありません。相手の意見を肯定するのではなく、相手の存在を肯定し、感謝するのです。あなたが出会う人は例外なくあなたが主演の映画の共演者なのですから、出会ったら例えどんな悪役であろうと心からリスペクトし感謝し愛することが大事です。彼らもあなたも無自覚なだけで、本当はクリエイターである創造主の分身なのですから。

エゴ(欲)とは何か?に書きましたが、一面真理に思える常識の最たるものが「みんなエゴのために生きているのだから、自分がエゴのために生きるのは間違いではない」という考えであり、それがこの資本主義マトリックスを支える価値観です。しかしプレイヤーがそれに自らも従ってエゴにまみれ、己の愛によって自分の世界の価値観を覆すことを最初から諦めていては物語になりません。

人生はRPG(物語)であり、それは芸術でもあります。絵に例えれば、常識はキャンパス(下地)なのです。僕らには言葉という筆と、個性・才能という絵具が与えられています。そして何よりその絵を描く「自分」と言うかけがえのない主体性が与えられているのです。一緒に絵を描き(共に人生を歩み)、それを讃え合い喜び合う仲間の存在も。

我々は自分のいる世界の常識をキャンパス(下地)として、自分の個性・経験を生かして思い思いの絵を描いて自分を表現するため、芸術を完成させるために生まれてきているのです。

常識というのは芸術における共通のお題のようなものであり、それをみんなで共有しみんなが従わなければみんなで楽しめません。しかしただ単に常識に従うことは課題を無視して作品を下地のまま提出するようなもので、面白い芸術になるわけがなく、自分の人生に存在意義がなくなります。

常識(共通認識)を下地(素材)として、自分にとってどうしても納得がいかない常識があれば自分に合ったAlternative(バイパス)をとことん追求していくことです。その道程(経験)が自分の人生を自分だけの芸術作品にしていくのですから。そしてそれこそが自分の存在意義を成すのです。

素材が気に入らないからといって闇雲に拒否するのではなく、与えられた素材にどうすれば(自分も周囲のみんなも楽しくなるように)自分を表現できるのかを考えなくてはならないのです。それが人生という芸術です。

鬱の人はきっと自分自身や他人や世の中を嫌って憎んだりして悲観していると思いますが、創造主は僕らがポジティブなものを表現するために敢えてネガティブな下地を用意してくれているのです。この世界のすべては二元的(相対的)に作られていて、喜びを表現するためには悲しみが・幸福を表現するためには不幸が・美を表現するためには醜さが必要なのです。素材(下地)がポジティブのみだったら我々は人生をネガティブで描かなければならなくなります。だから絶妙な配分でネガティブが支配するこのディストピア世界は芸術の素材として完璧なのです。この世界を作ったのは全知全能の創造主ですから当然なのですが。

自分自身や他人や世の中が気に入らず嫌いだから死ぬというのは、与えられた素材(下地・絵具)が気に入らないから絵を描かないと言っているようなもので、馬鹿げた話です。絵を描く力がない人に神は絵を書く機会と画材を与えません。どうか人生や世の中を悲観して死んだりしないで下さいね。

誰でも自信満々になれる方法でも書いたことですが、鬱の本質の一つは自分を偽ることであり、自分や他人に嘘をついて本物の自信を手に入れることは不可能です。そして本物の自信なく幸せになることもまた不可能なのです。

多くの人が自分に嘘をついてまで社会の方に合わせることを社会人として生きることだと勘違いしています。それは怠惰・憶病なのです。人生が物語ならそれは主役として一番ダメな要素です。思考を放棄して社会に隷従することで自らのコントローラーを他人に明け渡し、自らNPC(伏線の奴隷)になってはいけません。自分の人生は神様がプレゼントしてくれた自分が主役の物語なのに、面倒臭いから・怖いからって主役を放棄しないで下さい。

今までの自分の臆病さに落ち込まなくていいですからね。臆病さがなければ勇気に価値はありません。元々怠惰で憶病な我々だからこそ勇気を出して最初の一歩さえ踏み出せばみんなに勇気を与えられるのです。どうかみんなに勇気を与えて下さい。

いつだって本物の笑顔が人生のコンパスなのです。営業スマイル(社会から排除されないための作り笑顔・お金を稼ぐためのサービススマイル)も時には必要なこともあるのですが、本物の笑顔を大事にして下さい。自分と出会った人みんなが本物の笑顔になるように進めば道を誤ることはありません。笑顔は幸せの副産物と考えるのではなく、目的化して下さい。

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何が正しくて何が間違っているかという判断基準は人によって違っていて難しいものなのですが、世界は一つ(ワンネス・自分=他人)なのですから、自分もみんなも笑顔になり幸せになるかどうかを判断基準にすれば大きく間違えることはないのです。

努力するより先に結果を求めることは、努力に対して見返りを求めることであり、俳優のそういう態度は監督であり作家である創造主の愛に反しています。物語の結末は監督たる創造主に任せて、主人公のあなたはただ自分のなすべきこと(使命)を愛し、一生懸命楽しみながらそれをやり通して下さい。そして自分の人生を俯瞰してみて、自分という主人公も・憎らしい悪役たちも・過程にある様々な苦難や悲しみも含めて、物語をトータルに愛してみて下さい。

そして人生という物語・芸術のクリエイターとして、天から与えられた無明(闇・愚かさ・迷い・醜さ)という下地に、光(智慧・真理・美)で、自分なりに愛を表現してみて下さい。

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