人権といじめを語れば~解決への糸口は~
いつぞやの自分は、いじめを解決できると思っていた。
人権的な何かを培えばどうにかなるかもしれないと。
でも、生きていくほどに、いじめから時間が経つほどに、「解決」なんていう甘いものはないのだと気が付いてしまう。だって、人種差別だって、色々な民族・経歴・職業・性別等の差別なんて一向になくならないのだから。
いじめだけではない、人と人が係るとき、必ずいざこざは起きてしまう。
解決を目指そうとしている人たちでさえ、自分以外の問題には目を向けようとしない。そして、自分たちが差別の加担や強化に寄与していることさえ気がつくことがない。
それを気が付かせるために行動するなんていうのは、あまりにもリスクが多すぎる。人権を扱う人たちに、自らの差別性を説くなんていうのは、一気に弾圧の対象にされてしまうから(前はよく戦ったな)
そんな自分も、いじめ対策において過激な思想へ走ったこともあった。
いじめを解決できなかった、あるいは放置した教師は「退職勧告」をする。教員は全員修士課程以上にし、学校問題の対応実践を毎年試験するとか。我ながらやばい思想である。
それでも、もしかすると過去の自分が思っていたような「人権感覚」を培うようなプログラムが学校や社会全体で機能することができたのならば緩和できるのかもしれない。
世界を変えるためには、現実的なことだけでなく希望的観測を持ち続けていく愛情が必要なのかもしれない。
・はじめに
いじめとは、多くの場合一過性の問題として片づけられることが多い。また、思春期という多感さから行き過ぎた「いざこざ」とも取られてしまうことも多い。しかし、人の心は様々であり、強さも弱さも千差万別である。深く傷つき、明日のことさえも考えられなくなるほどのダメージを受けている子は、思いもよらないほど存在している。いじめを受けた子たちは、傷を背負い、教育を受ける権利や生存する権利さえも剥奪されてしまっている状況がある。そうした今日の日本は、いじめ防止法などがようやく法整備されてきたとはいえ、まだまだ水面下なところでしか進んではいない。ここでは、人権といじめを交わらせながら、いじめ解決への糸口を見つけていくことを重点におき、私自身の経験も踏まえながら論じていきたい。
1. 私のいじめ体験(M中学校での出来事・概略)
近所の中学校に入学を私は、友達も多くバラ色の青春の幕開けを夢見ていた。しかし、悲しくも中学1年生の後半からいじめを受けることになってしまった。いじめは、ほんの些細なことから始まるものである。被害者は、理由を知ることはなく、ただ耐えていくだけの日々が続くのである。
私が受けたいじめは、主に「精神的なもの・言葉によるもの」である。いじめの代表的な「死ね・消えろ・きもい」そのようなものから、居場所を失わせるようなものまであった。そのようなことも、どうにか耐えながら学校に通い、明日には終わるだろうと願っていた。
しかし、そう甘いものでなく、追い込まれた出来事は国語の発表をしている時である。発表の最中は、全て私への悪口と妨害行為で進行もままならず、困っていた。いくら、先生に助けを求めても見て見ぬ振りだった。そして、「お前は、早く消えろ、みんなそう思ってる。いい加減に気づけよ。」と笑われた。加えて、自分が味方だと思っていた友達でさえも笑っていたことだ。結局は、誰もがそう思っていたのだとしか思えなかった。他にも、多くのことがあったがここではこのあたりにしておこう。
ここからは、いじめと直接関係はないが「不登校や家庭内の問題、進学ができない」などといった問題に、私は立ち向かわなければならなくなる。それは、いじめの二次的被害と言ってもいい。いじめの間は、もちろんだが人権が大いに侵害されているといっても過言ではない。そうしたときには、どのように対応していくのかを考えるべきだが、決して、中学生ぐらいの子どもが解決に導けるものではなかった。
2. いじめの定義と問題
