「album」
もし、人生が二つあったら、貴方はどうしますか?
夢のようだと浮かれるのでしょうか。あるいは、そうなのだけれど。
暗黒が無限に続く。
どこを見ても闇、闇、闇。平衡感覚も狂う程の単色。位置を測るだけの基準すらどこにも無い。
そんな黒が支配する空間に、一つだけ目を引くものがあった。それは白だ。人のように見える。人型にくり抜かれた隙間のような空白のような。淡い縁取りは、輪郭というには心許ない。
ぽつりと佇んでいる。普通という名の人々なら、この光景を恐怖とでも言って済ませるのだろう。
仮に、白人間としよう。色白がどうとか、白人がどうという話ではない。黒の中に小さな白の点があれば、見ようによっては光のように例えられもするだろう。しかし、私にとってあれを光と称するのは、些か納得がいかない。
白人間が何か言いたそうにしていた。もちろん口は無く、目や耳に該当するものも無い。ただ頭や胴体・四肢が判別出来る見てくれであるから、目の前の存在をヒトと定義づけただけだ。それでも、何かを訴えている、そんなように思えたのだ。
この日から、私の夢は連続性を持つようになった。
嫌いな仕事。実はそう思ったことはあまりない。出会う人間は良い人の方が多いくらいで、環境も悪くない。業務だって、そつがなくこなしているつもりだ。円滑な人間関係の上に機械的で実利的な社会人生活を置いている。
皆が幸せを口にし、努力を口にし、愚痴を口にする。まさしく人間らしい感情を竜巻のように生み出して。自分の笑顔を自分で掴み、汗を流すことが出来る。一番素晴らしいのは、ぶつかることに臆しない強さがあることだ。
きっとそれこそが原因なのだ。自分が惨めになる。私に天気予報は必要ない。波風一つ立たない凪の如きつまらない歴史。平穏や静謐という綺麗な言葉の似合わない虚無。自らの選択で作り上げてきた人生。にも拘らず、誰かのせいにばかりしてしまう。そうしなければ自分を保っていられない。それは日々の時間経過すらままならないという異常事態にまで差し掛かっている。
私には何もない。積み上げたものも、誇れるものも。あの子にはあるのに、あの子は持ってるのに。あの人は立派なのに、あいつでさえ楽しそうなのに。
三十を目前にして、今まで出来た彼氏は二人だけ。結婚の話が挙がったことは無い。一人は学生時代の半年にも満たない交際。もう一人は社会人になってから出会い、三年続き、うち一年同棲したが、今では連絡先どころか記憶すら曖昧だ。嘘みたいな話だが真実というのは自分が一番分かっている。
貞操観念の高さと奥手すぎる慎重さが相まって、気軽に恋に踏み切ることもない。ましてや婚活などというものは、そのハードルが高層ビルのように聳え立っていた。
仲の良い後輩がいる。長い期間良好な関係を築いているし、お互いが笑う回数だって多い。けれど、彼女は私のことをどう思っているのか。未熟で中途半端で、高収入をSNSにひけらかす人生の攻略法を熟知している現代女子からみれば「負け組」と揶揄されそうな私を。
流れ作業と化した一日をまた終えてしまった。成長もない。達成感もない。同僚や上司、部下。取引先の相手に、スーパーやコンビニエンスストアの店員まで。輝いた情報を聞き入れる度に自分から光沢が失われていく。
帰路に就いて「ただいま」と消えそうな声で呟く。辛うじて人間性を喪失していない私のささやかな抵抗のような習慣だ。声の出し方を忘れたことはないが、自宅に常に一人でいると自分の声を忘れそうになる恐怖に気が狂いそうになる。
こんな時、酒に逃げれば良いのだろうがそれも怖くて叶わない。酒豪ではないが下戸でもない。飲まないのは飲み過ぎるのを抑える為だ。万一倒れでもしたら仕事に支障が出るどころか、誰かに通報されてしまう。見つかるのかも分からないが。とにかく、こんな人生を送ってきた自分だ、信用するに値しない。そんな奴の泥酔なんて考えただけで恐ろしい。
アルコールに頼れない大人。そんな私は「夢」に頼る。例の彼だ。相談相手が居ればなんでもいいのかも。
ペットのように名前をつけているわけではない。男友達のような感覚だ。彼女持ちであるから性的な関係性に発展する心配のない、利便性の高いあの。
