
マークの大冒険 古代エジプト編 | 放課後のアレクサンドリア書房
日本・東京_____。
放課後、マークは友人の橘と校門まで歩きながら話していた。
「研究は何と言っても、文献が命!文献は研究者の武器だ。強い武器を持っていれば有利に戦えるように、優れた文献は研究者の心強いパートナーとなる」
マークは、持論を力説していた。
「クラスの中でもお前は一人だけ飛び抜けてるよ。みんなやっと受験を終えて、これから遊びムードだってのに」
「大学とは、学ぶために来る場所だぜ?ボクは、古代エジプトについて学びたくて、この学校に来たんだ。勉強に全振りするのは、あったり前だぜ!」
「だが、どうやってそんな文献を探し出すんだ?」
「そうだな、まず都内の大型書店をボクは週末に梯子しているね。池袋、新宿、丸の内ってコースかな。でも、大型書店は新品の本しか手に入らないからね、古い研究書や絶版の稀覯本なんかは、やっぱり神保町のお店を一軒ずつ覗いていくしかない」
「相当好きじゃないとできないな。もしくは暇人か」
「なら、アレクサンドリア書房に行こうか。ここから歩いても行ける場所にあるし、古代史研究をするなら外せない最高の古書店さ」
アレクサンドリア書房にて_____。

「いらっしゃいませ。あら、今日は友達も一緒なのね」
カウンターの奥の女性書店員がマークに声を掛けた。長いブロンドの髪に、青い眼をした典型的な西洋の美女といった感じだった。歳は20代前半から半ばといったところだろうか。

「ああ、同じクラスの友人で彼もエジプト学を学んでいる」
「いや、まだエジプト学専攻にするか決めてないけどな」
「そう。ゆっくりしていってください」
ジェシカは橘の方を向いて微笑み、軽く会釈した。
「美人だろ」
マークは、どこか誇らしげだった。
「ん、まあ、うん」
「古書店にこの美女は正直反則だと思わないか?通わない理由がないぜ」
「いや、文献探しに来たんじゃないのかよ」
「文献探しも大事だが、美女との会話も大事だろ」
「おい、目的がナンパに変わったのか?」
「何?」
ジェシカがイタズラな表情でマークたちの方を見ていた。たぶん二人の会話は、彼女に全て聞こえていたのだろう。
「いや、何でもない。男同士の秘密の会話。それより、前に注文したガーディナーは届いているかな」
マークは話をそらし、注文品が入っているか訊ねた。
「本当にタイミングが良いわね。今朝、ちょうど届いたところ。ちょっと待ってて、今取って来るから」
ジェシカは、そう言って店の奥に入っていった。
「さすがはマーク様、ついてるぜ!」
マークは注文品が届き、嬉しげな表情をして言った。
「お前、あの店員さん好きだろ」
「何!なぜそれを知っている!!読心術か?」
「いや、誰でも分かるよ。お前、分かりやすすぎだろ。キャンパスに幾らでも可愛い子がいるってのに目もくれないのは、そういうことだったのか」
「確かに我が校に美人は多いのかもしれない。特に仏文科の女子は美人揃いと定評があるが、ジェシカさんには到底及ばない。橘、マーク様のこのトップシークレットを口外したら、ボクがこの前買った古代ギリシアの呪い書の呪文をキミに試してしまうかもしれないぞ」
マークが冗談を言っていると、書店員のジェシカが届いた本をカウンターに出した。
「だいぶ重いわね」
ジェシカは、溜め息をついた。
「ああ、700ページ近いからね」
マークはカウンターに近づき、お目当ての本と対面した。
「これは?」
橘がマークに訊いた。

