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【翻訳】『1984年』付録:ニュースピークの諸原理
■訳者前書き
ジョージ・オーウェル著『1984年』の翻訳です。
これは、作品の最後に付記されている部分なのですが、先に出すことにしました。
原作の著作権は現在消滅しています。
意訳をかなり入れてあります。
この部分は本当に訳しにくいです。その理由はおそらく、日本語の構造に、このニュースピークの文法に近いものがあるせいだと、個人的には思います。
「気持ち悪さ」を前面に出すか「日本語の新語の考案」を優先させるかで、訳し方は多分がらりと変わってきます。というか、自然な新語をひねりだそうとすると古語とか関西弁を含めた方言になりがちなんですが。オーウェル日本をディスってんのか? そんな暇があったら植民地のピジンに少しは責任を感じたらどうかねこの英国紳士が(ニュースピーク的用法)。
ということで、今回は一部分だけ試し読み設定。
よろしければ、ご一緒に、他の章はいかがですか?
どうかよろしくお願いします。
■日本語訳
付録:新語の諸原則
新語はオセアニアの公用語であり、イングソック、つまりイギリス社会主義の思想的ニーズを満たすために考案された。1984年当時は、口語、文語のいずれにおいても、新語のみを用いる人はまだいなかった。『タイムズ紙』の社説は新語で書かれていたが、これは専門家にしか書けない離れ業のような文章であった。
新語が、旧語 (我々がよく知る標準英語) から完全に置き換わるのは、2050年頃だろうと予想されていた。その間、新語は着実に普及しており、党員は全員、日常会話で新語の単語や文法を積極的に使用するようになっていた。
1984年頃の新語は、いわば暫定版である。当時の新語辞書は第9版と第10版だが、後に抹消されることになる、多くの不必要な単語や古い構造がまだ収録されていた。
本稿で扱うのは、辞書の第11版により完成した最終版である。
新語の目的は、正しい世界観や思考パターンの表現手段を、イングソック信者に提供することだけではない。イングソック以外のあらゆる思考を不可能にすることも、目的のひとつだった。
新語がひとまず採用され、そして旧語が忘れ去られたら、異端の思想――つまり、イングソックの原則から逸脱した思想は、文字通り、考えることが出来なくなくなるように、意図されていたのだ。そしてそれは、少なくとも思想が言語に依存している以上、避けられないことだった。
新語の語彙は、党員が適切に表現したいと望むことはすべて正確に表現できるように構成されていたが、それ故か、その多くは扱い方が非常に難しい。他の意味に用いることはできず、比喩表現の余地は排除されていた。
これの実現を目指すに当たり、新たな単語の発明もある程度は有効であるが、原則的な手法は、不適切な語句を抹消し、生き残った語句は正統的な意味だけを残し、二次的な意味は可能な限り全て消去する、というものだった。
一例を挙げる。
「自由」という単語は、新語にはまだ存在していた。しかしそれは「この犬はシラミから自由」や「この畑は雑草から自由」というような表現でしか使えなかった。政治的自由や知的自由はもはやその概念が存在せず、必然的にそれを呼び表わす名もなくなったため、「政治的な自由」や「知的な自由」という古い意味で使うことができなかったのである。
異端な語句を抹消しているという意識は全くなかった。語彙を削減することそのものが目的だと認識されていたのだ。そのため、不要と判断された語句は生き残ることが出来なかった。
新語は、思考の幅を拡大するのではなく、むしろ縮小するように設計されていた。言葉の選択を最小限に切り詰めることで、その設計思想を間接的に補完していた。
新語は、現在広く知られている形の英語を基に構築されたが、新語の文章の多くは、新語が含まれていないものでも、現代の英語話者には、理解がかなり困難である。
新語の語彙は、A語群、B語群(複合語群とも呼ばれる)、C語群の3つのカテゴリに分類される。各カテゴリを個別に解説するほうがわかりやすいが、文法上の特殊性については、全てのカテゴリに同じ規則が適用されるため、A語群の項で扱うことにする。
A語群
A語群は、日常生活の動作に必要な言葉で構成されていた。
食う、飲み、仕事、着る、昇降、乗る、庭いじり、料理など。
A語群を構成する語句は、「打つ」「走る」「犬」「木」「砂糖」「家」「畑」など、現在知られている単語と同じものだったが、現在の英語の語彙と比較すると、その数が非常に少なく、意味も極端に厳密に定義されていた。応用性や、意味のニュアンスは全て排除されていた。