寝れば会える白人間。どこぞのアイドルより費用対効果が高い。寝つきが悪い方ではなかったため、すぐに睡眠へ辿り着ける。いつも話題は「私」の愚痴だ。私の、私による、私のための。
最低限のタスクをこなし、ベッドへ向かう。今日は一段と脳内が混雑しているのでスマートフォンの誘惑に打ち勝てる。早く夢に入りたい。入浴の熱が残ったまま瞼を下ろすと、彼に会うのにそう時間は掛からない。
「どうしてこうなっちゃったんだろう。アラサーなんてもっての外、今じゃ二十代前半でもかなり厳しい時代だよ。十代で色んな経験を積んでおくんだって。そういう思考の若い子にとっちゃ、二十代以降が『余生』なのかな」
洋画に出てくる俳優のようにコミカルに不明を訴える白人間。なんだか少し腹が立つ。
「今の世の中って、お金や評判・実績が最優先事項の人で溢れかえってるって感じ。私みたいにプライド優先なタイプって絶滅危惧種? こじらせたプライドだし、他人からは見えないくらい小さなものだろうけど」
そんなことないよ、そうジェスチャーを交えて私を宥める。ノンバーバルコミュニケーションのみが彼のスキルだった。
敢えて自嘲的に言った私を真正面から慰めてくれるような、その素振りこそ私が求めていたものだった。我ながら面倒臭さを体現したような俗物だと思う。
「惨めが際立つのに、一銭にもならないのに、なんでキラキラしたものを目で追っちゃうんだろう。誰かが言ってたけど、『出来ぬことに時間を浪費するより、出来ることで人生に投資する』ってすごく納得出来るのに実行は難しいんだよね。私に出家するくらいの強さがあればなあ」
無理はしないで、白人間の伝えたいことは動きだけでなく肌を通して理解出来る感覚がある。彼は発破はかけない。具体的な策を講じてもくれない。けれど、「私の中」から答えを探してくれる。夢は記憶の整理とよく言う。人生の歴史を振り返り、私という物語を読み直して、何かを提示してくれる。示唆という方が適しているか。
「たっくさんのドラマやアニメで教訓だったりを学んできた筈なのに、『取り返しがつかない』状況に自分がなってるなんて、情けなくてたまらない。悔しいを通り越して、辛さだけが一日中体を支配するんだ」
初めから人生プランが上手くいくなんて思っていない。死ぬほど努力をして、色濃い旅路を苦労しながらも確かな足取りで進んでいく。そんな将来を想像していた。しかし余裕のない今に至っては、いち早く現状を打破する何かを欲している。空から大金が降ってきてもいいし、白馬に乗った王子様との出会いでもいい。朧げに、巨大な幸せが訪れて自分の人生の転換点になるのを夢見ている。
しかしこれは果報を寝て待つだけの怠け者のようにも思えて、酷く嫌気が差す。
「受け取り手の問題かな。みんなはやっぱり上手にやっているのかも」
白人間は近づいてこない。前述の通り、距離感覚のない場所であるから。彼の身長はわからない。
私はぺたりと座り込んだ。膝が内側に、操り人形の糸を切ったみたいに力なく落ちていく。地面がなくとも座ることは出来るらしい。
真っ暗な空間は落ち着くが、それに甘んじて気分も重たくなる。ここでは気丈に振る舞う必要はない。
「今日死にたいと思ってても、明日生きたいって思えることの連続なの。生きたくないけど死にたくない。死にたくないけど生きたくない。我儘の通る世界を探している内に、自分のことを見失っちゃった。それで、そんな自分がまた嫌になる。その繰り返し」
うん、うん、と彼は同調するように飲み込んだ。肯定でも否定でもなく、ただ受け入れてくれる。彼は私に、私の物語を捲ってみせた。
幼稚園。数人でおままごとに耽っていた。少し離れたところに一人でもじもじとこちらを眺めているおさげの女の子が居た。私はその子に気づくと、体を左右に揺らしながら駆け寄り、彼女の右手を取った。
「何。私は優しいって言いたいの」
小学校。高学年になり、男子が小声で猥談をするようになっていた。性に関する興味とはすごいもので、悪習の如く流行っていた、お互いの男性器を見せ合うというもの。当然、嫌がる児童もおり、体育の時間の更衣の際、半ば強引に服を剥ぎ取る者もいた。
