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▶【短編小説】 色彩侵蝕症




1.診断


“……色彩侵蝕症ですね”

医者の熊谷は宮内まりの眼球を照らすのを止め、喉を鈍く震わせた低音の声で言った。

“色彩侵蝕症……?初めて聞きました。それはどういった病気なんでしょうか?”

宮内まりの身体は椅子に座ったまま硬直していた。

“言葉通りの病気です。あなたの視界が徐々にとある色に侵蝕されていくんです

“とある色というのは、この視界の隅に映っている肌色ということでしょうか?”

“宮内さんの場合はそういうことになります。ただし、何色によって視界が侵蝕されるのかは人によって異なるみたいです。水色と言う患者さんもいれば、黄色と言う患者さんもいます。
そして宮内さんも含めどの患者さんにしろ眼球自体には特段異常は発見できないのです。
これらのことから、色彩侵蝕症は眼球だけの問題で起こる問題というより、精神的な問題も関わっているんじゃないかという推測もなされていますが、解明には至っておりません”

“精神的な問題……この病気は、どうなんでしょう……治すことはできるんでしょうか?”

“残念ながら、治療法はまだ確立されておりません。最近症例が出てきた新しい病気ですので……現在は規則正しい生活やストレスの軽減を心がけ、目を酷使しないようにするぐらいしか対処法はございません”

“そうですか……”

“しかし、あまりご心配なさらないでください。色彩侵蝕症の症状は今お伝えしたことに気をつけていれば、改善したという報告が多数あります。
差支えなければで構いませんが、最近何か精神的負担となるような出来事を経験されましたか”

宮内まりは両目の眼球をぐるんと左上の方へ動かし、天井の隅をしばらく見つめた。
そして再び熊谷の目を俯きがちに見ながら言った。

“特に、思い当たりません……今のところは”

“分かりました。それではしばらくは様子見といったところですね。先ほど私が伝えたことを意識しながら生活してみてください”

“はい、ありがとうございました”

“お大事に”

宮内まりは筋肉の緊張を一つ一つ解いていくようにおもむろに立ち上がり、診断室を後にした。

熊谷は机に置かれた彼女のカルテをもう一度見つめながら、目頭を押さえた。

色彩侵蝕症。ある色彩によって視界が徐々に侵蝕されていく現象。
昨年頃から突如世界中で起こり始めた未知の病気である。治療法はおろかメカニズムさえ未だに明らかになってはいない。

熊谷の病院にも今までこの色彩侵蝕症の症状を訴えに何人かの患者が訪れてきた。
しかし治療法が確立されてない以上、医師としては凡庸すぎる指示を出して手をこまねいているしかなかった。

“だが原因が不明だとしても、それで改善している例があるのならあまり気負う必要はないか”

熊谷は宮内まりのカルテを閉じると、椅子の背もたれにもたれかかり、上を仰いだ。そのとき、天井と壁の隅の色が少し変色しているのが見えた。

2.閑話


宮内まりは病院を出た後、そのまま駅前の花屋に向かった。花屋の店員は宮内まりの姿を見ると、いつものように明るく微笑んだ。

彼女は陳列棚に立てて置かれている仏花を見ていた。

店員が宮内まりに近寄ってきて話しかけた。

“今日もお墓参りですか?”

“あ、はい。このあと行こうと思って”

“今日はちょうど新しい種類の菊を入荷したんです。こちらの花とかおすすめですよ”

店員はおすすめの白い菊を彼女に見せた。

“きれいですね……匂いもいい感じ。これ買います”

“ありがとうございます”

“宮内さん、定期的にお墓参りに行かれてますよね。お母さまでしたか。お母さまも喜んでいるんじゃないでしょうか”

店員は穏やかな声色で言った。

“でも、私、母の顔をあまり覚えてはないんです……”

“そうなんですか?”

