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2023.12.9 生命のテンセグリティ: 大いなるエネルギーを宿す凪。


1. 世界をどのように“しっている”か。

Rachelleにクリスタルヒーリングを教わりに渡豪し、初めて彼女のヒーリングを受けていた際、僕の背後に莫大なfeminine(女性性)エネルギーがあると言われた。これは、実は僕も同じものを感覚していた(厳密に言うと、背後であり内側である)。

Rachelleはそのエネルギーを以って、僕の背景にはQuan Yin(観音菩薩)が付いてくださっていると言っていた。そして、自分にも大きなfeminineエネルギーがあり、私はMother Mary(聖母マリア)が共にあると言っていた。

僕はこのとき、観音菩薩様や聖母マリア様のような偶像は何も視えなかった。しかし、自分の背景に、大いなるfeminine(女性性・陰性)を感覚はしていた。(“見る”ではなく“視る”としているのは、画像や映像としてクリアに視認できるわけでは無く、ただ身体感覚全身でその映像を経験しているという現象を表現したいがためである。)

しかし、翌日に異なるクリスタルヒーリングを受けている最中、半睡眠状態にあるとき(幽体・霊体に感覚意識を統合しているとき(だと思う))に、今度は前日よりもクリアに観音菩薩を視た(感じた)。

これは、前日にRachelleから聖母マリアや観音菩薩という名称・概念を獲得したからではないか。つまり、身体で知っていた現象に、名称と概念が追いついた・リンクした。これによって、他者への言語的説明や、現象の再現可能性がアップする。加えるなら、Rachelleの持つ身体経験もまた獲得できたと思う。これを“転移”、“譲渡”、“継承”などと呼ぶと考えると、納得する。

つまり、世の中の現象には(これは自然も科学もスピリチュアルも)、

  1. 知らない。

  2. 知識で知っている。→ 情報として頭にあるだけ(私的な基準で偽物)。

  3. 身体が知っている。→ スキルは本物だが、他者への説明はできない。

  4. 身体と知識で知っている。→ 本物。現象の再現と他者への説明が可能。

という段階を設定できる。

ここで仮説だが、こうした名称や概念というのは、身体性と合わせて文化圏によって規定され得る。しかし、生まれながらの生物学的身体の影響が大きな“身体性”に比べ、後天的に獲得・構築される“概念”(つまり頭での理解)は、より大きく社会文化システムによって育まれる。

つまり、“feminine”のエネルギーに対して、僕という東洋の風土に育まれた身体と知性には観音菩薩様が、ドイツ・イギリス系のRachelleの文化圏と土壌では聖母マリアがそれぞれリンクする。そう考えると、同じエネルギーに対して異なる世界を観るのに納得できる。また、東洋において高次元的なエネルギーに対しての神仏偶像は仏教的な神々が、西洋においてはキリスト教における神々の情報が、それぞれの生育環境において接する頻度が高いため、知識としても観音菩薩と聖母マリアという概念・名称が教育的に獲得される。

つまり、同じエネルギー対象を感性でインプットし、論理でアウトプットするとき、そのアウトプットのされ方により大きな違いが出るのである。(インプットにおいても、身体性の違いはあるはずである。)これが世界中で様々なスピリチュアルの体系や神話が存在する理由では無いだろうか。

2. 女性性と男性性の本質

僕の場合は、エーテル体、アストラル体、メンタル体の3レイヤーに渡る層位にfeminineを持っている。その3レイヤー分のfeminineを成立させる裏側のmasculineが、物理的身体(三次元世界・物理世界)に発現している。したがって、相反的であり相互的なfeminineとmasculineの間で、同じエネルギー量のバランスを取るために、僕の三次元における雄性は強いと思う。

ここで言う女性性・男性性、雄性・雌性(feminine, masculine)というのは、体毛が濃いとか、言葉遣いが荒いとか、トランスジェンダーとか、オネェとか、そういう話では全くない。

女性性(feminine)の本質とは、「慈悲・慈愛、無償の愛、大いなる癒し」を司るエネルギーである。東洋ではこれを陰性と呼ぶ。つまり、「解放、リラックス、抱擁、優しさ」、そういう具体概念と、それらを感じさせる身体エネルギーである(バイオフォトンもそっち側に揺れてんじゃないかな)。

それを内側、すなわち背景に宿しながら、3次元の物理世界で太極を結ぶために同量の逆のエネルギー、すなわち男性性(masculine, 陽性)を発露しているのである。これは、「具現、達成、凝縮、活力」といった、言わば物事を構築していく、前に押し進めていくエネルギーである。

したがって、見た目や性格が男っぽい・女っぽいというよりも、その生命の存在に対して、上記のような「解放・癒しの存在性」、「凝集・活性の存在性」そのものを感覚するのである。もっと言えば、こうした概念がそのまま服を着て目の前にいると思えば良い。

3. 生命のテンセグリティ

上記の内容は、目で見て、頭で理解しようとすると支離滅裂だろう。でも、全身で視て、心で理解しようとすると、不思議と腑に落ちるのである。これを取り持つのが感性であり、前者の理性的な知性を補完する能力である。

feminineとmasculine、これら2つの相対する相互補完的エネルギーを背景に宿しながら静寂に至るとき、その個人の状態はすなわち中庸であって、つまり凪のような穏やかさに嵐のような強さを宿すバランスをもってこの世界に存在している状態となる。これが生命のテンセグリティ。

しかも、宿しているエネルギーが大きければ大きいほど、つまり現実世界には無極を発現しながら、その背景世界では大いなる大極が為されているとき、「一見すると普通の人なのに身体感覚では只者ではない空気を纏う人」の存在が構築されているのである。それは個人の存在の密度(バイオフォトン密度かな?)が時空に影響を与えるほどの圧を発するのである。

そして、それら2種類のエネルギーを蓄えながら真っ直ぐに在り、すなわち己が生に迷いがなく、必要に応じて必要な属性のエネルギーを必要量取り出せるならば、人の生はとても愉快なものとなる。

これが今の自分の身体観。


追記

このノートを書き終わったとき、大学院時代に読んだ論文を思い出した。
『2つの言語、2つの心』というタイトルの論文。
Athanasopoulos, P., Bylund, E., Montero-Melis, G., Damjanovic, L., Schartner, A., Kibbe, A., ... & Thierry, G. (2015). Two languages, two minds: Flexible cognitive processing driven by language of operation. Psychological science, 26(4), 518-526.
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0956797614567509?journalCode=pssa


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