私は不快に思っていた。女性は男性より早熟なので、この頃には大多数の女子が同じ気持ちを抱いていたが、軽く牽制の言葉を投げかけるだけだった。そして質量を持たないそれは、教室の二酸化炭素に溶けて消えた。
その光景に「いじめ」という言葉が去来して、心に住まう魔法少女が止めに入ったが、実際の体が動こうとはしなかった。
「今度は逆?」
白人間は首を横に振った。
クラスで一番可愛くて、男子から影で人気のある子に私は話をした。次の日から、女子の話題は静かで卑猥なことを言わない男子、真面目な男子って格好いいよね。というものになった。どのグループも口を揃えて同じ事柄を話すため、聞き耳を立てている男子も気が気ではない。何より、マドンナがそれをさも本心のように言うのだから。
以降、その悪習は勢いを失った。
そういえばそんなことをした。曖昧になっていたことが掘り起こされた。正義の味方の真似事は成功していたのだろうか。少しばかり誇らしい気持ちが温もりを帯びる。
「私より私のこと知ってるね」
大学。掛け持ちしたアルバイトと講義という忙しない日常を送っていた。給料は一人暮らしの費用に充てつつ、友人からの誘いは断らない。お金を気にしての食事はしたくなかったから。もちろん数多くの飲みに参加したので、貯金なんてものはない。
ある時、アルバイト先へ向かう道中、高齢の女性が大きなキャリーケースと一緒に道に伏していた。大抵、人が倒れたり転んだり、物を落としたり。そんなことがあっても都会の人の多さなら他の誰かが助けに入る。私も幾度も手伝おうとしたが、少しばかり距離が遠かったりするのだ。するとすぐに見知らぬ男性が割って入ったり、数人の大人が協力し始めたりと、私の隙間を埋めた。
珍しくその場面では私が一番近く、一番最初に気がついた。しめた。一日一善をモットーに、偽善的な満悦に浸ることの多い私は飛び出した。「お婆さん、大丈夫ですか」荷物を持ち、目的地を聞いた。女性は感謝を述べた後、お願いをしてきた。家まで送ってほしいというのだ。流石に図々しいのではないかとも思ったが、私は善行をしている優越感の中に居たため、二つ返事で了承をした。そして言葉を吐いた後に気づいた。目的地はアルバイト先の遥か反対の方向にあった。
近くに交番はなかった。むしろ交番を探した自分が恥ずかしかったくらいだ。遅刻の連絡は入れたが、それでも本来のシフトに大幅に遅れたのは事実だ。店長の顔が忘れられない。遊んでばかりいる大学生の遅刻は、理由の信憑性が低いのだ。
白人間は私が過去にした「良い事リスト」を見せているのか。
「でも怒られてる」
私は笑った。頬の緩みに抗えなかった。肩から力が抜けていく。無料で受けたカウンセリングにしては、今回も絶大な効果を発したように思えた。
私は現実と夢の二重生活を送っている。別に夢と現実の見分けがつかなくなった狂人や愚か者ではない。と、思う。
熟年女性が主役のコメディ映画をよく観る。一人でも生きていけるような強い女、というメッセージ性を孕んでいることが多いから。
前回観た作品はあまり記憶に残っていないが、劇中で幾度も出てきた「閉経」という単語は脳裏にこべりついて離れてくれない。少し前に帰省した際、母親に似た話題の相談をしたことがあったが「その歳で何言ってんの」と相手にされなかった。二十九年間生きてきたからわかる。十年、二十年くらいはすぐに過ぎ去るということを。
カップラーメンやインスタントの食品を日常的に口にしていると舌が馬鹿になる。雑学に強いコメンテーターが言っていたのを鵜呑みにしていたが、私の財布には強い味方である以上、仕方がない。一人で麺を啜ると、意外に大きい音が立っていることを思い知らされる。
自然と学生時代の友人らとは疎遠になった。さしたる理由がないというのだから驚きだ。けれども達観で得た持論がある。
学校などで形成・構築される友人は、あくまでその組織・集団の中で仲を深め、成るものだ。もちろんどの友人も好きで、大切だ。しかし大人になれば、今やインターネットで交流し、人間関係を築くことだって出来る。