“はい。母が交通事故で亡くなったとき、私は母から少し離れた道端で倒れていたみたいなんです。それ以降、母の顔も母の死に際も、思い出せなくなりました”

“それはお辛いですね……”

“大丈夫です。もう昔の話ですので”

宮内まりは店員から渡された仏花を受け取った。受け取った瞬間、彼女は突然頭にズキンと痛みを感じ、その花の花弁が肌色に変化したように見えたが、すぐにまた元の白色に戻った。

彼女は店を出た後、熊谷との会話を思い出した。
色彩侵蝕症。徐々に視界が何かの色で侵蝕されていく病気。
現に彼女の視界の左上の隅はすでに肌色に変わってしまっている。何も見えないわけではないが、物が全部肌色に見えている。

だが、さっき一瞬だけ花びらの色が変わったのはいったい……

宮内まりが去ったあと、花屋の店員は陳列棚に仕入れた覚えのない花があるのを発見した。肌色っぽい色の花だった。

3.異変


熊谷は昼食を取った後、20分ほど仮眠していた。アラームが鳴り、目覚めると彼はすぐさま異変に気づいた。

さきほど見つけた天井の隅の変色が広がっているのだ。
診断室の天井と壁の3分の1ほどの面積が、いまや肌色に塗り替えられている。

“肌色?”

熊谷の頭に宮内まりの話が浮かんだ。彼女は肌色に視界が侵蝕されていると言った。この異変と彼女の異変にはなにか関係があるのだろうか。それとも、ただの偶然なのか。

熊谷はとりあえず冷静になって、看護師の一人を診断室に呼び、肌色に変色した部分を見てもらった。

“あの肌色の変色、何だと思う?”

“何でしょうかね……湿気とかで変色したっていう可能性とかありそうですよね。これ以上ひどくなったら業者呼びましょう”

熊谷は安心した。あの肌色の変色が自分だけが見ている幻覚ではなかったと分かったのだ。

彼は診察時間の再開までまだ少し時間が残っていたため、スマホを取り出そうと机の下に置いていた鞄に手を伸ばした。

だが、彼は鞄の色彩に違和感を覚えた。
まさか、と彼が浅い呼吸を続けて鞄を取り出すと、彼の鞄の大部分が肌色に変わっていた。彼は思わず、鞄を落としてしまった。

“何がどうなっているんだ……明らかにとんでもない異変が起きている……”

そのとき、診断室のドアが強くノックされ、さきほどの看護師が慌てて入ってきた。

“先生、大変です!病院が……”

看護師に促され、待合室に行ってみると待合室のあらゆる物が肌色に変化しかけていた。室内は軽いパニックになっていた。

熊谷は患者たちに呼びかけた。

“誠に申し訳ございません。現在、病院に原因不明の異常が発生しております。午後の診断は急遽休診とさせていただきます”

患者たちは急いで病院を去っていった。熊谷は看護師たちにも帰るよう伝えた。

熊谷は待合室の様子をもう一度じっくり眺めて考えた。
この現象はいったいなんだ。未知のウイルスか何かによる集団感染で、特定の場所にいた人間の色覚に異常が生じているのか。
それとも、本当に世界が肌色に変わっているのか。

だが、いずれにせよ宮内まりという患者が病院に訪れてから起こったことだ。
彼女が何かしらの手がかりをもっていると考えていいだろう。

彼は鞄からスマホを取り出した。まず警察に電話しようと思ったが、結局彼は知己の医者に電話をかけた。

“もしもし”

“もしもし、波多野か。少し急を要する相談があるんだが、今大丈夫か?”

“今日は休診日だから大丈夫だよ。何の用だ?”

“詳しくはまだ教えられないんだが……そっちで何か変わったことは起きてないか?”

“変わったこと?特にはないね”

“そうか、そうだよな”

“どうしたんだ、熊谷。もったいぶらないで早く言ってくれよ”

“あまり患者の名前を出したくはないんだが、宮内まりって人分かるか?”

熊谷が波多野に連絡したのは、波多野が並外れた記憶力を持っているからだった。
波多野は自分が担当した患者はもちろん一度見かけた患者の名前も全部覚えているのだ。

“宮内まり……その人は17歳ぐらいの女性?”

“そうだ。17歳だ”

“同姓同名かもしれないが、その人ならおれたちが昔総合病院で研修医やってたころに救急搬送で運ばれてきた人だな。これはプライバシーに関わることだけど”

“プライバシーとかそれどころかじゃないんだ。救急搬送?何か大怪我とか重篤な病気のせいか?”

“いや、彼女は後から分かったんだが気絶してただけだ。確か彼女の母親の方が重体だったんだ。交通事故か何かで”

“交通事故か。その母親は助かったのか?”

