【メンタルヘルス】言葉の持つ役割を知ることの重要性
「旧約聖書 創世記 第1章」の冒頭である。
僕の出身大学はキリスト教系の学校で、1年次に必修でキリスト教の授業があった。
その時に、この文章に違和感を感じた。
光を創ったはずなのに「光があった」という過去形。
まるで創る前から光が存在するかのような表現。
「光ができた」の間違いではなかろうか?と。
この疑問をレポートの題材とした。
僕が人生で初めて書いたレポートである。
レポート作成の中で言語学を学ぶと、実はこれであっていることが分かった。
神が作ったのは物質としての光ではなく「光っている物質」とそうでない物質を分けるために「光」といった言葉を名付けたのである。
僕らは、世界に絶対的な事実があって、その事実を説明するために「言葉」が後から創られると思っている。
しかし、実は言葉が先にあることで、カオスな世界を分類し、認識することが出来る。
言葉が絶対的に客観的であれば、言葉の定義は世界共通になるはずである。
例えば、
日本語には、「水」と「お湯」というように同じ物質を温度によって分けている。
しかし、英語では「Water」と「Boiled Water」と水にボイルするという説明を加えないと「お湯」という概念を説明できない。
ちなみに、「雪」は「Snow」となっており同じ範囲を説明している。
しかし、イヌイットには雪の状態によって100種類程度の言葉が存在する。
僕らが「雪」としか見ない現象を彼らは100種類以上の現象として非常に世界を繊細に見ている。
つまり、言葉はその人が必要だと思った範囲の解像度で世界を分類して説明しているに過ぎない。
使う言葉で見える世界が変わる。
英語圏に行った日本人は性格が欧米っぽくなる。
日本人同士、日本語でもそうだ。
親切のつもりで言ったことが誤解されてトラブルを招くことは往々にある。
それは、人それぞれ世界の分類、「天地創造」の仕方が違うからだ。
つまり、言葉といったツールでは僕らは相手の世界を本当の意味で理解することは困難なのである。
相手は自分とは違う世界を見ていて、自分とは違う存在なんだ。
自分の正しいは相手にとってそうでない。
みんな各々自分が「天地創造」した世界を見ているからだ。
そう思うと違いを受容し、相手を責めないで済む。
そうすると、自分が楽になる。
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