つまり母数が桁違いなのだ。学校という限られた空間で、趣味の合う人間や居心地の良い人間を見つけても、大人になってから作る友人とは差が出てしまう。
クラスや学年単位でのキャラクターの位置付けや根差しているカーストの環境によって、分相応な友人が出来たりする。当然、上辺だけの関係性ならば心の内を隠したまま付き合うだろう。
しかし、インターネットという国や世界という規模でなら、より吟味して同類を探すことが出来る。同じ志を持っている人間や共感性が高い人間、類似点の多い人間。価値観や感性が見事なまでに同じ人間は強固な絆を作り上げる。畢竟、大人になってからの友人とは尊いものであるのだ。
唯一違うのは時間くらいか。幼少期を共に過ごした友人とは年月が違いすぎる。それを指摘する者もいるだろう。
しかし私にとって時間などは些細な問題で、どれだけ昔から知っていようが、本心を曝け出さずに付き合ってきた人間と日の浅い同類ならば、比べるまでもなく後者を選ぶ。
冷たい人間と笑うがいい。持論という名の強がりだという輩がいれば、鉄拳制裁をくらわせてやる。多少の自己弁護は目を瞑ってほしい。
友人と呼べる存在は、もはや後輩と白人間くらいのものだ。後輩と食事に来た今でさえ、楽しさの中に不安を交えながら咀嚼している。
「で、その俳優が前言ってたあたしの大好きな映画にも出てて。もう運命って感じ」
後輩は声を弾ませながら私にフォークを向けた。肘をつけて前傾姿勢になっている。とても行儀が良いとは言えず、傍から見れば非難されるだろう。SNSでは確実に炎上する。私は彼女のそんな快活な無邪気さが好きなので気にならない。
「過去作追おうと思ってるんです。先輩も見た方がいいですよ。流行りのドラマって流行るだけの理由はあるんですから」
くるくるとパスタを巻き付けながら彼女が言った。ドラマを楽しめるのは人生を楽しんでいる前提があってだと思っている私は、淡い返事をした。
「先輩。どうしました? また鬱ってるんですか」
彼女は遠慮などしない。私は、ろくに躊躇うこともなく考えを喉に溜めて吐き出す。
「自殺するとかしないとか。そういうのはもう考えてないけど、やっぱりタイムマシンが欲しくはなるよね」
平坦な声で話す。後輩と私ではまるで別の時間が流れているように。
「うわ、またそんなこと言ってる。あたしはまた宿題とかやりたくないからやだなあ。また振られたり喧嘩するのも嫌。だいたい先輩が過去に戻っても、一つ違うことをすればあたしとは出会ってないかもなんですよ。先輩、今遠回しにあたしと出会いたくなかったって言ってるようなもんです。ディスです、ディス」
冗談半分で私を刺してくる。
「それは違うよ」
けれどこの言葉は否定しなければならない。私は彼女にどれだけ救われているか。大人になってからの友人。相違点の方が多いくらいだが、価値観が合う。
「違わない。あたしと一緒にご飯してても『楽しくない』が上回っちゃうってことでしょ。いや、でもそれは先輩を夢中に出来てないあたしにも責任があるわけか」
彼女は勝手に自らに厳しくするように出来ている。
「それも違う。楽しいよ、助かってる」
「二十九の女性が休日に同性と食事してて『助かってる』なんてシリアスな表情で言わないんですよ。男の理想や愚痴だけ言ってりゃいいの」
「でも」私は弁明に必死になろうとした。
「タイムマシンはやめましょ。どうせ先輩はあたしと会いますよ」
そう言った彼女は私を蔑んでいるのではない。細胞が訴えている。彼女の優しさがひりひりと伝わってくる。本当に五つも下なのか、疑問は尽きない。
「それにバタフライエフェクトってこともあるし」彼女がはにかんだ。
結局、ドラマを見る気にはなれないと言ったらおすすめのバラエティを教えてくれた。よく真面目な話題にもなる、ちゃんこ鍋のようにジャンルがごった煮の番組だ。
そこで「お爺ちゃん先生」なる人がいた。最近人気のコーナーで、ズバリと問題を解決したり悩み相談に対処する塾講師らしい。年齢は七十代前半、いかにもどっしりと構えた安心感のある風体だ。今日のテーマは「良い教師」についてだった。塾講師の前は中学校教諭だったと説明が載っている。
