カント、ヘーゲルを再評価するためには
私が学生の頃、カントやヘーゲルをやたらとありがたがる雰囲気が哲学者の中にあった様子。理由は二つあるように思う。どちらも難解な言葉を使いまくりで理解しづらく、このため、仏教のお経と同じで「理解できないからありがたい」という奇妙な心理が働き、ありがたがっていた、というのが一つ。
もう一つは、キリスト教への対抗心があったように思う。まだ私の頃はマルクス主義の影響が残っており、「宗教はアヘン」、つまり宗教は麻薬か覚せい剤のようなもので精神をマヒさせるよくないものだ、という認識が強かった。このため、科学や哲学が宗教にとって代わるべき、という意識がまだ強かった。
で、キリスト教が旧約聖書や新約聖書を聖典としているように、カントやヘーゲルを哲学や科学の聖典として扱い、宗教に対峙しよう、としていたのだと思う。いわば、デカルトがキリストの位置、カントやヘーゲルはペテロや聖アウグスティヌスの位置に据えて考えようとしていたのではないか。
確かに、カントやヘーゲルは重要な人物ではあるけれど、彼らの著作を聖典扱いする気が、私は当時から持てずにいた。それは、近代哲学の「教祖」ともいえるデカルト自体に、私は問題を感じていたからだということもある。カントやヘーゲルは、デカルト哲学の完成者でしかない、と私は感じていた。
ではデカルト哲学にどんな問題を感じていたかというと、「疑う」ないし「全否定」という過程を経るところが気に入らなかった。彼の著作 「方法序説」では2つの原理が示されている。
第一原理は「全ての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ」、
第二原理は「正しいと思われる概念から思想を再構築せよ」。
デカルト以降、哲学を志す人間は、このデカルトの示した方法に魅了された。この方法なら、あらゆる迷信を排除し、完全に正しい思想を再構築できると思って。この流れを、カントやヘーゲルも汲んでいると私は見ている。
しかしこの「疑う」「全否定する」という過程を経ることは、非常に厄介な副作用かあるように思う。皮肉なことだが、「信じて疑わない頑迷な人間」に変えてしまう確率が相当に高いようだからだ。
デカルトの勧める通りに「疑う」を実施するのは、すごく苦しくて辛いからだ。それまで素朴に、子どもの頃から信じていたことも疑い、否定しろとデカルト哲学は勧める。このつらい過程を経るために、「こんなつらいことを実施したからには、再構築した思想は絶対正しいものであってほしい」と願うようになってしまう。
心理学でいう「補償」というヤツだ。これだけ徹底して疑い、否定するつらい行為を経てきたのだから、再構築した思想は絶対に正しいものに違いない、そうでなければ割に合わない、という心理に陥ってしまうらしい。このため、デカルト以降、頑迷な思想家を多数輩出する副作用が起きたように思う。
カントやヘーゲルの哲学は精緻なものだけど、それだけに信じてしまうと融通が利かなくなってしまうように思う。そして「自分ほど完璧な哲学思想を組み上げた人間はそうはいない」と傲慢になり、人を見下す人間を大量生産してきた問題があるように思う。
別に、そんな精緻な哲学を構築したからといって偉いと考える理由はないように私は思う。ご苦労さん、とは思うけど、それで人を見下すのなら、ツマラン作業、ろくでもないことをしたもんだね、と思ってしまう。哲学・思想は、人を見下すために行うものではないと私は考えるからだ。
哲学・思想は、よりよい生のため、人々を楽しませるもののためのものだと思う。なのに哲学・思想をやって人を見下し、人を不愉快にするものでしかなくなるのなら、それはろくでもないものだと言ってよいように思う。デカルト、カント、ヘーゲルにはそうした強いクセがどうもある。
そうした強いクセが現れてしまうのは、そもそも、近代哲学の祖であるデカルトが「疑う」や「全否定」を推奨していることが原因しているように思う。カントやヘーゲルもその流れを汲んでるので、どうも傲然とした思想家を生みやすいようだ。しかも、難解だから、学んだ人間は傲慢になりやすい。
