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夏休みの終わり。と、あの頃の憂鬱な日々

photo by   - 紫苑 -



ちょうど今頃の季節。

中学・高校生のあの頃。
夏休みのおわり。の時期になるといつも、
「学校行きたくないな……」と、ずっと思っていた。

多分、みんな思ってたと思う。

学校での次の学期のことを考えると、その不安から、酷く憂鬱な気持ちに苛まれていた記憶がある。

学校という、小さくて狭くて、閉塞感で息苦しくなってしまうような場所に戻りたいとは、どうしても思えなかったのだ。

中学一年の頃は、人生ではじめて受けた いじめや、部活での派閥争いに巻き込まれて、最初から学校生活というものに対して嫌気が差していた。

二年生の頃はクラスに友達がいてくれたので、割りと何事もなく安定していたけど、それでも、背伸びをして" ませた "クラスの雰囲気に馴染めなかったというか、自分がなんだか場違いな場所にいるような気がずっとしていた。

中学三年の頃といえば、学校や集団生活というものに拒否反応が出ていて、その都度仮病を使って親に無断で早退を繰り返していたし、クラスにいることがどうしてもつらくなってしまったときには、自分の判断で保健室に逃げ込んだりもしていた。

気の弱かった自分は、周囲の陽キャの男女たちにそれとなく冷やかされていたことと、クラスに友達がいなかった(できなかった)事から、酷く塞ぎ込んで憂鬱な学校生活を送っていたと思う。

高校も高校で、一年生の頃も二年生の頃も続けて、クラスでは常にひとりぼっちで孤独な学校生活を過ごしていた。

幸い、ほかのクラスの友人たちの存在があったことで不登校にはならなかったが、それでも、誰とも会話をすることもなく、まるで透明人間のように淡々と過ごした日々を思い返すと、そのつらい記憶からか、未だに胸がぎゅっと苦しくなることがある。

高校三年の頃(だいぶ後半)は、ようやくクラスメートの友人たちが出来た(馴染めた)ことで、学校行事も修学旅行なども、それなりに良い思い出を残せたけれど、それでも、" 学校に行きたくない病 "という不安感が自分の中から消えることは一切なかった。

自分の場合は、中学・高校と、クラスに友達がおらずひとりぼっちで学校生活を送っていたことが大半ではあったが、お昼休みや放課後に、クラス外の友人たちと一緒に過ごしていた楽しい時間があったことで、なんとか不登校には至らず、かろうじて学校に通い続けることが出来ていたのだと思う。

高校の頃で言えば、自分の意思とは裏腹に、友人に誘われて部活に入ったことも、いま思えば良い経験だったと思う。
クラスとは別の居場所・人間関係の構築というか、自分が心から打ち込める活動があったというか。
そういう別の居場所があったおかげで、ひとりぼっちで孤独な自分でも、なんとか学校生活をやり過ごすことが出来ていたのかも知れない。

結果的に言えば、自分は学校生活というものを乗り越えたのかも知れない。

しかし、自分の意思で何か行動を起こして乗り越えた。ということではなく、当時の自分は流されるがまま、孤独な気持ちや不安を抱えたまま、文字通り、心を押し殺して、あの頃のつらい日々を淡々と生きていたように思います。


自分は幼少期の頃から両親から抑圧されて育ったせいか、人や周囲の目や、世間体をとても気にしながら生きてきたから……とても生きづらかった。

直面している問題や、抱えている悩みや不安な気持ちがあっても、その悩みを周囲の誰にも打ち明けられないまま、学生時代を過ごしていました。

「学校に馴染めない自分がおかしいのだ」とずっと思っていたし、場違い感もずっと拭えなかった。

そして、両親に責められたり、頭ごなしに否定をされながら育ったせいか、" 自責思考 "がとても強い子供だったと思う。
それによって、" 自己を肯定的に捉えること "についても、まったくと言って良いほど出来てはいなかった。

いじめられては、「自分が我慢すればいいんだ」と思い
親にも先生にも「決して迷惑をかけてはいけない」とも思っていた。
周囲から冷やかしを受けては、「自分が悪いんだ……」と、そのフラストレーションが自身の内面に向かってしまって、その都度自分の存在を否定しては、心のなかで、見えない自傷を繰り返して、自身に対しても世の中に対してさえも、嫌悪感を抱いてしまっていたのだと思います。

あの頃の自分には、もう、すべてがどうでもよかった……


自分が何故、あの頃の日々を淡々と過ごすことが出来ていたのか?

