センテンスサワー

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松本信者論 第一章 松本人志について

これは独白である。そして、私が信仰していた笑いの神に対する冒涜でもある。 二〇一九年四月に平成が終わり、令和の時代がはじまった。三十年という短い期間であったが、平成はお笑い史の中でも非常に重要な時代として位置づけられるだろう。特に九〇年代以降のお笑いは、それ以前のお笑いと比して、明らかに笑いの質が異なっているように思う。詳細は後述するが、九〇年代以降の笑いは、独創的な発想自体が評価の対象として求められるようになり、創造性や固有性が求められるようになったのである。 その契機

    • 差別と笑いの境界線⑤ 差別と笑いの境界面

      差別的表現の境界線を探る旅も終盤に差し掛かり、そろそろ結論に向かって議論を進めていきたいと思います。 憶測に過ぎませんが、これまでの議論の中で導き出した結論は、差別的な表現の境界線は、集団的志向性の中に存在し、社会的現実を共有している人の数だけ存在するということです。つまり、差別的な表現の境界線は複数存在するということです。 集団的志向性は常に変化しており、個人個人に備わっている情動概念自体も、今この瞬間に更新され続けています。集団の中で共有されている社会的現実は、境界線

      • 差別と笑いの境界線④ 構成主義的情動理論について

        以上のことから分かるように、差別においても、表現の自由においても、法的な問題は解決されておりません。双方の定義がはっきりしていないため、客観的な基準を設けることは難しいように思います。一昔前であれば許されていた表現も、時代の変化に合わせて規制される場合があり、また社会が多様化するにつれ判断基準がより複雑となっているように思われます。単刀直入に言うと、客観的な指標を設けるのは不可能だと言えます。 仮に、客観的な境界線を設けたとしましょう。客観的な指標を設けるということは、科学

        • 差別と笑いの境界線③ 表現の自由について

          表現の自由とは、思想、信条、意見、感情等を自由に表現するための権利です。基本的人権のひとつとして憲法で保証されており、とても重要な権利だとされております。その理由として、表現の自由は、民主主義を支える重要な人権であると考えられているからです。民主主義とは、「国民一人一人が主権者であり、自由に討論し、自由に意見を表明することで、公平に民衆の意見を取り入れる政治のあり方」のことです。 表現の自由が規制された場合、民主主義が機能しない社会となってしまう可能性があります。歴史的に、

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        松本信者論 第一章 松本人志について

          差別と笑いの境界線② 差別について

          前提として、差別をすることは許されないことです。それは当たり前のことですが、私たちは無意識のうちに差別意識や偏見などの固定観念にとらわれている可能性があり、気がつかないうちに誰かを傷つけていることがあります。明らかに差別用語だと判断できるものもあれば、明確に定められていない不適切な表現も存在します。対面コミュニケーションであれば、お互いの表情を読み取りながらコミュニケーションすることができますが、SNSの普及により、不特定多数の人々と気軽にコミュニケーションを取ることが可能と

          差別と笑いの境界線② 差別について

          差別と笑いの境界線① はじめに

          誰も傷つけない笑いは存在するのでしょうか。少なからず笑いには暴力的な側面があり、そのつもりがない場合でさえ、誰かを傷つけてしまう可能性があります。お笑い芸人の間では、「たとえ誰かを傷つけたとしても、愛さえあれば許される」という言説が存在します。誹謗中傷や攻撃的な嘲りとしての笑いだけではなく、身体的に攻撃する笑いも含まれます。それはとても無責任で、身勝手な考え方でしょう。 それに対して、「そもそも笑いは暴力的なものであり、表現者の意図に関係なく、誰かを傷つける可能性がある。そ

          差別と笑いの境界線① はじめに

          新お笑い論⑩ お笑い第七世代による新しい価値観の笑いについて

           「新お笑い論」は今回で最終回である。「お笑い第五世代」を中心に論を進めてきたが、現在大活躍している「お笑い第七世代」について書きたいと思う。お笑い第七世代というのは、2010年以降にデビューした若手お笑い芸人を対象とした世代の総称である。霜降り明星のせいやがANNで「お笑い第七世代」という言葉を提唱し、それがネットニュースで話題となり、各メディアや番組などで特集されることになった。  ひとつ注意しておきたい点は、お笑い第七世代の笑いは、お笑いブームとはなっていない点である。

          新お笑い論⑩ お笑い第七世代による新しい価値観の笑いについて

          新お笑い論⑨ 笑いの消費の仕方について

           何回かに分けて、お笑い第五世代について僕なりの解釈を交えつつ話を進めてきた。今回でお笑い第五世代のシリーズは最後となる。テーマは笑いの消費の仕方についてである。「笑いの消費の仕方」というと聞きなれない言葉であるが、単純にそれは「笑う」「ウケる」という行為と同じ意味合いであり、あえて笑いの消費という馴染みのない言葉を使っている。  というのも、お笑い第五世代が「大量供給と大量消費」という言葉で説明されているように、お笑いブーム自体が経済学用語で分析される対象となり、お笑いの客

