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毒親による支配の末路——映画「どうすればよかったか?」感想つらつら

兼ねてより勉強、またはこのnoteのために観に行きたかった「どうすればよかったか?」。新聞などに掲載され話題になっていたのか、わたしが行った回ではミニシアターの7割ほどの席が埋まる盛況ぶりだった。

観終わって


本作はドキュメンタリーであるが、それを加味しても異常なほど淡々と進行していく。題材が題材であれば素朴で温かい演出とも言われるかもしれないそれは、本作においては不穏さや不安を生々しく醸し、隠すことをしない。
冒頭で「この映画は統合失調症という病気を周知ことを目的としていない」という旨のテロップが出るのだが、淡々と進行するさまがかえってリアリティを高め、統合失調症という病気の緊急性を訴えかけているようだ。

そして間違いなくこの父親と母親は「毒親」である。
作中でどこと指すのが難しいほど、家庭内で父母のパワーが強く、監督である「ともちゃん」の意見が取り入れられることはない。(成人しても、いつまでも子供の扱いのままだ)
それでも論理的で事実ベースに判断する人物ならまだいいが、「問題解決能力がない」と責められてお互い(父は母、母は父)のせいにするような感情的な人物だから、どうしようもない。
また、父親は意外に信心深いところがあり、お正月は神棚に向かって家族全員が柏手を打つのが習わしだったよう。
聞き取りが難しく正確な内容がわからなかったが、気功か何かで難しい病態が治ったというのを目の当たりにしているらしく、一定のスピリチュアル傾向もみられる。スピリチュアルというのは医学的に正確でないばかりか、エセ医学として害を及ぼすことも多く、そのあたりにも知らないものへの理解力の乏しさというものが見受けられる。

本作では統合失調症の激しい症状というものはさほど登場しない。
それよりも家族間の醜い押し付け合い、価値観の押し付け、病気を見てみぬふりして幸せな家族でいようとする異質・歪さが本当の主人公だ。
最後のシーンにおいて「どうすればよかったか?」と問われて「間違ってたとは思わない」と答える父親を見て、「こうすれば解決できたのに」と即答することは難しいだろう。

「どうすればよかったか?」わたしの答え

しかし本作においても、理想的がすぎるかもしれないが、一応の答えはあると考える。それを以下に記していく。

・一般人でも付けられる最低限の医学的な知識を付けること。


医学的な知識を付けるというのは、反医学的な情報や習慣を相対化することに繋がる。現状ではそういったことを社会も学校も教えてはくれないので、自分で勉強し身に付ける必要がある。楽な道ではないが、そのリスクマネジメントが自分の生活や将来、大切な人の健全な精神や暮らしを守ることに繋がる。
「今回のケース」では、まず姉ちゃんが「自分は癌ではないか」と過剰に心配しはじめた10代の頃に、前駆症状を疑うこともできたと思う。
そういった知識のために、
例えば:Dr林のこころと脳の相談室を読む。インターネット初期からのQ&Aの蓄積に加え、ケーススタディのように学習できるので非常におすすめ。
(また、現代では林先生のように使命感だけを抱き、その他の名声や承認欲求を捨てた方は多いとは言えない。その意味でもおすすめだ)
もう少し先へ行きたいならPubMedGoogle Scholarのような論文を検索するサイトを使って学習するのも良い。ただ、論文に書かれていることはその時点で発見できたことでしかないことに留意する必要はある。後に否定されるというのもよくあることのようだ。
ChatGPTを使って一般的な見解を得てみるのもいいかもしれない。あくまで一般的であって専門的な知識までは…とか個別のケースには対応できないなどはあり、正確性に欠けるところがあるかもしれないが、このなかでは一番手軽なやり方だ。ただ、質問の仕方によっては本当に当たり障りのない意見しか返ってこないこともあるので注意したい。
逆にYoutubeなどのSNSで済ませるのはおすすめしない。誤情報に触れる・エコーチェンバーに巻き込まれる・わかった気になるなどのリスクがあるからだ。

・精神疾患というものの存在を認め、実態について勉強すること。

前述のホームページで学習したなら、精神疾患のリアリティというものを感じたはずだ。
だからまず精神疾患は実在する、誰でも発症しうる、フィクションで扱われているものはその一部でしかないということを知らねばならない。最近ではよくSNSで「発達障害なんて昔はなかった」などと主張する人をちらほら見るが、日本で本格的に取り上げられ始めたのはここ10年くらいの話だし、その手で先を行くアメリカも70~80年代ごろから療育のようなものがあったけれど、そこでも「情緒障害児」というような名づけであったわけだから(出典:トリイ・ヘイデンのノンフィクションシリーズ)名前がなかったのは当然のことで、名前がないということと症状がないということは同一でない

ともかく、脳という臓器に炎症または何らかの不具合が生じることによって起こる疾病だ肌感覚で理解することが重要だ。勉強の押し付けのように聞こえるかもしれないが、知識が不安や恐怖を和らげてくれることもある自分を守る盾になってくれるのだ。
次の項に書く電車にいる人についての理解など、まさにそういった例だと思う。
知ることにまず大きなメリットがある、と認識してほしい。

