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ピアノを拭く人 第2章(10)

To  Saiko MIZUSAWA
From  Toru Yoshii
Title  最後のエクスポージャー

彩子へ

 ようやく、明日は退院だ。
 明日の午前中、5年ぶりにミサに出るカルロスと一緒に、皆で教会に行くことになった。ミサが終わったら、病院に戻り、解散になる予定。

 そうそう、今日、カルロスに興味深い話を聞かせてもらった。
 カルロスは、聖母マリア、聖書、聖水などに対し、意思に反して冒涜的な考えが浮かんでしまうので、天罰が当たるのを恐れていた。俺は、エクスポージャーで、十字架やロザリオを踏むとか、罰が当たりそうなことをするのは、彼にとって死ぬほど恐いのではないかと思った。なぜなら、天罰が下るのは、すぐとは限らず、1か月後かも1年後かもしれないからだ。それなのに、なぜ、果敢にエクスポージャーできたのかと思った。
 
 カルロスは、赤城先生が、冒涜的な考えが浮かぶのは、彼の信仰の問題ではなく、病気のせいだと断言してくれたたことが大きかったと言っていた。病気を治すために、エクスポージャーに挑戦するのは決して宗教上の罪に当たらないと、赤城先生と、お世話になっていた神父様が言ってくれたから、冒涜的な考えに向き合う勇気が持てたという。

 日本人の多くは信仰への理解が乏しいが、アメリカで類似した患者に会った赤城先生だからこそ、カルロスを動かせたのだと思った。俺たちはすごい先生に出会えた。

 俺を動かしたのは、間違いなく彩子だ。
 彩子は、辛い記憶に苦しめられ、明日にでも死にたかった俺に、嫌な記憶も一緒に抱えるから、病院に行こうと言ってくれた。過去の経験から、エクスポージャーに懐疑的だった俺に、過去と今は違うと断言してくれた。
 これ以上、好きな女に情けないところを見せたくない。治って、彼女を幸せにしたいという思いが俺をエクスポージャーに向かわせてくれた。

 俺は明後日(月曜)の5時からフェルセンに出るよ。
 彩子の仕事が終わってから、店に寄ってくれれば会えるが、無理はしないで。店のことを任せきりで本当に申し訳ない。月曜から戦力になれるように頑張るよ。

 俺たちの最後のエクスポージャーは、和気藹々として楽しかった。添付ファイルにまとめておいたから、時間があるときに読んでみて。

 1週間、寂しかった。早く会いたい!               


 

ファイル名  カレー作りと今後の目標

 昨日の午後、料理が得意な桐生心理士の提案で、皆でカレーライスと野菜スープを作って食べることになった。

 なぜ、料理がエクスポージャーになるか?
 桐生心理士が、入院中の4人と雑談をするなかで、各自が申告した症状の他にも、以下のような症状を持っていることに気づいた。彼女は、最後に料理を通してそうした症状を治療するのはどうかと赤城先生に相談し、それが採用された。

カルロス
 ミサの最中に、「聖母マリアは売女」で聖書は「嘘の塊」という考えが脳裏をちらついた日、カルロスは動揺しながらも、帰りに家族とカレーを食べに行った。運ばれてきた茶色いカレーを見たとき、ミサで見たワインは「糞水」、神父が信者に授けたパン(聖体)は「糞」という罰当たりな考えが浮かんで離れなくなり、動揺してレストランから飛び出してしまった。
 以来、カルロスはカレーが食べられず、直視も避けてきた。皆で作るメニューがカレーになったのはそのためだ。

シオリ
 本来は料理好きで、よく母親の手伝いをしていたが、強迫が再発してから生肉が不潔に思え、触れなくなってしまったという。
 それを克服するために、皆で作るメニューは、必然的に生肉の加工を含む料理になった。

タクミ
 刃物で誰かを傷つける強迫観念が浮かんだタクミは、できる限り、周囲に置かないようにしてきた。当然、台所にある包丁に触れない。1人暮らしの彼は自炊ができなくなり、外食や出来合いのものが増え、エンゲル係数が上がってしまった。
 皆と包丁を握るのは、彼にとって格好のエクスポージャーだ。