教室のセットには番組が募った小学校から高校生までの未成年が四十人座っている。毎回テーマを話して聞かせ、その後の質疑応答にも答える。仕込みがあるかは知らないが、その現場の意見を直接聞くような形式も人気の理由らしい。教卓にいるお爺ちゃん先生がゆっくりと演説を始めた。
「今日は良い教師とは何か、について話そうか。君達は学園ドラマとかよく見るだろう。最高に親身で破天荒でかっこいい先生。でも現実の先生はあんまし。そういつも思ってるのが顔に書いてあるよ」
お爺ちゃん先生が笑いを誘う。前列にいる小学生の男の子が小さく吹き出しているのが映された。
「頻繁に怒る教師とそうでない教師がいる。小中高いずれにもだ。そんな環境なら教師の人気に差が出る。優しいということはステータスであり、当然生徒の人気を集める」
四十人の視線に臆する事なく話を進める。
「しかしそれは相対的に評価が上がってるに過ぎない。学校という枠組みの中で対応に差があれば偏るのは道理といえる。そういったものでなく、全員が優しい教師であった場合、秀でるものがなければ真の人気は得られないし、個人が持つ付加価値が問われてくる」
お爺ちゃん先生は得意げに続けた。
「例えば、面白い話をよくする先生だとか。だがしかし、優しい教師というのは大抵面白い話も出来たりするので判断が難しい」
「何それ」初めて野次が飛ぶと、それはそれで番組として起伏が出来る。
「そこで、もう一つ別の角度から考える。生徒との関係や距離だ。受け持つ生徒だけでない、学校生活で関わる全ての生徒に対するもの。生徒ってのはたくさんいるし、教師を続けていれば何百人と関わることになる。でも何かを相談する生徒にとっては唯一の存在だ。助けを求めて、答えを欲して大人に頼る」
子ども達の顔が幾つかのカメラに代わる代わる映し出されていく。
「すると忘れることもあるだろう。生徒の名前に、話の内容。ここで大事なことを言っておく。覚えていないから良い先生ではない、これは間違いだ。先生だって人生がある。いろんなことに揉まれてるだろうし、人間の記憶力には限界がある」
教師という職業における、総意の代弁者のように見えてきた。大人という広い枠組みにも当て嵌まるだろう。しかし言い訳とは別物に思える。
「ただ、姿勢は違う。相対した時の姿勢。それは如実に良し悪しがわかる。真摯に、前のめりに向き合ってくれる先生は素敵な先生だ」
静聴している一人一人の目を順番に辿る。お爺ちゃん先生は伝えたいことを聴覚だけでなく視覚を活用して伝えていた。一対一なら手を握るタイプだと推測出来る。
「俺は素敵な先生だから、何でも相談にのるし、力になるぞ。解決はプロ野球選手の打率くらいだな」最後にもう一笑い。相談の結果、解決策や打開策が半分を下回るのは如何なものか。
予想していたよりありきたりな着地に若干の肩透かしをくらったが、話の吸引力はあった。お爺ちゃん先生の並べる言葉には、ユーモアと説得力が詰まっていた。人気だというのも頷ける鑑賞体験だった。
白人間に話した。
年下の後輩から、テレビの向こうのお爺ちゃん先生から。三十年近く生きてきても世の中にはまだまだ多くの知見がある。知らないことの多さに辟易する。
「私も年季が入れば、ああやって仙人みたいになれるのかな。でも何事も成してない私とお爺ちゃん先生じゃ何もかもが違うしなあ」また悲観に塗り潰されそうになる。何も学んでいないのだろうか。
悟りを開きたいわけではなくとも、ある程度は自分の闇と和解したい。
白人間は足を軸のように動かしていた。私を指さしている。
エンジンも掛かっていないのに、四六時中右足を左に倒してきた。もっと直情的に動け、彼はそんなことを言っているようだった。もちろん、常にアクセルを強要するような危険な思想の持ち主でないことは明白だ。希死念慮の選択肢は無数に見聞きし熟考してきたからわかる。
思うがままに従い、世界に対し身勝手に生きる。忖度しないということは、攻撃すると同義ではない。
白人間はまたしても私の物語を捲った。