A語群の語句は、可能な限り、明確に理解される概念をひとつだけに限定した、歯切れの良い音声記号だった。A語群の語句を文学表現や、政治・哲学の議論に用いることは、まったく不可能だっただろう。
A語群は、目的のある単純な思考の表現のための語句であり、通常は、具体的な対象や物理的な動作に限定されていた。
新語の文法には、2つの大きな特徴があった。
1つ目は、異なる品詞間でほぼ完全な互換性がある、というものである。新語の単語はほぼ全て(原則として、「もし」や「いつ」などの非常に抽象的な単語にも適用可能)、動詞、名詞、形容詞、副詞として使用できる。
動詞と名詞の形態が同じ語源である場合、両者の間にはいかなる変化形も存在しない。この文法規則は、古来の語形の破壊を招いた。
例えば、「思想」という単語は新語には存在しなかった。その代わりに、名詞と動詞の両方の役割を果たす「思う」が採用された。
これに関して、語源の原則は無視される。名詞側が採用される場合もあれば、動詞側が採用される場合もあった。名詞と動詞の意味が類似していれば、語源が同じではない場合でも、どちらかが抹消されることがしばしば起こった。例えば、「切る」のような単語は存在せず、その意味は、名詞動詞の「刃物る」で充分表現できるとされた。
形容詞は、名詞動詞に、接尾語「-い」をつけることで形成され、副詞は「-く」をつけることで形成された。例えば「速さい」は「素早い」を意味し、「速さく」は「素早く」を意味する。
「良い」「強い」「大きい」「黒い」「柔い」など、現代の形容詞もいくつか残っていたが、その総数は非常に少なかった。名詞動詞に「-い」をつければ、形容詞のほぼ全てを表現できるため、必要性が殆どなかったのである。
現在存在するような副詞は、「-に」で終わるごく少数の物を除けば、すべて廃止された。「-く」の語尾は不変である。例えば、「上手に」という単語は「良いく」に置き換えられた。
さらに、どの単語も(原則としてすべての単語に適用される)、接辞「-ない」をつけることで否定形にしたり、接辞「超-」をつけることで強調したりできる。さらに強調したい場合は「倍超-」となる。よって、例えば、「寒いない」は「暖かい」を意味し、「超寒い」「倍超寒い」はそれぞれ、「厳寒」「極寒」という意味になる。
また、現代の英語同様、「前-」「後-」「上-」「下-」などの接頭辞によって、ほぼ全ての単語の意味を変更することも可能だった。
この手法は、語彙を大幅に削減出来ることが明らかになった。例えば、「良い」という単語があれば、「悪い」のような単語は必要ない。必要な意味は「良いない」で、同じように、――何なら、よりよく――表現できるからである。
2つの単語が元々対義語として対を形成する場合、どちらを使わないようにするかを決めさえすればいい。例えば、「暗い」は「光ない」に、或いは「光」を「暗いない」に置き換えが可能である。どちらでもよかったようだ。
新語文法の2つ目の特徴は、その規則性である。
後述するいくつかの例外を除き、語形変化はすべて同じ規則が適用された。よって、動詞はすべて、過去形と過去分詞は、同じ「-した」で終わる。
「盗む」の過去形は「盗むした」、「思う」の過去形は「思うした」となる。言語全体が同様であり、「泳いだ」「与えた」「持ってきた」「喋った」「取られた」などの語形はすべて廃止された。
複数形はすべて、「-たち」「-々」を状況に応じて付加して作られた。
「人」「雄牛」「生物」は「人々」「雄牛たち」「生物たち」となる。
形容詞の比較級と最上級は、画一的に「-過ぎ」「-過ぎ超え」をつける(「良い」「良い過ぎ」「良い過ぎ超え」という具合)。「より-」「最も-」は廃止された。
不規則な語形変化が許容されたのは、代名詞、関係代名詞、指示形容詞、助動詞だけである。これらはおおむねすべて古来の用法どおりだが、「誰に」は不要とされて廃止となり、「~する運命だ」「必ず~になるはずだ」のような、神の意志の意味合いの助動詞は廃止され「~だろう」「~すべきだ」という、人の意思の意味合いの助動詞に統一された。
また、迅速かつ容易に話せることが求められたため、不規則活用もいくつか存在した。発音しにくい単語や、聞き間違えやすい単語は、それを理由に、悪い単語とされた。そのため、語感の良さを重視して単語に余分な文字が挿入されることもあれば、古風な語形がそのまま使われることもあった。
しかし、これらの不規則変化の必要性は、主にB語群と密接な関連があるように思われる。なぜ、発音のしやすさが、これほど重要視されたのかは、本稿の後半で解説する。
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