「赦し」は罪の結果をナシにするのではなく、その重さを背負いながら、頭を上げて生きていく助けとなるもの ~来住英俊著『ゆるしの秘跡』
教会の小さな部屋で、神父に自分の罪を告白する。映画などでそんなシーンを見たことのある人は多いだろう。一般には懺悔(ざんげ)という言葉で知られていると思う。私もノンクリスチャンだったころは、懺悔と言っていた。
実は、キリスト教のなかでは必ずしも懺悔と呼ばれるわけではない。カトリックでは、かつては告解とか悔悛の秘蹟と呼んでいて、現在は「ゆるしの秘跡」と呼んでいる。大切なサクラメント(儀式)のひとつだ。
ちなみに私が所属しているプロテスタントの教派では、洗礼と聖餐以外にサクラメントはないので、いわゆる懺悔のようなシステムは設けられていない。(ちょっと残念だな、と思う)
私は来住英俊神父の著書が好きで、わりと積極的に読んできた。でも、ゆるしの秘跡について書かれた本書は、プロテスタントの自分には関係ない気がして、これまで手を伸ばさなかった。
ところが最近、ふと気になって読んでみたら、すごくよかった!
↓来住英俊著『目からウロコ ゆるしの秘跡』(女子パウロ会)
カトリックの信徒には、定期的にゆるしの秘跡にあずかることが奨励されていて、本書はそうした信徒に、このサクラメントを活用してもらうための利用の手引きというスタンスで書かれている。
もちろんプロテスタントの私には、カトリックのゆるしの秘跡を経験する機会はない。けれども、そうしたサクラメントがない分、自分の罪の意識とは自力で向き合っていかなければならない。その意味で、本書は私にとってとても役に立つ内容だった。おそらく、ノンクリスチャンの方々にも、響く部分がたくさんあるのではないかと思う。
ここで罪と言っているのは、人間本来のエゴイズムとかそういう根本的なことよりも、むしろ日常生活の、対人関係のなかで起こるさまざまな行為のこと。その自分の行為が、他者にどのような損害を与えたか、ということだ。
たとえば、「ミーティングの場で、ついムキになって▲▲さんと言い争いになり、それは相手も悪いと思うけれども、周りの人はさぞ困っただろう。なかでも、過去の出来事でPTSDを抱えていた〇〇さんは、私たちの争いを見て調子を崩し、その後も影響が長く続いているそうだ。あのとき私にはほかに表現の仕方があったと思う。〇〇さんには申し訳ないことをしてしまった」みたいなこととか。
著者は、聖書にあるダビデとバト・シェバのエピソードをあげながら、罪と赦しについて説いていく。印象に残ったのは下記の一節。
罪の赦しは決して罪の結果を取り除いて、後の人生を気楽に歩ませてくれるものではありません。罪の結果も含めて、自分の重い人生を背負いながらも、しっかり頭を上げて歩むことを助けてくれるものなのです。
(来住英俊『目からウロコ ゆるしの秘跡』)
上の例でいえば、軽率に感情的な言い争いをした、そのことの罪は赦されても、〇〇さんがこうむった影響は帳消しにはならない。そのことについては謝って、自分ができること(見守る、サポートする、相手の希望なら距離をとるなど)をしていく必要があるだろう。
神さまの赦しは、そうした次なる行動を、後悔や嘆きのなかから立ち上がって前向きにしていくための、助けと支えになる。勇気と希望を与えてくれるもの、と言ってもいいかもしれない。
人間のデリケートな心のひだに触れ、非常に繊細な問題を扱っているにもかかわらず、平易な文体で、丁寧に説明されていて読みやすかった。また、その人にとって何が罪に当たるのかを定めるのに、他人が立ち入れない領域があると言い切っているのも好感が持てた。教会も神父も立ち入れない部分があり、それは本人と神さまの間の問題である、と。
個人的にはプロテスタントのクリスチャンにもおすすめしたい一冊です。ノンクリスチャンの方も、キリスト教の罪と赦しについて、深い内容がわかりやすく書かれているので、ご興味があればぜひ……!
最後に、聖句をひとつ引用します。
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります。
(詩編86:5 聖書新共同訳)
◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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