山本華那さんのブログからの学び| ある無意識の思い込みからの脱却のようなもの
昨日書いたブログ。
次の日(今日だ💡)番組に一緒に出演されておられた華那さんからいいねをいただけました!!
華那さん、ありがとうございます。
華那さんがnoterだったことにビックリ。
ブログを読ませていただく。
こちらはお友達と京都観光をしている回で、華那さんたちの何気ない日常の様なものが伝わってきました。
こちらはこの記事を書いて数か月経ってから見つけた回では、キャンパスライフ、フォークソング部での活動、お母さんのインタビューを通じて華那さんの謙虚さ、前向きさ、努力や辛さを知ることができました。
華那さんはフォークソング部、ってことはギター弾くってことで、指痛くないのかなと。確か賀久君のお母さんは筆圧を強くすると、一番繊細な部分でもある指や手が避けることも懸念するから軽い筆圧なんだと、賀久君がプリントで文字の練習を幼稚園帰宅後にしている回でおっしゃっていたことを思いだしたからですが。そして、自身も小学校の時、YAMAHA教室にあったギターを触ってみた時に、その弦の固さに何気に辟易してしまったのもあり、華那さんのチャレンジにも感動。
あれ?私感違っていた!!
華那さんのブログを読んで気付いた反省点のようなこと、簡単にまとめてみることに。コメント欄に書いてみる。
500文字以内におさまらず💦
こちらに御移動(駕籠屋のイメージ)。
華那さんの言葉、「大人になったら魚鱗癬という言葉はいらなくなる。」
子どもの信じる気持ちの強さと純粋さに感動するとともに、魚鱗癬の捉え方というか、難病に対する無知さに気付きました。
賀久くんのことを知り感動したという最初のmyブログ記事を書いた頃を思いだしてみる。病気を”当然”、”治らない病気”、さらに言えば、ご本人も治ると思っていないだろうとさえ思って書いていた。単純に簡潔に説明するのであれば、思いを巡らす前に必ず病気だということを念頭に置いて書いているというか。
難病であるということは本当なんだけど、その人=難病は事実だけど、それを全面に受けて書くとか、そう思って接するのは違うんだと。自分が病気だと思っている場合でも、その思い度の違いというか、他人が思う病気の意味の違いがあるというか、この辺りは目に見えない、見えにくい、可視化しにくい部分。だから余計に大事なんだと。
似てる感覚と言えば、例えば、不登校の子に対して病気だと言ってしまうことや、快方に向かっているけど時間がかかる症状に対して、病気と言ってしまうことに似ている。想像力の欠如としか言いようがないのかもしれませんが、人も頑丈に出来てはいないので、不安が先行するとこういう感覚に宿り、ついつい病気だと言ってしまえば、断定してしまえば言った人が楽になるという構図もあると思います。
そして、今回は私がそう言ってしまったり、思ってしまっていて。。そうじゃないんだと。ましてや、子どもさんなら、病気を受け入れるってことがいかに難しいか、受け入れ切れていなくて当然なのに。
そう思う一方、受け入れる必要なんてあるんだろうか?とも思えてきました。病気だと言ってしまうこと、思ってしまうことは簡単ですが、本当はそうじゃないと。治療しやすいように断定しているだけであり(他にもあるんだろう)、私達の行動に関して何ら妨げになってはならないんだと。今言っていることは、目には見えない部分で、はっきり言ってしまえば、どう思ってようが分からない部分でもあったりはします。でも大事だよねって気付いて。
一旦、病気だと受け入れてしまえば一定の安心は得られはします。そうなると、治る(確信)、治したい(強い希望のようなもの)ではなく、治りたいなの淡い願望になっていきます。「治る」と言う言葉が遠のく感じで、思いだせば、治りたい気持ちは高まる感じだと思うんです。逆に、治ると思うことの方がしんどくなっていきます。
一方、治ると強く思えばその逆になります。でもそんなに黒白はっきりつけられないので、中間でもやもやするのが当然だと思います。でも、そのままだとどちらにも振れるので、どちらの分岐点を常に移動することになるので、余計に辛くなるんだなと。それなら、治るって思おうよって促すのが得策なんじゃないかなと思いました。言うが易しで伝えるのが本当に難しいなと。究極の選択かもしれない。でもそこまでくっきりするのは大変だったら、治るよぉって思う「寄り」のようなもので、治らないの分岐点には触れないようにするのもいいかなとも。打ち寄せる波をよけるみたいな?
多分私の場合はそうだったので、そう書きますが、本人は症状が出ているときはそういう所まで考えている余裕がないのですが、サポートする方の問題になってくるんだと。その人を病気だと思って接するか、思わないで治ると当然のように思って接するか、病気を病気と思わないで接するか、百人百様の考え方があるんだと。
仏教では、心(思う)→言葉→行動
ということですから、その見えない部分、大事でその部分について、違っていたんだという気付きのようなものです。
分かっているつもりでも分かっていなかった、というか、あやふや~にしていたところでもありました。
ここからは華那さんブログ内の疑問形のところについてのmy opinion
皮膚炎を患っていた時期もあり、一番大変な時期の事を思い出したのです。
原因が分からない皮膚炎について、こういうのだよと断定してもらえればいいのにと思う一方で、誰かから病気だと言われることはもちろん、そう思われていると感じることでさえとてつもない違和感を覚えたりします。
多分それは、自分が認めてないからなんだろうけれど、認めない状態で快方に向かおうとしているからでもありますので、それはそれでいいと思いました。
(そうだ、あの時病気って言われれば「うっせーわ」と泣き(心で)、治る治るって言われても「うそやん、そんなはずないやん」と治る未来の想像は想定外だったと。)伝える側は難しいものですが、治るとはいいきることは出来ないものの、いい方向にきっと向かうよとはいいたいものです。
でも、「治ると思っているよ」「快方に向かうよ」は巡り巡って確実に、すさむ手前の気持ち、諦めにも似た思いへのメンタルポジ薬(その後も)に知らぬ間になっていくんだと。でも、痒みでしんどい時なんかにそう言われると逆効果になってしまうこともあるので、やっぱり治る治らないの論は慎重に選びたいと思いました。
華那さんの「そうだね!きっと取れるよ!」
華那さんの強い気持ちの伝播は、子どもにも希望を与える大きな力(勇気付け)になると思います。
嘘やん、本当やん以前に、
安心、希望を持ってもらえる、希望に繋がる何かになることに意味があるんだと💡
どんな病気も治らない病気はないと思える強い気持ち
大きく寛解への影響力を持つお薬になるんだと💡
そう言えば治らないと言われていた病気を克服された方もいたなと思いだす。
ふと思ったんですが、サンタクロース論というのがありますが、いるよっていいきれている場合、違ってたやん、嘘つきやん!となりますが、一方で信じさせてくれてありがとう的な気持ちもどっかにあったりします。もちろん、全然違いますし、より慎重にならなければならない問題でもありますが、どちらも半々で迷った場合はこういうケースもあるということで、治るとはいいきれはしません(医師ではないので)が、いい方向に向かっているということは伝えた方がいいんじゃないかなと思いました。
酷い状態の時に言えば、逆効果だし、いい調子の時、いい気分の時に魔法の言葉は言ってあげる必要がある。
だから言う自分はまず信じなきゃいけないことになるんだと。
そう思うと、否定的に言ってくる人はそれはそれで理解はできそう。
快方に向かう向かわないとか、治る治らないは言うこともできるし、言わずにいることだってできる。
治るって言ってくれて感謝☆彡
当時もみょん🐇と振り返ってみました。