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連続投稿が途切れてのつれづれ
二週間くらい続いた連続投稿が少し前に途切れた。意識していたわけじゃないけど、連投してるとnoteさんがすごいすごいと言うので、気にはなってくる。
そして、今回は途切れたことがちょっと悔しい。
ただ連続投稿したいだけなら、何かつぶやけばいい。わたしの場合は写真を投稿する手があるので、いくらでも繋げられる。
だから、連続投稿自体はあまりチャレンジングなことじゃない。
どちらかというと、文章を書く時間があるかどうかのバロメーターのひとつだ。
投稿はおろか、ろくにnoteが開けないと、ああ、また足枷のような雑事に囚われる一日だったと魂が嘆きメンタルが落ちる。
逆に、投稿に至らなくても何かを書き進めた満足感があれば、こだわらないでいられる。
わたしはそんな立ち位置だけど、ふと思ったことがある。
連続投稿は、投稿者側の自信や満足、つまり自分への信頼だけでなく、見に来てくれた方との間の信頼も生み出す。
昨日書いたものに興味を持ってくれたかもしれない誰かが、ふと自分を再び見に来てくれた時、新しいネタを提供できていれば少しでも楽しんでもらえるかもしれない。
その積み重ねが、興味を持続させ、やがて記事や投稿者への信頼に繋がる。
そう考えると、ハードルは高くなるけど、それに見合うものを毎日投稿するのが望ましく、とりあえず書きなぐったものはどうなのと感じたりもする。
この「また楽しんでもらえるかも」という部分が、わたしの場合は至らない部分だ。
もしかして、ごくたまに書く優し気な詩や写真を気に入ってくれたかもしれない人が、その次の日にわたしの辛辣気味な散文を目にしたら、がっかりするかもしれない。
自分のnoteなので本来は好きに書けばいいし、そうなったらもうしょうがないけど、もう少し書くことを絞れたらこのアカウントもまとまりが出るだろうに、と自己分析している。
noteに限らずSNSがそうだけど、発信のテーマや文章のテイストなどの統一感というのは、興味を持ってくれたかもしれない人に引き続きご縁をいただく重要ポイントだとよくわかる。
わたしはスキしてくださった方や気になる方のnoteを見に行くスタイルなので、訪れた先に新しい記事があると心が小躍りする。
毎日でなくても定期的に投稿があれば、このnoterさんはお元気でお過ごしかな、と勝手に安心する。
ああ、今日はもう時間切れ。
でも、一昨年の今頃よりは昨年の方が、昨年の今頃よりは今年の方が、書く時間が間違いなく取れている。
今年は、いや、今年こそ、書くのだ。
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今日の鳥っていう写真シリーズも
アリかもしれない
ここまで御覧くださった皆様、
貴重なお時間ありがとうございました!
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