          新お笑い論⑨ 笑いの消費の仕方について

          新お笑い論⑧ シミュラークルにおける笑いの消費、そして松本の功罪

           前回のブログでは、漫才ブーム以後の虚構をベースとしたお笑いの構造について考えてみた。現段階では単なる仮設にすぎない。しかし、「ネタ番組ブーム」や「お笑い第五世代以降の笑い」に対して新しい示唆を与えられたと思っている。  そこで注目したいのは、「二次創作」と「シミュラークル」という概念である。二次創作については、前回少しだけ触れているが、かいつまんで説明すると、原作などの既存の作品を元にキャラクターやストーリーの設定を利用した独自の派生作品のことである。ポストモダン以降、アニ

          新お笑い論⑧ シミュラークルにおける笑いの消費、そして松本の功罪

          新お笑い論⑦ フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ

           さて、前回のブログでは、東浩紀の『動物化するポストモダン』を取り上げて、その概要をまとめてみた。お笑いの消費者がどのように変質したのか。お笑い第五世代の消費者を説明する上で、欠かせない内容だと思っている。それを前提として、話を進めていきたいと思うので、前回のブログを読んでいない方は一読後に以下を読み進めて欲しい。 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ  高田文夫は、著書「笑芸論」の中で、山本章二宗匠の以下の発言を引用し、当時の漫才ブームを分析している

          新お笑い論⑦ フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ

          新お笑い論⑥ 動物化するポストモダンの笑いについて

           前回のブログでは、お笑い第五世代のネタ自体に注目し、分析を試みてみた。だが、お笑い第五世代を説明するためには、まだまだその本質を捉えていないように思うのである。あくまでこれまでの解説については、足がかりにすぎない。さらにその本質に迫りたいと思っている。そのためには、別の観点から見直す必要があるだろう。  そこで着目したのが、消費者についてである。消費者とは、観客であり、視聴者であり、お笑いを消費する人々のことである。とくに、2000年代以降に現れた消費者は、その「消費の仕方

          新お笑い論⑥ 動物化するポストモダンの笑いについて

          新お笑い論⑤ ネタのイージー革命について

           「ネタ見せ番組ブーム」についてひと通り説明したところで、別の観点から、お笑い第五世代について考えていきたい。それは、プラットフォーム自体が変化したことで、それに併せて、ネタ自体が独自の進化を遂げているからである。どういうことかというと、芸人の笑いのスタイルは洗練されていき、ネタ(芸)の精度が高まった。それはつまり、芸を的確に伝える技術と、確実に笑いを取るための方法論が確立されたということである。その点について順を追って説明していきたいと思う。 ネタのイージー革命  その

          新お笑い論⑤ ネタのイージー革命について

          新お笑い論④ 大量供給・大量消費。そしてネタ見せ番組について

           前回、お笑いブームの起源について書いた。今回は、2000年代の前半から後半にかけてのお笑いブームである、お笑い第五世代のネタ見せ番組ブームについて解説しようと思う。 大量供給・大量消費  お笑い第五世代を一言で言うならば、代替可能な芸人を大量に消費していた時代といえるだろう。多様化されたネタ見せ番組の出現により、これまで日の目を見ることがなかった芸人にまで活躍の場が与えられることになった。つまり、芸人が大量供給・大量消費されるシステムが開発されたということである。そのた

          新お笑い論④ 大量供給・大量消費。そしてネタ見せ番組について

          新お笑い論③ お笑いブームとお笑いメディア史

           お笑いブームは一定の周期で訪れる。程度の差こそあれ、10年前後のサイクルで繰り返されている。  私が小学生の頃に、お笑い第四世代を中心としたブームがあり、二〇〇〇年を過ぎた頃、お笑い第五世代を中心としたブームがゆるやかにはじまった。それ以前のお笑いブームについては、テレビの特集や特番でしか見たことがない。  一般的にお笑いブームと呼ばれるものには、お笑い第一世代の「演芸ブーム」、お笑い第二世代の「漫才ブーム」、そしてお笑い第五世代による「ネタ番組ブーム」などがある。お笑い

          新お笑い論③ お笑いブームとお笑いメディア史

          新お笑い論② お笑いの歴史について

           本論は「お笑い論」である。「笑い論」ではなく、「お笑い論」である。私たちは、普段何気なく「お笑い」という言葉を使っているかと思うが、「お笑い」と「笑い」という言葉は一見すると同じような言葉に思われるが、意義は微妙に異なっており、私たちは無意識のうちにそれらを使い分けている。  園芸評論家の相羽秋夫は、「お笑い」と「笑い」の違いについて、次のように定義している。まず、「お笑い」は、落語、浪曲、講談といった話芸から発生した伝統芸能と位置づけている。そして、新しいスタイルである、

          新お笑い論② お笑いの歴史について

          新お笑い論① お笑い感覚

           お笑いは、私たちの生活の一部になりつつある。コミュニケーションを円滑に進めるうえで笑いは欠かすことができず、それはもはやコミュニケーション自体が娯楽となっているようにすら思う。お笑い好きの人たちだけではなく、ただの素人ですら、お笑いのノリや、ボケツッコミという役割を演じて笑いを取れる技術を身につけられている。関西人であれば、お笑い文化や新喜劇などの笑いに触れる機会がたくさんあり、それ自体は当然のことだったと思われるが、現在では全国どこでも同じようにボケてツッコんで同じような

          新お笑い論① お笑い感覚