探究の終わり
探究の終わりはあらゆる全ての想像を裏切る、あっけないものでした。まるで映画の最後に、それまでのストーリーの全てが”夢”だったと知るような感じ。
はじめての”気づき”から6年近く、本当に沢山の本を読み、瞑想っぽいこともやり、人生をかけても”悟りたい”と思って生きてきました。悟れば、もっと自分らしく楽に、自然体で生きていける、幸せになれると思っていたから。
あらゆることをしても悟れず、1年、また1年と時間は過ぎ、だんだんと悟りについて考えること、悟りたいと意識することが減ってきていたころ、その機会は訪れました。
はじめて目覚めが訪れた時に読んでいた本「あの世に聞いたこの世の仕組み」の著者の方と東京・原宿でお会いできるチャンスが訪れたのです。
悟りたい、、、それにはどうしたらいいか聞いた私に、彼はこう言ってくれました。「みんなが僕にこう聞いてくるんです。何としてもユニコーンを捕まえたいんです。ユニコーンを捕まえないと幸せになれないんですって。僕、ええっ!?て(笑)どう言ってあげたらいい!?って(笑)」
しばらくして”気づいた“私は、思わず笑いがこみ上げてきました。
そもそもあるかどうかも分からない”悟り”というものを、勝手にあると思い込んで探してきたのです。自分探しをしても”自分“が見つからないように、勝手に「ある前提」で作りあげたイメージ、存在しない”悟り”を6年以上も探し求めていたという馬鹿らしさに一人でに笑いがこみ上げてきたのです。
その時浮かんだ思いをスマホにメモしたのがこちらです↓
『悟り・気付かなければ幸せになれないというハードルを勝手に作りあげていただけだった。
悟りについて何も知らない人にとっては悟るかどうかはどうでもいいこと。悟りという言葉すら思いつかない。自分は悟らなければ幸せになれないと思い込んでいるが、他の人にとっては悟らなければならないとも思ってないし、幸せになる条件でもない。
→全てが自分の思い込みだった。自分の人生は自分の思い込みでできている。』
それからは悟りを求める気持ちは一切なくなり、常にあった探究に向かわせる熱意もなくなりました。そして日々の暮らしを大切に生きることが人生で大切なことになりました。
もちろんこれは私の経験であり、もしかしたら”本当の悟り“があるのかもしれません。私が出会った人の中には、おそらく本当の悟りに至ったのかもしれない”覚者”もおられます。でも私の中では、もう探究は終わってしまったのです。
若者が闊歩する平日の原宿、1人こみ上げる笑いを抑えながら私は家路に着いたのでした。