BSドキュメンタリー「ルワンダ 虐殺の子どもたち」の感想
NHK BS-1で平日ほぼ毎日やっている『BS世界のドキュメンタリー』のクオリティが高すぎていつも驚いている。これは、録画しておかないとダメだと思ってBSを録画できる機材を買おうと思っている。
昨日放送された、ドキュメンタリー「ルワンダ 虐殺の子どもたち」(フランス、2019年制作)が素晴らしい番組だった。
ルワンダでは、1994年「ルワンダ虐殺」と呼ばれる民族間の大量虐殺事件が起こった。ルワンダの民族であるツチ族が、敵対する民族であるフツ族に虐殺され、およそ50万人から100万人の人が虐殺された。ルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。事件についての詳細はここでは言及しない。
詳しくは映画『ホテル・ルワンダ』などでまとめられているので、そちらを観て欲しい。
昨日のドキュメンタリー番組は、事件からおよそ25年がたって、生き残ったツチ族の子供たちが主人公だった。彼等は恐ろしい事を体験している。家族が文字通り全員殺され、たった一人生き残った者。親がフツ族の加害者だったもの。レイプされて出来た子供。かれらの多くは想像を絶するような傷を抱え、民族間のわだかまりを抱え成長している。家族関係にも大きな問題や不安を抱え、今は大人となっている。ルワンダ虐殺を生き延びた子供達がどう生き、何に悩み日々生きているのかを淡々と描くドキュメンタリーだった。
(写真 加害者側だったフツ族の父と事件について父を問い詰める娘)
ドキュメンタリーが好きなのだが、それはどうしてかと言うと、世界の中で忘れ去られている、声なき声を拾い上げようとしているからだ。小さな声を聞き取ろうとする姿勢が好きなのだと思う。
番組の最後に出てきた母子の話を紹介したい。その青年はツチ族の母親の子なのだが、母が16歳の時、フツ族の兵士に凌辱されて出来た子供だった。その青年は、母と引き離され育てられてきた。その事に深い傷を負っていた。さらに最近、自分がフツ族の兵士にレイプされて出来た子供だと知り、悲しみに打ちひしがれている。彼は、25歳くらいだったのだが、母親に勇気を持って何があったのかインタビューしているというシーンだった。
僕はやめてくれと思った。これは母親にとっては残酷すぎる。彼は、父の事を聞き出そうとする。「父はどんな人だったのか?僕と似ているのか?仕草や見た目で共通点はないか?」
母親は何も覚えていないという。母親からすれば父と呼ぶことは出来ないのだ。それはそうだ…彼は決して「父」などと呼ばれる資格はない。恐ろしい悪魔でしかない。
しかし、子供である彼にとっては、父の事を知りたいのである。父を知ることでアイデンティティを証明することになると思っているのだ。
母親は、重い口を開き、自分がどれ程恐ろしい目に合ったか説明する。
ある日家にフツ族の兵士が押し入り、ナタで家族を殺していく。「見栄えが良い女は誘拐しろ」という。男や子供、年寄りは全員が殺された。彼の母は、武装勢力によって誘拐され、タンザニアの基地に連れて行かれる。そこで何をされたかと言えば、彼の父や他の兵士に毎日毎日凌辱された。16歳の少女がである。タンザニアで監禁されていた場所には、銃と、虐殺に使われたナタが置かれており、兵隊等はいつでも彼女たちを殺すことができた。この母親は常におびえていた。これ以上の地獄があるのだろうか。それは想像を絶する恐怖、異常な犯罪行為である。そんな中で自分を拷問した男の事なんて覚えているはずないのである。覚えていることは出来ない。
彼女は何とか命からがら、監禁場所から逃れ生き延びた。その後妊娠していることに気づき子を産んだ。
息子はその話を聞き呆然とするが、それでも「父の事を何か覚えていないのかと問う」
母親はこう言う「お前の父はいない、私が父親でもあるんだ。父から何一つ受け継がなくていい。憎しみもなにも。お前は母親である私から父親の分も受け継ぐんだ。全て私から受けつぎなさい。」
「何も父親から受け継がなくていい。」
これほど力強い言葉はないと思った。
それを聞いて息子はようやく、質問をやめ、涙を流す。
最後にやっとのことで一言こういう「母さんに神のご加護があらんことを」
その言葉でこのドキュメンタリーは終わる。
「母さんに神のご加護があらんことを」
この言葉でしか受け止めることのできない事実があるのだ…と感じた。
「神」しか、このあまりに残酷な出来事を受け止めることは出来ない。
人間がこの出来事を受け止め、背負おうとすれば背骨が折れてしまうのだろう。
ここに、宗教が必要な原点があるのではないか。
悲しみの所に聞こえてくるのが神の声なのだと思う。
キリスト教的に言えば神だが、仏教でいえば阿弥陀仏とか如来ということになるのだろう。
人間には、どうしても人間に受け止めきれない悲しみがある。
その悲しみの底の底で私たちを支えるものは神…としか名づけようのないものなのだろう。
なんというか、彼が神と言ったことが、救いだと思った。その言葉が無ければ我々はこの事を受け止めきれない、こんな悲しみを受け止めきれない。その言葉しか、この出来事には釣り合わない。
世界にあるおおよそ宗教と呼ばれるものの多くはこうした悲しみを忘れてしまっているのではないか。むしろ宗教自体を利用・活用するものになってしまっている。しかし、そうではない、すでに我々の内の深くに存在している宗教が人間の悲しみの所で呼び覚まされてくるのだと思う。祈りのように立ち現れるものなのだろう。(これは何も、悲しみや悲劇を体験しなければ宗教や神が分からないという意味ではない。)
悲しみのうちに悲嘆する人間が居る限りそこに呼応して立ち上がるのが本当の宗教なのだと思う。宗教や、神あるいは仏の概念が人間にとって必要なのはこのような一点にあるように思った。
(終)
(写真は全てNHKのHPより)