「してあげる」から「してもらう」へ
教育書や上司本、ビジネス記事なんかでは「してあげる」という語尾が目立つ。先日、インタビューを受けた時も「何を部下にしてあげたらいいでしょうか?」と質問された。私は「『してあげる』という意識をまずやめておいた方がいいかもしれませんね」と答えた。
「してあげる」って、親や上司が、子どもや部下に恩恵を授けるという意識があるから出てくる言葉なのだろう。そして恩恵を授けるからには、尊敬なり感謝なりが得られるかも、という意識が芽生えやすい。「してあげる」は、子どもや部下に対して恩恵を授ける優位な立場にあると誤認させる問題がある。
そもそも「してあげる」は、子どもにも部下にもよくない可能性が高いように思う。
ジネスト氏がユマニチュードという看護技術を開発するきっかけとなったエピソードが興味深い。
高齢者のケアをする看護師は、患者を移動させる業務で腰を痛める場合が多い。そこで体育学のジネスト氏が呼ばれた。
ベッドで寝たきりの患者を車いすに移動させるのに、腰を痛めずに済むやり方を伝授してくれ、ということで呼ばれたジネスト氏。しかし患者はジネスト氏でも苦労しそうな巨漢だった。ジネスト氏は「起き上がってもらえますか?」「立ってもらえますか?」と頼んで、患者に動いてもらい、車いすに。
すると、看護師達が驚愕していた。「一体どんな魔法を使ったのですか!?」ジネスト氏からしたら、どうしたらいいか分からなかったから、患者にも協力してもらおうと、起き上がろうとしてもらったり立とうとしてもらったりしただけ。患者だけでは足りない力を少しアシストしただけ。
なぜ看護師は驚いたのか?患者に何も頼んだことがないから。患者に動いてもらおうなどと思ったことがないから。患者は寝たきりでじっとしているものであり、全て看護師が「してあげる」ものだと思い込んでいたから。ここからジネスト氏は、患者の能動性を重んじるユマニチュードの開発を始める。
「してあげる」は、自分が能動的に、相手を受動的にしてしまう。自分がサービスする側、相手はサービスを受ける側。これでは、相手はじっとしてるしかない。じっとしていたら能力は開発されない。「してあげる」看護師のケアを受けていた患者が寝たきりになってしまったように。
「してあげる」は、
・行為者は自分であり、相手は何もしない。
・自分は能動的たけど相手は受動的。
・自分は力と知識があるが相手は無力。
を想定した言葉。これでは相手はひたすら受け身になるだけであり、能力は開発されない。
私の塾に、極端な「おばあちゃん子」が来た。いつも心の中のお花畑に魂が飛んでいて、心ここにあらず。なぜそうなったのか両親に来てもらって話を聞いたら、5歳になるまで服を着るのもおばあちゃんが着せ、食べるのも口元までスプーンで運んでやるあり様。そのために無能力者になってしまった。
おばあちゃんの徹底した「してあげる」によって、その子は自分で能動的に何かするということが許されなくなり、能力が開発されなくなっていた。うちの塾でもう一度能動性を取り戻す訓練をして、なんとか中学の内容をやり直せたけど。
私は、「してあげる」よりも「してもらう」のほうが指導する側としては適切だと考えている。私はインタビュー記事で「してあげる」になってるのをみんな「してもらう」に修正してもらう。「してもらう」はこちらからの働きかけこそあるけれど、
・行為者は相手であって、自分は最初のきっかけを提供するだけ。
・相手が能動的で自分は受動的。
・相手には対処する知識も力もある。自分は足りない部分をアシストするだけ。
という形になる。だから私は「してあげる」より「してもらう」ことを大切にしている。
ユマニチュードでは「してもらう」ことを最重視している。能動的になるのはあくまで患者であり、ケアする側はあくまで患者一人ではできない部分だけをアシストする側。ユマニチュードは、いわば「相手の能動性を最大化するためのアシスト」する技術だと言える。
これはケアの技術にとどまらず、子育てでも部下育成でも重要な視点だと思う。「してあげる」では、子どもも部下も受動的にしてしまい、無能力にしてしまいかねない。子どもや部下を指示待ち人間にしてしまうのは、親や上司が「してあげる」からだと思う。
最近、教育界では「主体性の重視」という言葉をよく聞く。しかし「主体性を尊重してあげる」という言葉遣いをよく耳にする。しかしこんな矛盾した表現もない。「してあげる」なんて受動的な立場に置いといて、主体性なんか発揮できるはずがない。
親や上司は、相手に能動的になってもらうより他ない。ジネスト氏が「起きてもらえませんか?」とお願いしたように。お願いしても動いてもらえないなら、もうどうしようもない。でも、人間は動物。必ず自ら動こうとする時が来る。能動的になる。その時、足りないアシストだけすればよいのだと思う。
私は、子育てでも部下育成でも、「相手の能動性を最大化するアシスト」をするだけだと考えている。そのためには「してあげる」という、自分主体、自分が能動的なアプローチではなく、「してもらう」アプローチが大切。相手が能動的に、自分は受動的に、多少のアシストをするのみ。
人間は能動的に動いたとき、能力が最大化する。ならば、「してあげる」という自分の貢献は諦め、相手が能動的になり、自分はアシストに徹するということが大切。「してあげる」から「してもらう」へ。教育・指導の考え方を大幅に切り替えた方がよいように思う。