また甘えられる世界へ〜『異人たち』と『異人たちとの夏』【映画感想】
山田太一の小説『異人たちとの夏』を原作とし、アンドリュー・ヘイ監督がアンドリュー・スコットを主演に迎えて映画化した『異人たち』。孤独に生きる脚本家の男がふと幼少期の住んでいた家を訪れると、そこには30年前に亡くなった両親がその時のまま生活しており、かつてのような親子としての交流を行う、というあらすじだ。
このあらすじは大林宣彦監督、風間杜夫主演による1988年の日本映画版にも共通している。今回の英国版で異なるのは主人公がゲイであること、彼とタワーマンションの中で交流を持つ人物もゲイの青年であることで、これは監督自身のパーソナルな側面を反映しているのだという。更にその結末も大きく異なり、私は劇中の大きな感動とは別に、その後味についてずっと考え込んでいる。
この時代、この監督の手によって『異人たちの夏』はいかに読み変えられたか。それを私自身の主観、そして精神分析的観点から紐解いてみる。
甘えられない大人たち
精神的に疲弊した主人公が死んだ両親と再会するこの物語。両親の前ですっかり子どもに戻ってしまう主人公はその交流を通して心を癒していく。これは精神の防衛機制の1つである“退行“が生じていることが連想される。その意味でこれは幽霊譚でありながら、退行した心の中で両親を呼び寄せる、精神世界で起きた物語としても読める。
日本版では甲斐甲斐しく世話を焼く母親とぶっきらぼうだが情に熱い父親に無条件に肯定される様を描き、絶対的な甘えられる世界を作り出した。一方、本作では両親の優しさを描きつつもアダムのセクシュアリティに対する両親の無理解や誤解なども描く。心の中でのアダムの怯えが、完全には甘えきれない世界として立ち上がっている。
精神分析家・土居健郎が定義した”甘え”は、「愛されることへの無力な願望」であり、日本人に特有の心性であるという理論を展開していた。その意味で『異人たちとの夏』は浅草を舞台として生まれる郷愁の中で、甘えられなくなった大人が再び子どもに戻って甘え直すことを描く、日本人らしい機微が作品の肝だと言えるだろう。
「異人たち」にはそうした理想化されたノスタルジーはない。アダムの甘えられない大人として生きる苦しみが極めて重く描かれているし、甘えようとしてもそこに壁が生まれてしまう。そこに現代を描く誠実さがあるように思えた。人情や無条件の受容だけでは描き切れない世界もあるのだと監督は考えたからこそ、この壁を設けたのだ。
しかしアダムと両親は交流を重ねる中で分かり合おうとしていく。この姿もまた、今この物語を綴り直す意義に思えた。会えなかったはずの両親に自分の葛藤を打ち明け、分かってもらうこと。その疎通の先にもまた甘え直すことはできるのではないか、と本作は問う。世界中で普遍的に捉えられ得る“甘え方”の1つの提示になり得る作品だ。
孤独を抱擁する
本作では同じマンションの下の階に住む隣人も重要な役割を果たす。ある夜、孤独に耐えかねて主人公のもとを訪れるが、その日は訪問を拒まれてしまう。しかし両親と交流を果たし心がほぐれた主人公は後にその隣人を部屋に招き入れ、そして心を通わせて恋愛関係となる。そして終盤でこの隣人も幽霊だと明かされる、という展開がある。
日本版では最後に隣人・ケイ(名取裕子)があの世へと消えてゆくのを見送った一方、本作では隣人ハリー(ポール・メスカル)を抱きしめて側にいることを選択する。幽霊との情愛と決別することで現実を生きることを選ぶ日本版とは異なり、幽霊という非現実的な存在とともにあるシーンによって幻想に溺れる結末のようにも見えてしまった。
しかし、この『異人たちとの夏』の論考を読むと新たな解釈が芽生えた。先の論考ではケイが主人公の無意識として扱われ、退行によって表出した願望のメタファーと言える。『異人たち』でもハリーの存在がアダムが抑えていたセックスへの欲動を駆り立て、享楽的な生活を選ぼうとした点からもこの解釈を適応することは可能だろう。
無意識の願望と折り合いをつけて精神的な自立を行う日本版では、結末に主人公が息子へと優しさを継承するような仕草が描かれる。一方、無意識の願望を抱き締めながら、ままならさを抱えながら生きることを選ぶ英国版ではそのような血縁の継承は描かれず、ただ主人公がハリーに身を委ねて満たされた時を過ごしている様子で終わる。
日本版では主人公の元妻を愛し、それを理由に主人公の仕事を取り上げる間宮という男によって主人公の男性性が蹂躙されたことで幽霊との交流=無意識の解放が始まる。しかし『異人たち』で幽霊と交流するのにきっかけはない。常に付きまとう苦しみが無意識に押し込めた孤独と出会わせるのだ。監督のパーソナルを反映したこの改変は男性性に限らない普遍性を本作に与えている。
そして孤独との在り方の提示だけがこの改変の意味ではない。アダムはハリーを通して人を愛することを初めて知る。それはアダムが誰かに甘えるだけでなく、誰かを甘えさせる存在になり得ることを示唆する。幻想に溺れるだけでなく、現実を生きるための愛への導きと言えるのだ。2人だけの関係性に完結しない、開かれた世界を示すためにラストシーンで2人は眩い光を放つのだ。
『異人たち』、そして『異人たちとの夏』は、大人がもう1度甘えることを赦す映画であり、その先でどう現実を生きるかというテーマが根幹にある。2作品を比較すると“甘え”の在り方や、孤独とどう向き合う時代や国による価値観の相違が浮かび上がる。そして同時に何ら変わらない人と人とが向き合うことの豊かさも滲む。誰もが実は世界にとっての異人という前提に立ちながら誰もが甘えられる世界を願うのは甘すぎるのだろうか。
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