「アラン・ガーディナーのエジプシャン・グラマー。有名な本だから既に持っているけど、ヴァージョンが幾つかあってね。この新装版は持っていなかったから、注文したんだ。古代エジプト語を学ぶなら、絶対に外せないバイブルだ。ボクらも3回生になったら、必ず学ぶことになる」
「辞書みたいな分厚さだな」
「ああ、ここに中エジプト語文法のエッセンスが詰まっている。だが、中エジプト語は動詞構造が未だ不明確で、ガーディナーのエジプシャン・グラマーも完璧とは言えない。ファーストからサードまで版が存在し、3つの版はそれぞれ内容が大きく異なっているんだ。ガーディナー自身、模索していたんだろうね。この版の変遷は、ガーディナーの思考の痕跡とも言える。ファーストとセカンドは言うなれば推敲段階で、彼はサードエディションで最終的な結論に至った」
エジプシャン・グラマー(Egyptian Grammer)
英国の言語学者アラン・ガーディナーによって1927年に著された中エジプト語の文法書。1950年にセカンド、1957年にサードエディションが出版された。現在では最終形態にあたるサードエディションが教科書として導入されており、中エジプト語文法書のバイブル的立ち位置となっている。
「さすがはマーク。大学生になったばかりで、ここまで詳しいのは将来が楽しみね」
ジェシカがマークの博識ぶりを褒めた。
「へへ!」
「よく分からんけど、お前がオタクってことだけは分かったよ」
「それと、この本に収録されているガーディナーの記号表は彼の偉大な功績のひとつで、このエジプト・ヒエログリフの分類を今の研究者も利用している」
「ガーディナーの記号表?」
橘は聞きなれない言葉にクエスチョンマークの表情を浮かべた。
「ガーディナーはエジプト・ヒエログリフの特徴を整理し、A〜Z、そして未分類のAaにカテゴライズしたんだ。例えば、男性・女性と職業、人体の一部、神々、動植物、建築物、空・陸なんかのようにね。ボクはガーディナーのような研究者になりたい。古代エジプト語文法の教育普及に貢献したこの一冊は、極めて大きな意義を持つ。ボクもいつか、そんな一冊を残せる研究者になりたいんだ」
ガーディナーの記号表(Gardiner's Sign List)
エジプト・ヒエログリフの頻出サインをカテゴライズし、リストにしたもの。だが、当然ながら分類基準に不完全な部分もある。例えば、ネクベト女神とウァジェト女神が並んだ記章G16 (nbty/ネブティ)が挙げられる。本来であれば、神々ないしその身体の一部をカテゴライズしたC区分の要素の方が強いが、鳥のカテゴライズG区分に振り分けられている。
「きっとなれるんじゃないか?というか、お前がならなかったら誰がなるんだ」
「たまには良いことを言うんだな、橘。だが、キミも古代エジプトを研究したくてこの学校に来たんだろ?」
「いや、俺は何となくこの学校が有名難関大で、将来的に良いところに就職できそうだから選んだって感じだけどな」
「そうか、なら古代エジプトを極めないとな!!」
「いや、話が繋がってねーよ!エジプト狂」
そんなふうにマークたちが話している中、店主の男が螺旋階段から降りて来た。
「マーク、来てたのか。ちょっと見てほしいものがあってな。これなんだが」
店主が脇に抱えた箱をカウンターに置いて開けると、マス目のついたトレイにコインが綺麗に並べられていた。
「コイン?」
「ああ、お客さんからの預かりもんでな。どうやら古代コインらしいんだが、俺にはさっぱりで。普段あまりこういうのは扱わないんだが、常連さんだった人の奥方の頼みってのもあって断りづらくてな。亡くなった常連さんの遺品で、家にあっても場所を取るだけだし、本物か贋物か家族は区別もつかなくて誰かに見てほしいってことなんだ」
「そういうことね、どれどれ」
マークは、コイントレイを食い入るように見つめた。
「凄いな。全部古代ギリシア・ローマの貨幣だ。エジプトのピラミッドの中から当時の貨幣が出土するケースが報告されていてね。特にローマコインは皇帝の肖像が描かれているから、ピンポイントでの年代特定に役立つんだ。実際にヌビア地方のピラミッドからローマ帝国時代の貨幣の出土が確認されていて、これらの貨幣に描かれた皇帝の肖像や銘文が年代推定の判断材料にされたこともある」
「分かるか?」
店主は、マークの方を見て言った。
「ああ、年代はアレクサンドロス大王からカラカラ帝までって感じかな。肖像を見れば分かるさ。スペースの問題で略表記されてるけど、ギリシア文字やラテン文字も刻まれている。博物館でガラスケース越しに見たことはあるけど、ここまで間近で観るのはボクも始めてだ」
「できれば、少し調べてみてくれないか?俺にはさっぱりでな。もう目も悪くて、なかなかこういう小さなものを調べるのがしんどい歳でな」
店主は困り果てた表情で、マークに頼った。
「分かったよ。朝飯前さ」
「次に何かを買う時は、割引する。それでどうだ?」
「交渉成立だね」
「ここにも何冊かコインの本があったと思うから、もし必要ならそれを使っても構わない」
「ああ、それはありがたい。ぜひ使わせてもらうよ。うおお、なんだか無性にテンションが上がって来たぜ!」
「お前、ほんとに楽しそうだな」
橘は半分呆れ気味で、マークの方を見て言った。
「これぞ、至福の時間!とんだ仕事が舞い込んで来たぜ!」
Shelk 🦋