電話の向こうで波多野はしばらく沈黙した。

“波多野?どうした”

“今完全に思い出した。宮内まりの母親は事故の起こった後、即死したんだ。
衝撃で頭蓋骨が大きく削れて、脳の中身がすべてむき出しになってたらしい”

“……それを宮内まりは見たのか?”

“分からない。しかし、彼女は意識を取り戻したとき、母親のことを覚えていなかったと聞いた。おそらく彼女は母親の死に際を見ている。強いショックのために記憶がなくなったんだ”

“それは何年前の話だ?”

“11年前のはずだ”

“すると彼女は当時6歳か……”

“ああ、さてなぜ彼女の情報を訊いたのか教えてくれ”

“実は宮内まりはさっきうちの病院に来たんだ。それで色彩侵蝕症の症状を訴えた。彼女が病院を去ってから、身の周りで異常が起き始めた”

“異常って?”

“身の周りのものが肌色に変わっていくんだ。彼女も視界が肌色に侵蝕されていると言った。何か関係があるはずだ”

“それ本気で言ってるのか?”

“信じがたいと思うが”

“そんなことはフィクションの中だけの出来事だろ?彼女は超能力者かなにかなのか?”

“分からない……ただ、それが今起こっているのは確かなんだ”

“……とりあえず彼女をもう一回病院に呼んでみたらどうだ。おれにもどうすればいいのか分からない”

“そうするよ。ありがとう”

熊谷は電話を切った。
彼は周りを見回した。肌色の面積がまた大きくなっている。彼は窓の近くに行き、外を見た。隣りの建物の外壁がやや肌色っぽく変色しているように見えた。

4.記憶


彼は椅子に座り、宮内まりの電話番号にかけた。宮内まりは6コール目で応答した。

“もしもし、熊谷病院の熊谷ですが、宮内まりさんでしょうか?”

“はい、宮内です”

“今日中にもう一度来ていただくことはできますでしょうか?少し気になることがございまして”

“ええ、大丈夫です。用事が終わったらまた伺います”

“すみません、ありがとうございます。ではお待ちしております”

熊谷は電話が切れると、スマホの画面が肌色になっていることに気づいた。服の袖で拭いてみたが、その肌色は落ちなかった。

宮内まりが病院に来たのは、熊谷が電話をかけてから2時間後だった。
彼女はすでに何もかもが肌色に変わってしまった病院を見て、言葉を失った。

“あの、この病院の色はいったい……”

“私にも全く分かりません。あなたがこの病院を去ってから突如この現象が始まったのです”

“つまり、私がこの現象の原因なのでしょうか……?”

“それもまだ分かりません。ですのでもう一度宮内さんに来ていただいて、少しお話したいと考えたのです。まずは宮内さん、先ほどと比べて色彩侵蝕症の症状はどうでしょうか?”

“ひどくなっています……さっきよりも肌色の範囲が広くなってます。視界の左上はもう全部肌色に見えます”

“そうですか……おそらくあなたの色彩侵蝕症と、この現実での色彩侵蝕現象は関係がある可能性が高いです。ですが私もこんな現象は初めて経験するのでどう対処すればいいのか……宮内さん、病院の後にどこか行かれましたか?”

“そのまま駅前の花屋に寄りました”

“その花屋でも、もしかしたらここと同じような現象が起きているかもしれませんね。失礼ながらお聞きしますが、花屋にはどういった目的で行かれたのですか?”

彼女は答えるのを少しためらったが、か細い声で話し始めた。

“母のお墓に供えるためのお花を買いに行ってたんです。あの、この情報がなにか関係あるんでしょうか?”

熊谷はさっそく重要な情報を引き出すことができた。波多野が教えてくれた情報に関係するものだ。彼女と彼女の母親との記憶に、何か手がかりがあるかもしれない。

“あなたの病気を治し、肌色化現象を止めるきっかけになるかもしれません。抵抗はあるかもしれませんが、話していただけると幸いです。お母さまはいつお亡くなりになりましたか?”

“確か……私が6歳のときでした”

“お母さまが亡くなった際の状況を詳しく教えていただけませんか?”