「スタート地点は自分で決める。私のストーリーはまだ序章に過ぎないのよ」
中学校。多感な時期で、この頃が一番恋多き乙女だったと思う。初めて彼氏が出来たのは高校に入ってからだが、当時の好奇心は凄まじかった。
「立ち直り早いね。もっと落ち込むと思ってた」友人の一人に慰められている。
おそらく、初恋である水泳部の男子に振られた直後だ。空元気なのは誰が見ても明らかであり、友人は演技派だった。
「プロローグじゃあ描かれもしないね」別の友人も鋭いパスを出す。
「そ」私は誇らしげな顔の自分を見て苦い表情をした。昔の自分はこんなに前向きなことを言っていたのか。
「お、昨日振られたんだって?」
同じクラスの男子にとって、からかわずにはいられないだろう。
「うるさい。提案をしただけ。提案は状況や気分によって変わるの。水物ってこと」
水物か。良く言えば柔軟で純粋、悪く言えば不安定。けれど透明で掴みどころがなく、自由だ。いつでも見た目は一緒だけれど、いつでも何にでもなれる。
白人間は黒い空間で透明の価値を説いた。私の戯言を真正面から考察し、解釈した。誰もいないこの場所で気恥ずかしさを覚えた。やはりずっとここに居たい。
夜、目が覚めた。「夢」を見ていたのに途中で起きたのは初めてだ。いつもなら、彼と会えば朝まで目は覚めない。無性にお腹が空いた。近くのコンビニエンスストアへ足を向けるのも吝かではない。
一定の間隔で並ぶ街灯は、高所からの監視のようだが、こんな心細い闇の中を照らしてくれているのだ、文句は言うまい。礼節は弁えている方だという自負があった。
何を買うか、決まらないままに到着する。陳列棚を呆然と眺めて、値段も裏面も見ずに次々と商品を買い物かごへ放り入れた。現金派の私にとって、深夜の人気の少なさは、お金を急いで数える必要がないため穏やかにレジに並ぶことが出来る。
店内を出て、星の無い空を見上げる。左手には、一人暮らしの女性にしては少し大きめのレジ袋。交通量の少なさは袋の乾いた音を引き立たせた。気分は悪くない。
さて、帰ろうか。自宅の方向へ踵を返すと、店の側面にある円柱状のスタンド灰皿の横で、相棒のように佇む人影があった。
「あ、部長」
「おお。奇遇だな」
昨今、数少ない生き残りの喫煙スペースは愛煙家のオアシスなのだ。上司の顔が綻びを見せているのはプライベートというだけでなく、癒しの最中にいることに他ならない。
「お疲れ様です。あれ、家この近くでしたっけ」
私は白々しく尋ねる。時々、部長を見かけることはあった。
「いや、もう少し離れてるんだけど、吸えるコンビニって近辺じゃここくらいなんだよ」
そんな労力を割くくらいだ、家で吸えない理由でもあるのだろう。火災報知器が心配だとか、換気扇が上手く機能していないとか、近隣住民に厳しい人が多いとか。
「へえ」気のない返事をしたのに悪気は無い。
「お前は吸わないんだったな。大丈夫か?」
「構いませんよ。もう行くので」
「ちょいちょい。せっかくなんだしおっさんの無駄話に付き合ってくれよ」
数秒前に受動喫煙を心配したとは思えない引き止め方をされた。無下にする気すら起きない。
意外にも仕事の話は出なかった。特別、仲が悪いわけではないが、こうやって他愛のない話をするのは初めてだったように思う。
「煙草を勧めるわけじゃないが、夜空を眺めての一服ってのはたまらないんだ。疲れが取れる」
部長は感傷に浸っていた。陶酔に付き合う時間は現代の若者が最も忌み嫌うものだ。私は私以上に嫌いなものなどなかった為、気にしたことはない。
「眺めるって。東京の空は真っ黒ですよ」
部長が何を言うか気になった。実際、思っていたことをついでに付け加えただけだ。
「星だけが景色じゃないだろ。俺はイカスミパスタ好きだぞ」
呆気に取られた。お爺ちゃん先生を思い出した。似ても似つかない筈だった。それに、全然上手くないし意味もわからない。
「部長は、自分の人生何点ですか」
身近な人間に相談を持ちかけることは私にとっての禁忌だった。部長が口を開くのに、少しのタイムラグがあった。
「点数を、つけるのか」
「つけるとして」