・心の根底にある偏見や差別意識に気付くこと

「誰にでも心の底に差別の意識が存在する」
これはファッションデザイナーのジョン・ガリアーノが泥酔し失態を犯した経験からの言葉だが、まさにその通りであると思う。
ネットを見てると目に入ってくる移民反対派なんかは言うまでもないが、
テレビの「言い回し」に影響されて中国をやや下に見る姿勢であるとか、
多様性についてやや窮屈な向きを感じる姿勢であるとか、そういったものはすべて差別か、差別のタネだと思う。(ここで申し上げたいのはその思想が差別及びそのタネということであり、たとえば移民に賛成しろというような意見の翻意を促すものではない)
そして次の項「障壁と問題」でも触れるが、精神疾患や障碍に対しても、残念ながら差別の意識が存在する。
それは座敷牢~私宅監置の歴史があったことから明白だ。
だから、認めがたい事実ではあるけれど、差別意識について考えてみるのも重要だと思う。
そして、大切なのは自分に差別意識があるか・ないかを問う――なければよく・あれば悪いということではなく、大小はあれど誰にでも差別意識はあるものだと認めることじゃないだろうか。
それが本来の自分を認め・受け入れ、進歩するためのステップなのだと思う。これは障碍理解といった限定的なものだけでなく、後々、自分にとって様々なことに役に立つ行動だと思う。たとえば、より豊かに生きるために必要なことであったりするかもしれない。
そうして人として成長することで、目を背けたい出来事と向き合えるのではないだろうか。

また、前の項で少し触れたが、電車で独り言を言う・騒ぐなどした人物をネットでおもしろがる文化もたまに見るが、あれも知識があればさして気にも留めるべくもない普通の光景である。単純に症状や障碍があって、外的刺激が辛いなどの理由からそういった行動に出ているだけなのだから。
そのようなことすべてが足りていないので「わたしの答え」を実現するのが難しいのだと、個人的には考える。

障壁と問題

難しい問題とさせている要因は様々だ。
たとえば日本社会は障碍者を障碍者として扱いすぎている。旧優生保護法が存在したことや、最近高裁で覆ったものの、聴覚障害児が2018年に重機に引かれてしまった事件で逸失利益を健常児の「85%」としていたことなどを見るに、ほぼ差別的だと言っても差し支えがないと思う。
自閉症スペクトラムを抱えた人物が登場した某ドラマでも、その人物は障碍者らしい障碍者として描かれていた。そしてチャリティーを冠した24時間テレビではその障碍者らしい障碍者が頑張る姿を映す。
どちらも徹底的「自分たちには関係のないこと」として処理される要素を持った番組構成である。
この意識が植え付けられてしまうと、例えば「ウチの家系からは出たことない」「ウチの子が障碍者なはずがない」などといった「ヨソとウチ」の意識を持ってしまうのも無理からぬことだ。
そうしたテレビのテレビらしさ・健常者が無理解でいられることによるしわ寄せ・社会の同調圧力などはこの手のことに対して大きな問題となっていると考える。

「統合失調症のふり」という考え方

パンフレットには、姉は統合失調症のふりをしているのだと母から伝えられたと書いてあった。
これはDr林のホームページでもしばしば見る例で、その例から考えると、認めたくないという気持ちからこのように発言するのだと推測できるが、
明確に否定するためにこれについても個人的な答えを出しておくと、
「ドレスを知らない者にドレスは作れない」というようなことだと思う。
精神疾患の中でも謎が多い(発症・遺伝性など)疾患であるので、冷静に考えれば、真似するためには相当な座学の知識と臨床が必要なはずだ。
ドレスを知らない者にドレスは作れない。よって、「統合失調症のふり」というのは破綻した理論である。
くり返す必要はないかもしれないが、稀ではないうつ病のような疾患においても、自身がなってみなければその完全な構成要素を知らないわけなので、うつ病のふりというのも基本的には不可能だと考える。

今回のケースは

「うちのケースは失敗だ」とともちゃんは言う。
確かに父母はとんでもない大失敗を犯したが、誰にも知られていない希望も存在した。
それは、25年放置された統合失調症でありながら、3ヶ月の入院、つまり急性期棟だけで自宅へ帰ることができ、意思疎通が取れるようになっていたこと。(統合失調症は放置した年月に比例して人格の荒廃が進む。劇中で意思疎通が取れていないシーンはそういった症状の現れだろう)
その後の騒動(とある妄想から警察を呼ぶ事態になった)は家族や視聴者にとってはストレスだったかもしれないが、あの程度なら想定の範囲内といっていいと思う。
その時は自己判断で服薬を中断していたかもしれないし、服薬していなければ当然起こりうる事態だ。
そうでないにしても、25年放置の後に引いた尾としては軽いものだろう。

まとめ

長々と書いてみたが、何より、このように人生をかけて家庭のことを公開してくれた監督に感謝したい。
家庭内はブラックボックスになりやすく、誰も人の家庭を覗けない。
ゆえにわからないことがたくさんあるから、映像作品にする価値は計り知れない。またこの映画を見れば、家庭環境の大切さ、毒親というものがどういうものかということについても理解が及ぶだろう。
早期発見・早期治療が大事なのはどこの箇所の病気でも同じ。
親が治療させないのは、それはもう虐待なのだ。


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