“亡くなった際の状況……実はあまり覚えていないんです。その日のことを。近所のスーパーまで私と母で出かけたのは覚えているんですが、その後の記憶は……”

その瞬間、熊谷の目に、さきほどまで多様な色彩を具えていたはずの宮内まりの姿が、髪も服装もすべて肌色に染められていく様子が映ってしまった。

彼は咄嗟に両目を手で覆い隠して、下を向いた。ゆっくり目を開けてみると、自分の服もぜんぶ肌色になっていた。
自分の目がおかしくなったのか、それとも世界がおかしくなったのか、いよいよ熊谷も混乱してきた。

“もしかすると、彼女をここに呼び出して話を聞いたのは逆効果だったのだろうか……”

彼はそう思った。そして宮内まりの存在を忘れたように窓のもとに急いで駆けていった。彼の目は肌色以外の色彩に飢えていた。

しかし、窓から見える景色全部が一面肌色だった。道路も、建物も、人間も、空も。
熊谷はその世界を唖然としながら見つめるしかなかった。

“先生……”

熊谷の背後から、深く暗い洞窟の中から呼びかけるような宮内まりの声が聞こえた。熊谷はゆっくりと振り向いた。

“私、最近、実は思い出しそうになってたんです、初めて。母が死んだときのこと

宮内まりの身体は硬直し、ぶるぶると震えていた。彼女の目線はどこか空中の一点に固定されていた。目からは肌色の涙が流れていた。

“宮内さん、もう大丈夫です。無理しないでください。それ以上は”

“母は道路で居眠り運転をしていた大型のトラックに轢かれました……母は身体を突き飛ばされました……母は少しも動きませんでした……母は倒れたまま後ろからやってきたトラックの下に巻き込まれました……それから”

“宮内さん、言わないでください。申し訳ございませんでした”

彼は彼女のもとへ駆け寄るが、彼女は彼のことが見えていないみたいに話し続けた。

“それから、母は頭が道路に削られました……”

“宮内さん!”
熊谷は大声を出した。

“母は……お母さんの頭の中は、真っ赤な血が”

その瞬間、肌色の世界が真っ赤に変わった。

5.変色


世界は肌色から真っ赤に変わった。

熊谷の目にはすべてが鮮明に赤く見えていた。彼はその場で棒立ちになった。

自分の手のひらを見つめるが、輪郭がかろうじて分かるぐらいだ。彼は窓を飛び出し、外に出た。外を見ても、赤しか映らない。どこを見ようとも赤から逃げることができない。一瞬にして、世界は色彩の暴力に犯されたのだ。

熊谷は診断室に戻ると、宮内まりは目を開けたまま何も動かなくなっていた。

そして電話の着信音が鳴り響いていることに気づいた。熊谷はつまづきながら、赤い闇の中からスマホの輪郭を探し、応答する。

“もしもし、熊谷、どうなってる?これは宮内まりと関係があるのか?”
波多野の声だった。

“おれが悪いんだ……彼女を呼び出しさえしなければ”

“熊谷の病院に救急車を向かわせている。とりあえず宮内まりを乗せてくれ。話はそれからだ”

だが、救急車はやってこなかった。
街のすべての色彩が赤に変わってしまったため、交通網は混乱し、救急車は事故に巻き込まれたのである。

熊谷は動かなくなった宮内まりの前に座り、後悔の念に駆られながら真っ赤な世界に目をつむることしかできなかった。

最終的に熊谷はその後、熊谷の病院に来た波多野の助けもあって、宮内まりを運び出すことに成功した。
そして街の総合病院に着くと彼女は意識を失った。それと同時に世界の色彩は元通りに戻った。

おそらく彼女がまた目覚めれば赤色か肌色の世界に戻る。彼女の記憶と連携してるんだ。どういう原理か知らないが”

波多野はそう言った。熊谷と波多野は総合病院の窓際にいた。

“肌色になったのはなぜだろう”

“おれが考えるに、彼女は無意識的にその肌色で記憶の封じ込めをしていたんだ。真っ赤な血の色を、肌の色で。コンシーラーみたいにな。だが母親の死を思い出すと同時に赤い色がよみがえった”

“すまない……おれが色彩侵蝕症の対処法を間違えたんだ”

“熊谷だけのせいじゃない。色彩侵蝕症自体、不明点の多い病気だし、今回みたいなことは初めてだ。これが色彩侵蝕症による現象なのか、彼女だけが起こせる特殊な現象なのか……いずれにせよ、時間の問題だろう。彼女はいずれ思い出していた”

波多野がそう言い終えると、二人の窓から見える風景がすべて真っ赤に変わった。


■【record.24】


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