酸素が重い。私は何を聞いているのか。
「そういうお前はどうなんだ」
質問を質問で返す。これも異性の嫌いな行動として女性が挙げることの多いものだ。
「零点です」
「零点て。自分の人生なんだろ? 名前が無記入ってことはあるまいし」
数日前の私と、十数年前の私が見つめ合っていた。答えが上手くまとまらない。
「なんか、不正解が多いどころか、赤ペンでバツ印すらつけてもらえないような。空欄なんです、私って」
珍しく部長は沈黙を生み出すほどに考え込んでいるようだった。反射で会話を作るこの人らしくもない。
「あれだ。映画とかでたまに見る、炎にかざすと文字が浮かび出すやつ。書いてないわけじゃないんだよ。見ようとしていないだけで」
上手い例えが思いついたのか、どうだ、と言わんばかりの表情が鼻についた。
「見る方法がわかっていないと?」私はむっとした。大人げないと言えばそれまで。
「しっかり刻んでるってことだ」そう言って部長は歯を覗かせた。少し黄色い歯だった。
「お前はまだ若い」
部長はきっと教卓に立った。向かいには私が一人。さぞ教室が広く感じることだろう。
「はあ」
「勘違いするなよ。侮ったり舐めているわけじゃない。けど未来ある若者だという事実を曲げることは出来ないだろう」
「若くないです」
「人生百年時代だぞ。四半世紀をやっと過ぎたくらいだろうが。俺は自分のことも若いと思ってるぞ。半世紀も生きてないぺーぺーだ」
説教臭さはさほど感じられない。部長なりの言葉で私をどう説き伏せるのか気になった。
「そうやって時間で見るとよくないですよ。人間いつ死ぬか分からない、明日の保証は誰にだってないんです」試すように反論する自分が卑しい。
「楽観はイヤってか」
「別に。常に同じ危険性を孕む命あるものとしては対等ってだけです」
「俺はただ、楽しい未来がたくさん待ってるってことを疑ってほしくないだけさ」
部長はいつだって真っ直ぐな眼をしている。背けたくなるくらいに。
「楽しい未来」繰り返す私。
「そうだ。楽しい未来」繰り返す部長。
「待ってる、なんですね。溢れてる、とかじゃなくて」
「溢れてるってなんだか選択する必要がありそうだろ? お前はそれすらも億劫になりそうだからな。でも必ず『待ってる』なら、それまで頑張ればいいし、絶対に鉢合わせる」
幸せと鉢合わせる。確かに、それとなく楽しみが増えるようではある。
「なんか趣味でも増やすか? ゴルフはどうだ。ゴルフはいいぞ、スポーツとしても、コミュニケーションツールとしても、景観を眺めるヒーリング的な効果としても最高だ。ストレス解消に打ちっぱなしだけしてもいい。楽しみ方は自由だ」
ゴルフ、ね。生き生きと話す部長を止めたくはなかったので、薄ら笑いをつくった。
昨日観たお爺ちゃん先生ほどの話の解像度は無いように感じたが、私はそれを好んだ。
私を窮屈に思っていたのは私だけだったのかもしれない。空虚に見えたそれは、きっと世間が余白と呼ぶものなのだろう。可能性とも言い換えることが出来る。現代人的な思考を持つ私は見落としていた。頭の柔らかい人間の言葉には発見がある。
ふと思った。白人間。彼は誰なのだろうか。
ある日から私の汚れの捌け口としての役目を担ってくれた。どんなに無価値で非生産的な自虐を並べても、受け入れ、私を捲ってみせた。期間としてはそこまで長くはないかもしれない。しかし夢の中ではもう一つ、幕を上げる別の一日。睡眠時間と同じだけの体感時間。それでも睡眠不足にはならず、目覚めは彼に出会う前よりも良くなったくらいだった。多分あそこは、私にとってのオアシスと呼べる筈だ。
「男の人、紹介してくださいよ」意図せず出た軽快な言葉に自分自身、驚いた。もう思案は要らないと踏んだのだろう。
「男? なんだ、そういうことならもっと早く言えよ。どれ、どういうのがタイプなんだ」
私達は歩き出す。部長は歩幅を合わせてくれていた。
誰のものでもない自分の人生。好きなだけ無様に悪足掻きをしよう。帰り道、そう決めた。
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。