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「個別相談」(最終話)小説

(前回までのお話)

「個別相談」(1)

「個別相談」(2)


 人は基本的に自分が話したい生き物なのだ、というのが橘の持論だった。なにか話したいこと、言いたいことがあるというのが、ある意味人の健康的な状態であるとまで考えていた。それで言えば、橘は基本的に不健康な状態にあった。
 朝倉も彼と同様の状態にあると橘は思っていた。そして目の前の彼を見るに、いよいよその不健康な状態が限界を迎えてきているという、切羽詰まった雰囲気を感じ取ることができた。

「どこかを旅した話なんかどうです。地理の先生なんだし」
何も言わない橘に対して朝倉がトピックを提供する。

「旅はしないんだ」
極めて重苦しい口調で橘は答える。

「どうして?」

「しないというか、したことがない」
朝倉は何も言わない。まるでまだ続きがあることを分かっているようだった。

「俺は一度もこの町から出たことがないんだ」


 橘の住む町は人口が30万人ほどの市だった。さして大きくはないが、壊滅的に小さい町でもなかった。新幹線の停まる駅があり、最低限の商業施設、いくつかの大学、観光客の目に留まらないでもない観光スポットがあった。橘はこの町で生まれ、この町で育ち、この町で高校生に地理を教える教師になった。

「そんなことってありえるのか。でも、修学旅行とか」
朝倉は信じられないと思っているようだった。

「小中の修学旅行はインフルエンザにかかって行けなかった。高校の時はノロウイルス。いずれも感染者は俺だけ。大学の時一度だけ東京に行こうとしたことがあるが、前日に階段を踏み外して右の脛にひびが入ったんでやめた。俺がこの町から出るべきじゃないってことはよくわかったよ」
ここまで喋ったところで橘は少し息を切らしていた。朝倉は笑っていた。誰がどう見ても笑っていた。

「そうしてこの町に閉じ込められた少年が、どうして地理を教えることに?」
実に自然な疑問だった。

「嫌いじゃなかったんだ」

「地理が?」

「ああ。あとは成り行きだ」
朝倉は笑っていた。とても気持ちがいい笑顔だった。

 これを皮切りに橘は朝倉にいろんなことを話した。子供の時によく読んだ本のこと、今まで3足の靴を履いたこと、大事を取って賞味期限の二日前までに食品を消費するようにしていること、小説は暗いから読む気が起きないこと、今は名前も知らない女性と二人で暮らしていること。どれも本当にどうでもいいことだった。それを朝倉はよくできた童話を聞くように、丁寧に咀嚼して楽しんでいるように見えた。

 日の高さがかなり低くなり、この部屋を柔らかい薄暗さが包むようになったころ、橘は話すのを止めた。朝倉の顔から笑顔が消えたからだった。しかし、無ではなかった。それは何かが始まる時のような表情であり、それと同時に何かが終わる時のような表情でもあった。

「なぜあの人が消えることにしたのか。先生はわかりますか」
朝倉はやっと口を開いた。

「わからない」と橘は答えた。

「そうです。わからないんだ、誰にも。絶対に」
朝倉は静かに言った。

「あの人は自分が抱える地獄が、ちっぽけなものだと思われるのが怖かったんだ」
朝倉はゆっくりと、かなり重みのある声で言った。橘は自分の内臓が思い切り収縮するような痛みを感じていた。痛みというより苦しみに近かった。

 ひどく重く、長い沈黙が続いた。日は完全に沈み、お互いの表情を確認し合うことが難しいほどの暗さになった。橘はゆっくりと立ち上がり、手探りで部屋の灯りをつけた。朝倉の顔は何かを訴えかけるものからだんだんと無に戻っていくところだった。

 橘が椅子まで戻り、座るのと入れ替わるように朝倉が立ち上がった。

「今日はありがとうございました。やっぱり橘先生にしてよかった」
朝倉の顔には切羽詰まった感じも柔らかさも残っていなかった。ほとんど橘が持つ無に近かった。

「これから君はどうする」
朝倉は少し考える素振りを見せた。それから何か言おうとして、何も言わなかった。


 夏季休暇が明けたころ、突然一人の教員が学校に来なくなった。3か月が経った今もその状態は続いていた。彼の行方を知る者はおらず、必死に探そうとする動きも形だけのものに見えた。そして学校は想像よりも早く日常を取り戻した。文字通り、彼は消えたのだ。



この個別相談があった1週間後、朝倉省吾は学校を辞めた。


橘は、それから定期的に社会科準備室を開けてそこで過ごすようになった。
それがそれとしてそこにあることを橘は忘れたくなかった。



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結城りんね
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