トオル
 最初に、俺は自分の手で食材や調理器具、食器に触れ、汚してしまうのが気になる。その程度で、食べる人がお腹を壊すことはないとわかっているが、俺の心に残るのが嫌なんだ。
 次に、俺は刃物やペン先、箸先を他人に向けるのを失礼だと感じ、気づくと謝罪したくなる。さらに、他人に皿やコップ、スプーンなどを並べるとき、正しい向きに置けるかが気になり、失敗したときは謝罪しないと気が済まない。
 料理は、俺にとって、回避したいことばかりだ……。

すべてのプロセスがエクスポージャー!
 赤城先生が、病院から車で10分ほどの場所にあるレンタルキッチンを予約してくれた。
 タクミは、病院のワゴン車に皆と、厨房で借りた包丁をはじめとする調理器具を乗せてそこに向かった。初めての道を運転するのは、ようやく運転に慣れた彼にとって、いいエクスポージャーになったと思う。

 俺は、赤城先生の運転する車で、近くのスーパーに連行された。俺には、汚れた手で食材や紙皿、紙コップ、プラスチックスプーンを選び、よれたお札と汚れた硬貨で支払いをするエクスポージャーが用意されていた。当然、かごを拭くのは我慢したよ。
 赤城先生から、お札は印刷された人の顔を自分に向けて出す(要は逆向きに)ようにと言われ、ぞわぞわしながら従った。先生が見ていたので、店員に謝まれなかった。心拍数が上がっていくのを感じながら、後ろ髪を引かれる思いで退店。
 レンタルキッチンに向かう途中、赤城先生と少し話をした。先生は、2年前に研修先のアメリカから帰国したとき、E病院長の叔父に請われて、ここに来たという。16歳の娘さんは、アメリカが気に入ったので、そのまま向こうの高校にいるそうだ。

 不潔恐怖のシオリ、加害恐怖の俺のエクスポージャーのため、①手洗い禁止、②水を使うときはゴム手袋をはめ、③それ以外のときは素手というルールで調理スタート。(桐生心理士は、食中毒を防ぐために、火を通すメニューにしたのかな?)

 俺は、ゴム手袋をして、米を研ぎ、水を加え、桐生心理士が持参した炊飯器のスイッチを入れた。炊飯器も米も、俺の手で汚染されてしまった(笑)。

 患者4人が互いに包丁を向け合うように、調理台を挟んで、2対2で向い合わせに立ち、材料を切った。豚肉を切るのはシオリで野菜は他の3人。  
 タクミは、深呼吸し、震える手で思い切って包丁を握った。何事もなく、玉葱を切り終えたことで、自分が人を刺したり、襲ったりしないとわかったという。俺とタクミは、ふざけて互いに包丁を向け合ってみた。タクミに謝らないと決めると、ぞくっと悪寒が走ったが、今はじゃがいもを剥くことに集中しようと意識を切り替えた。
 シオリはどうしても豚肉が触れず、勘弁してほしいと赤城先生に哀願した。だが、赤城先生は許さず、一緒に触ってみようと促し、彼女が肉に触れるたびにほめ、横に立って一緒に肉を切った。

 シオリが肉を切っている間、3人は野菜入りのコンソメスープを作った。
 ようやくシオリが肉を切り終わると、俺たちは、2つのフライパンで、最初に玉葱を炒めてしんなりさせ、続けて人参とじゃがいも、肉を入れて炒めた。その際、桐生心理士がすりおろした生姜とにんにくを隠し味に加えてくれたので、コクのある男性好みの味になった。
 水を加えてゆっくりと煮詰め、固形のカレールーを割り入れたのはカルロスだ。エクスポージャーを重ねてきたカルロスは、「来るなら来い、強迫観念!」くらいの思いで臨んだという。ルーに触れたとき、嫌な考えが浮かんで苦しくなったけれど、「これは、俺が、神を冒涜しているのではなく、いかれた脳が送ってくるエラーだ!」と自分に言い聞かせ、ルーを溶かしたフライパンをかき混ぜ続けた。