傲慢になると、次の副作用が現れてしまいやすい。新しいことを学べなくなること。自分は全てを知っている、自分は絶対に正しい、と考えてしまうために、これまでの考えと違うものを受け入れることができなくなってしまう。結果的に新しいことが学べなくなる。
特にカントやヘーゲルの著作を聖典のように敬っていた時代には、思考の柔軟性が失われてしまっていたように思う。これは結局、聖典を金科玉条として崇め、信じ込んでいた宗教の時代とウリ二つではないか。宗教と同じ轍を踏んでいたのではないか、という気がする。
デカルト、カント、ヘーゲルらの哲学を学ぶと「傲慢で融通が利かなくなる」という副作用があるから、やはり修正が必要なように思う。まず修正点の第一は、
①「疑う」「全否定」を「全ては仮説」に置き換える。
そもそも、「疑う」や「全否定」は、無言のうちに「絶対正しい思想を作るため」という願望を前提しているように思う。さすがにデカルトもカントもヘーゲルも、絶対正しい認識はムリ!ってことを喝破してるのだけど、実施する側は期待してしまう。
真理にたどり着けなくても、真理に極めて近いところにまで到達できるに違いない、人類の中でも自分は1番の到達点にたどり着くに違いない、だって「疑う」とか「全否定」とか、こんなにつらい作業を経たのだから、という心理にどうも陥ってしまう。これはやはり、「疑う」「全否定」にムリがあるからのように思う。
そこで、「全ては仮説に過ぎない」という考え方に置き換えるとよいのではないか。仮説に過ぎないから、間違っていることに気がついたらためらわずに新しい考え方に置き換える。仮説に過ぎないけど、新しい考え方が現れているわけではなく、不都合も起きてないならむやみに仮説を疑わず、そのままとする。
こう考えると、とてもラク。いちいち全てを疑い、否定するなんてしんどいことをしなくて済む。新しい仮説のほうが適切だと感じたら、柔軟に置き換えることもできる。デカルトの提案した「疑う」「全否定」よりもずっとマイルドで、謙虚に物事に向かえるように思う。
第二の改良点は
②前提を問う
こと。
何もかも疑う、否定するというのは、丁寧な思考に見えて、実は粗雑になりがちな作業のように思う。絨毯爆撃、焦土作戦みたいな、乱暴なやり方。もっとピンポイントで、有効に新しい思考を発見できる方法を編み出したほうがよいように思う。
それが「前提を問う」。例えば皮膚がんの一部に著効を示すとしてノーベル賞を受賞したチェックポイント阻害剤が登場する前、「免疫でガンを抑えることはできない」と教科書で書かれていたという。本庶佑氏は「教会書を疑え」と記者会見で発言したけど、私はそこまでしなくてよいと思う。
教科書の記述には、無言のうちに「免疫を元気にする(活性化する)というやり方では」ということを「前提」にしていた。ところが本庶氏は「免疫を抑えるブレーキ役を外すならば」と、前提を置き換えた。まだ誰も検討したことのなかった前提に基づいた結果、誰も到達したことのない成果を出した。
「疑う」と、何もかも疑わしくなってキリがなく、疑いすぎてワケがわからんようになるけど、「何を前提としてる考え方だろう?その前提を別なものに置き換えた場合はどうなるのだろう?」と、「前提を問う」だけで、これまでにない発見ができる可能性がある。
デカルト来、近代哲学が踏襲してきた「疑う」「全否定」は、副作用が強すぎる。これらはどこかに放り投げて、
①全ては仮説と捉える
②前提を問う
の2つに置き換えれば、傲慢になることもなく、新しい発想も柔軟に取り入れられるようになると思う。
近年、カントやヘーゲルはあまりウケてない様子。それは、やはりカントやヘーゲル研究者の傲岸さが鼻につくのを嫌った人が、何か問題があると直観的に感じたからではないか。ただ、やはりカントやヘーゲルは、デカルト来の近代哲学を完成させた功績は大きいように思うし、評価されるべきだと思う。
でも再評価のためには、いまだはっきりとは自覚できていないように思われる、デカルト来の副作用である「疑う」「全否定」というクセモノを、なんとかしなければならないと思う。そのためには「全ては仮説」「前提を問う」に置き換えることが適切ではないか、というのが私の仮説であり、提案。