いじめとは、どのようなことをいうのだろうか。文科省は「当該児童生徒が、一定の人間関係のあるものから、心理的、物理的な攻撃受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」として定義している。こうした定義は、他国であまり見られるものではない。しかし、アメリカではオルヴェスがいじめの二大要素をあげている。他にも、イギリスでは、1989年のイギリス教育省による「エグルトン・リポート」からいじめ問題を取り上げた。世界的に見ても、いじめというものは問題視され、いじめとは何かと、具体的な定義はなかったとしても議論されている。では、いじめの主な問題原因はどのように考えられているのだろうか。
①性格原因説
②機会原因説
③いじめの4僧構造論
④ストレス原因説と規範意識欠如説
といった4つの説をあげている。この中で、私自身の経験と照らし合わせてみると、③の説が当てはまるように感じる。③の説は、森田洋司・清永賢二が提唱したもので「加害者と被害者だけでなく、周りの傍観者も巻き込んだ社会現象である。」(要点まとめ)としている。こうした、様々な定義や問題原因が語られているが、解決への糸口が見つけられないのは、それだけいじめの問題が複雑だからということである。
3.人権と危険ないじめ防止策
人権とは、憲法や法律で守られているものだけではなく、人としてこの世に生まれ出た瞬間に誰にも平等に備わるものである。だが、厳密にいえば「人権」というものには定義が決められているわけではない。この点に大阪大学の平沢安政氏は『人権をどのようなものとしてとらえるかは、具体的な歴史的・政治的・社会的・文化的文脈において、たえず変化し、再構成されてきた。したがって、人権の重要性と内容は。常に具体的な文脈とことばで語る必要がある。』と述べている。
要するに、実際に起こっている現場・現象・現在の問題の中で語らなければ、いじめによる人権問題は語ることができないということだ。しかし、いじめによる人権問題は、いつも蚊帳の外で行われることが多いのが見受けられる。なぜなら、被害者と加害者といったもので語られ、終息に向かえば問題も解決である。また、被害者の傷つきや人生といったのはいじめが終われば終わると思われるからである。
そうした問題は、いじめを解決しようした場合にも色濃く現れている。アメリカの「ゼロ・トレランス方式」イギリスの「いじめ防止プロジェクト」である。日本に限っては「道徳教科化、学校と警察の連携」などといった危険な方向に進んでいる答申も出ている。こうした人権に寄り添っているように見せ、実際は机上の空論、蚊帳の外での話し合いが行われている。こうしたいじめ防止の策は、いじめにおける人権の話からどこかズレてしまっている。
4.おわりに ~解決の糸口~
いじめのことは、触れる機会も多く認識のしやすさがあるが、人権という側面から見ることは難しいものである。具体的な定義もなく、その都度、文脈やことばで考えていけるほど人間はよくできていない。しかし、一度立ち止まり考えることは大いに可能である。いじめという事態が発生した場合、とにかく外堀を埋めるように動くのではなく、被害者の人権はどう守るべきなのか。上辺の解決策ではなく、当事者等をどのように当事者主体で考えて行くことが、解決の糸口であろう。確かに、学校・教員・学級といった側面からの解決は重要であるが、要は対応していく順番を変えるだけでいいのである。
加えて、防止していくことにも努めていかなければならない。まずは「人権感覚」を養い、「人権意識」を常に持てるような授業の展開を行う。例えば、社会科の授業で古代史でも近代史でも、そこに出てくる歴史上の人物の人権を守るような話し方や、真実を話すうえで傷つけるようなことがあっても、補足説明をいれるような学習指導案をつくるといった具合である。
ここまで概要のようなものを述べてきたが、よくよく考えてみると解決策や防止法といったものは「人権を守っているのか」と一度検討しなおすことが重要だと感じる。現行のよいと思われているものを、今一度精査していく研究も興味深いだろう。
参考文献
・森田洋司監修/監訳 1998 『世界のいじめ 各国の現状と取り組み』金子書房
・森田洋司,清永賢二 1994 『いじめ 教室の病い』金子書房
・原清治,山内乾士・杉本均 2004『教育の比較社会学』学文社
・平沢安政 2011 『人権教育と市民力』解放出版社
・平沢安政 2005『人権教育のための世界プログラム』解放出版社 p.28
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