ユマニチュード 相手の能動性を引き出す技術

ユマニチュード誕生のきっかけとなったエピソードが、本田美和子さんの文章として紹介されていました。
https://mishimaga.com/books/amayadori/003553.html
これを読むと、従来の看護は
・「よかれと思って」やってしまうことにより、患者の能動性を奪ってしまう
という問題があったのかもしれない。

ユマニチュードの本を何冊か読ませていただいたけれど、介護施設の入居者が病院に入院し、戻ってくると、その前はとても元気だった人だったのに、寝たきりになったり認知症が進んでいたり、ということが少なくないのだという。入院の原因となった病気やケガは治るけど、状態は悪化してしまう。

高齢の患者にとって危険なものの一つが「何でもやってあげようとする献身的な看護師」なのだという。患者は「じっとしていてください」と言われ、言われるがままに転がされ、体をふかれたり世話を焼かれたり。自分からは何もさせてもらえず、むしろ患者の能動性は余計なこととされてしまう。

能動的に動くことが許されないというか、制約されるために、高齢者はどんどん機能が低下し、そのために病院に入院すると、ケガや病気は治っても寝たきりになったり、認知症がひどくなったりするのだという。これは介護の現場をしんどくする一つの原因になっているのかもしれない。

私の塾に、高校1年生というのに認知症じゃないか、と思われるほどにぼ~っとしている子が来た。何を言ってもぼ~っとしていて、勉強どころじゃない。よく高校に受かったな、という感じ。あまりにもひどいので、両親に来てもらって、これまでの生育歴を聞いた。すると。

その子が結構大きくなるまで、着替えも食事も全部おばあちゃんがやってしまっていたらしい。あまりに孫ラブ過ぎて、「全部おばあちゃんがやってあげる」になっていたらしい。その結果、その子は能動的に何かをするという能力を開発することができず、仕方がないから唯一残されている自由、

心のお花畑に魂を飛ばす「魂飛ばし」をすることが習慣づいてしまったらしい。ともかく魂ここにあらずだし、これまで能動的に動かなくても全部やってもらえていたから、能動的に動くということ自体を諦めていた。能動性が全く失われていた。でもこれでは学習が進まない。

仕方がないから、魂を飛ばすたびに机をバン!と叩き、ビックリさせることで魂を召還。これを繰り返すうち、だんだんと「今、ここ」に魂がとどまるようになった。そこで小学3年生の内容からやり直したのだけれど、典型的な「ケーキを切れない少年」。ケーキやパイを3分の1に切れといってもできない。

でも、何度も何度も試行錯誤を重ねるうち、その子はある日、大発見をした。「ケーキやピザを何分の1に切るにしても、真ん中にまで庖丁を入れればいい!」私たちからすれば当たり前のことかもしれないけれど、その子はその時初めて気がついた。そこから分数の理解が始まり、能動性も回復した。

もしかすると、旧来の看護のあり方は、この高校生のおばあちゃんのような対し方だったのかもしれない。看護師の方は「よかれと思って」、患者が何をしなくてもすべて世話してしまっていたのだと思う。でもそのために、患者の能力を損なわせ、寝たきりや痴ほう症に進ませていたのかもしれない。

また、加藤忠相さんのこの文章
https://izumo-kaigo.jp/voice/interview/223
を読むと、介護の世界でも、入居者の高齢者の世話を全部介護士がやってしまおうとするために、高齢者は「世話しやすいよう」自由に動くことを制限され、能動的に動かないように強いられ、結果、認知症や寝たきりに追い込まれるらしい。

加藤さんの施設「あおいけあ」では、入居者のやりたいことをなるべく実現できるよう、介護士がアシストする、という体制をとっているという。これだと介護士の仕事は大変になるかと思いきや、入居者自身が生活のかなりを自ら行う力を保持するので、介護士は足りない部分を補うだけでよいという。

入居者は能動的に自由に動けるし、町のお祭りで自分の作ったものが売れたりするので、やりがいもあるらしい。だから楽しい。人間というのは、能動的に働きかけ、それで喜んでくれる人がいるとき、はじめて「楽しい」と思えるようになるのかもしれない。

こうして考えると、ユマニチュードは「相手の能動性を損なわず、相手のできないところだけアシストする」ことを最優先した技術だと言えるだろう。この場合、相手にアシストされ、こちらは相手をアシストし、という相互補完関係になる。互いに補い合い、支え合い、それを楽しむ関係性。

私はこれまで、部下育成本と子育て本を書かせてもらっているのだけれど、どちらも共通するのが「部下あるいは子どもの能動性を最大限に引き出す」ことを最重視している。そのため、能動的になると楽しくなるような環境、そしてアシストは当人ができない部分だけにとどめる、ということに注意している。

これはまさにユマニチュードだと思う。相手の能動性を損なわない、相手が能動的になるような環境を整える、能動性が現れた時に驚き喜ぶ。それが私の書いてきた本の軸なのだけれど、この精神はユマニチュードにぴったりはまっている。だからユマニチュードに出会ったとき、私はたまげたし、感動した。

「よかれと思って」は、相手の能動性の発揮を妨げ、相手の自由を奪い、結果として相手から能力を奪ってしまう。楽しみさえも奪ってしまう。「よかれと思って」は、相手にとって全然よくない。「よかれと思って」は自己満足でしかない、という視点が重要だろう。

相手にとって適切な接し方とは、相手にはできない部分だけをアシストする、という控えめなアシストだろう。相手ができるところまでは奪わない。それは相手の能動性に委ねる。そして相手が能動的にそれに取り組んだ時、驚き、喜ぶ。それが大切なことのように思う。

こうした手法で関係性を結んだ場合、とても良好な関係を築けるように思う。相手は、自分が能動的に動いたことで驚き、喜んでくれることが嬉しいから、もっと能動的に動きたくなる。それが楽しくなる。こちらは、ほんのちょっとアシストするだけで相手が楽しく動いてくれるから、こっちも楽しくなる。

ユマニチュードも、そうした「関係性を紡ぐ技術」なのだと思う。今にして思えば、私の部下育成本や子育て本は、ユマニチュードの部下育成版、子育て版だと言ってよいように思う。人の能力を最大限に引き出す技術、それがユマニチュードなのではないかと思う。

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