それは、つまるところ、最初から誰にも期待をしていなければ、周囲に対して救いも求めてはいなかったから。なのだと思う。
そして、自分が大切にされるべき人間だとも、幸せになりたい。とさえも思えなかった

あまりにも、世の中や世間、両親や先生やクラスメートなどの周囲の人間たちに対して、誰にも信用や信頼を置いていなかった。。

その当時。

心から信じられる人間という存在が、自分のまわりに誰もいなかったのだと思います。


自責思考がかなり強かったこともあって、いじめられたり、からかわれたり、批判をされたり否定をされたり、ひとりぼっちで孤独であっても、「自分なんか居ないほうがいい」と、自分自身でさえ、己の存在を否定してしまっているような……異常な精神状態だったと思う。

周囲から孤立したり、まわりから奇異な目で見られ、距離を置かれてしまっても「仕方がない」「こんな自分は生きる価値がない……」とずっと思いながら、生きてきてしまった。
その思考や精神状態が、" おかしい "ことだとも気付かずに……。


変な話し、自分は人に嫌われたり、距離を置かれたりすると、逆に安心する。

あの当時の後遺症なのかも知れないけど、自分の価値や周囲からの評価が、" マイナスから下がることはもうない。"という妙な安堵感からか。
未だにそう思ってしまうことがあります。

心を病んでひきこもり続け、家族や親戚たち、周囲の人間から蔑まれた視線を送られて
自分の存在をまわりから否定されていたときにも、それと同じことを思っていた……。

自分でもだいぶ拗らせているという自覚はあるけど、この歪みを今さら矯正をするには、あまりにも遅すぎたのだろうし、それを矯正するということは、自分がこれまで必死に生きてきた道のり(人生観)を否定することにもなってしまうような気がする。

幼少期から学生時代の土台はもう築かれてしまっていて、いまさらその土台を取り替えようとすることは、自分の人格をも否定することに繋がってしまうことが分かるから

誰かしら周囲の人間に、例えば「(お前は) 歪んでいる」とか「(その考え方は、) おかしい」と否定されてしまっても、積み重ねて自分の血肉として深く染み付いてしまったものは、今さら変えたり交換することは出来ない。

僕らは心の通った人間であって、部品の取り替えの利く機械では、決してないから。

いま僕ができることは、歪んだ認知や思考を、少しだけ自分が納得できるほうへと軌道修正をしてあげることと、これまで生きてきた自分の経験や知識を、決して無駄にしないように、あるがままの自分自身を、恥じることなく生きることなんだと思います。


学生時代を乗り越えても、自分の戦いはまだ終わってはいない。
あの頃の自分がまだ心のなかにいて、未だに人知れず救いを求めて、泣いたり喚いたり、塞ぎ込んだりしているのが分かる。

でも。

いまの自分であれば、あの頃の自分自身を否定せずに受け入れられるような気がする。
ようやく 手を差し伸べられる気がする。

こうして気持ちを書き綴り、当時のつらい記憶や蓋をしてきてしまった想いに、あらためて向き合うことで、過去のいたたまれなかった自分自身を、愛すことが出来るような気がしています。

大人になり、ブラックな職場を転々とし、そして心を病んでひきこもりを経験し、それさえも克服をして社会復帰をすることができた自分だからこそ、見えるものがある。分かることがある。


あの頃の自分は、酷く自分を責めていた。
そして、自分自身の存在を深く恥じていた。

自分も確かに、弱気で、引っ込み思案で、根暗で。自責と他責と自虐を、心のなかでずっと繰り返しながら生きてきてしまった……。

けれども、当時のことを俯瞰して振り返ってみても、あの頃自分が置かれていた環境や周囲の人間たちは、実は自分が思うそれ以上に、みんな何かしら すべて歪んでいたのだろう。と思うことがある。

まわりの意見や評価が正しい。とずっと盲目的に思っていたし、その判断を周囲に委ねていた当時の自分には、決して気付けなかったことが。
あれから様々な人生経験を積んできた自分だからこそ、振り返ってみて思うことがある。

あの頃の自分に
「きみは間違ってなんかいない」
「そのままで。胸を張って生きればいい」と
優しい気持ちで諭すことができるくらいには、自分も、人間的に成長をすることができたのだと、あらためて思います。


自分の存在を消してしまいたいくらいに つらかった日々は、決して無駄ではないのだと思う。
勿論、そんな経験はしないに越したことはないけれども。

それでも今では、深みのある人生観を持つことが出来、思慮深さを得る事ができたことについては、つらい経験をしてきた事に対して感謝をしている。

何より、自分自身が痛みや悲しみや生きづらさを経験してきたことで、人が抱えている不安やつらい気持ち、そして悲しみに、心から共感をすることが出来るようになれたことが、自分のなかでは" 大きな変化 "なのだと思うから……

あれだけ人や、集団や、社会や世の中に対して、憎しみや怨みや妬みなどの激しい憎悪を抱きながら、人間社会をひたすら嫌悪していた自分自身が 大きく" 変われた "ことが。


今は訳あって一線から離れてしまったけれど、自分がしてきたつらい経験を、優しさや思い遣りに変えて。人に寄り添い、人を支える誇りある仕事に従事できたことについても、自分はもっと誇りを持つべきだったのだと、いまは思います。

これまでのつらい経験や悲しみや痛みがなければ、誰かのために奔走することは、決してできなかったのかも知れないから。


当時はつらい日々を送っていて何も見えなかったことが、あれから随分年月を経て、あらためて" 答え "が見つかることもあるのだと感じる。

どんなにつらい経験も、散々迷ったあの頃の日々も、決して無駄ではない。

僕は、そう信じたい。

過去の自分自身と、現在の自分を通して、その過程から。あらためて見えてくるものがあるのだと思う。

それが今は、" 人生経験 "として 分かるから。




あの頃の振り返りを、あらためて。
手記としてここに残す事にします。


- 紫苑 -










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