 盛り付けはシオリ、皿を運んで、テーブルにセットしたのは俺。
 並べるとき、主食のカレーライスが左、スープを右、スプーンをスープの横に柄を手前にして置いたが、不完全恐怖が顔を出し、「待てよ、それは和食のマナーで、カレーの場合はこれでいいのか?」、「スプーンは正面に柄を右にして置いたほうがよかったかな?」などと疑問が浮かび、心臓が早鐘を打ち始め、顔を強張らせて、何度も何度も置き直してしまった。
 桐生心理士に、「そのままにしましょう」と言われ、申し訳なさと気持ち悪さを抱えたまま、食事が始まった。俺は動揺して味を十分に楽しめなかった。それでも、皆に謝らずに、食事を続けられた自分は、よくやった!  5年ぶりにカレーを食べられたカルロスは、今度は家族と一緒に、以前逃げ出してしまったカレー屋に行くと決意した。シオリは、汚れた手で作ったものだと考えてしまい、食が進まなかったが、皆で作ったものを食べ残すのは失礼だと思い、お茶で流し込みながら完食した。生肉に触り、切れたこと、完食したことは、シオリにとって大きな自信になったと思う。
(桐生心理士の持ってきた炊飯器は3合炊きで、俺たちは3合を6人で分けて食べた。だから、男性陣は空腹で、病院の夕食も平らげたよ。)


 最後に赤城先生が、1週間、果敢にERPに挑んだ皆を労い、今の状態を維持できるように、地道にエクスポージャーを続けるよう激励した。ちなみに、普段は強迫の患者が来たら個別に治療していて、今回のように同時期に4人も集まり、入院して治療ができたのは異例だという。それを聞いて、俺たちはLINEを交換し、連絡を取り合うこと、定期的に会って近況報告しあうことを決めた。

 俺たちは、以下のように、1週間の感想と、今後の目標を簡単に述べてから、皆で片付けを済ませて病院に戻った。
 
カルロス

 今まで、強迫観念から逃げ続けたから、余計に苦しめられたのだと気づいた。思い切って向き合うのは怖かったけれど、向き合い続けるうちに、怖さが弱まっていくとわかった。
 

 先生方や仲間と一緒だから、最後まで頑張れたと思う。本当にありがとう!!

目標は、毎週末、家族とミサに通うこと。


シオリ

  ERPで良くなることは知っていたので、辛かったけれど、頑張れた。以前は、1人でエクスポージャーをしていたけれど、今回は同じ病気の皆とできたので、心強かった。

 いつも時間がかかり、迷惑をかけてごめんなさい。たくさん励ましていただき、ありがとうございました。

 目標は、再発しないようにすること。精神科医か公認心理士になるために、勉強に集中すること。


タクミ

 カルロスも言っていたが、遠ざけてきた嫌なこと(車の運転、駅のホームや電車内にいること、年輩の人に近づくこと、刃物を持つこと)に、思い切って挑戦したら、自分は人を傷つけないことがわかった。
 

 先生方、一緒に戦ってくれた皆さん、1週間お世話になりました。今後とも、宜しくお願いいたします。

目標は仕事復帰。
                               


トオル

 入院前は、自分の症状が皆と違うので、ERPで良くなるか心配だったが、思った以上の成果が得られて驚いている。今は、気分がハイになっているので、その状態を過ぎても、以前に戻らないように心がけたい。


 ここまで頑張れたのは、治療してくださった赤城先生、桐生先生、一緒にがんばってくれたカルロスさん、タクミさん、シオリさんのおかげだと思います。心より、御礼申し上げます。ありがとうございました。いろいろ、ご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。今後とも、何卒宜しくお願いいたします。

 目標は、さらに良くなるように、ERPを続けること。仕事も恋人との関係も充実させること。