差別と笑いの境界線⑤ 差別と笑いの境界面
差別的表現の境界線を探る旅も終盤に差し掛かり、そろそろ結論に向かって議論を進めていきたいと思います。
憶測に過ぎませんが、これまでの議論の中で導き出した結論は、差別的な表現の境界線は、集団的志向性の中に存在し、社会的現実を共有している人の数だけ存在するということです。つまり、差別的な表現の境界線は複数存在するということです。
集団的志向性は常に変化しており、個人個人に備わっている情動概念自体も、今この瞬間に更新され続けています。集団の中で共有されている社会的現実は、境界線を判断するための目安に過ぎず、それを受容する人の解釈によって見方が変わってきます。その見方の違いというのは、個人個人が経験してきた概念との関係性の中で判断されることになるでしょう。そして、ある事柄に対してそれを差別的な表現と判断するか否かは、情動に関連した概念が最終的に判断することになります。つまり、差別的な表現に対する境界線は、構成主義的情動理論と同様に、境界線のインスタンスが一時的に構築されているに過ぎないのです。よって、差別的な表現に対する境界線は、主観的な判断によって設けられ、それは複数存在するということになります。
そもそも境界線とは何か?
そもそも境界線が複数存在するというのはどういうことなのか。そもそも境界線というのは、二つ以上の対立する意見が衝突することにより浮かび上がってくる「線」である。つまり、個人的な判断はそれだけでは「点」として存在しているに過ぎず、他者の異なる意見と遭遇することで、「線」となりうる。つまりその「線」は、双方の内的な判断の接触する部分に違いないが、そこには多かれ少なかれ埋められない溝が存在してしまうことで、内と外に分断する「境界線」となるのです。衝突。それはその領土を奪い合う排他的な行為でしかないのです。
しかし、それらは静止した瞬間を切り取ったものでしかありません。その瞬間を切り取りそこから判断するのではその本質は見えてこないでしょう。境界線は、常に動き続けています。それは集団的志向性の中に存在しており、常に更新し続けているからです。集団的志向性は絶え間なく移ろい、持続しております。あらゆる思考が衝突し、横断し、その影響を受けながら変状しているのです。そうすると、境界線として捉えることは限界があり、全体や本質を掴むことができないでしょう。私たちは、複数の境界線に配慮する必要があり、そしてそれらを同時に判断し続ける必要があるのです。つまり、複数の境界線を「線」として捉えるのではなく、それらを全体として捉える必要があるのではないでしょうか。なにが言いたいかというと、複数の「線」で捉えるのではなく、それ自体を総合的に判断し、「面」として捉える必要があるのではないかということです。
差別と笑いの境界面について
差別的な表現の境界線が複数存在するというのは、差別的な表現の「境界面」というものが存在するということです。その境界面では、あらゆる差別的な表現に対する見方がグラデーションを成して存在しているということです。グラデーションというのは、個々の色の集合体であり、連続的に変化していく様を意味しております。差別を定義することができないように、差別的な表現を明確に定義することは困難です。それは、客観的な指標をもとに判断することが難しく、多様な見方によって構成されているからです。
「境界面」を考えるうえで、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズによって考案された「内在平面」を参考したいと思います。「内在平面」とは、概念を持続させ続ける場と考えられており、諸概念を引き込み、概念を構成する土壌のようなものです。内在平面は、諸概念が行き交うカオス的な断面を作ることによって諸概念の創造を要請するとドゥルーズは説明しております。哲学者である宇野邦一は、内在平面について著書の中で次のように説明している。
そのような平面は、自然と人間を貫通するあらゆる差異の広がりとして、あらかじめ存在するともいえるし、たえず構成され、再構成される実在の平面であるともいえる。また、新たなエティカを通じて、新たに構築すべき平面であるともいえる。この平面(プラン)は、決して神の心の中にある計画や設計図のようなものではなく、たがいに触発し合う微粒子と力を横断する「切断面」や、「交面」のようなものだ、とドゥルーズは説明している。ひとつのアイデアや、作品や、関係や、集団を生み出すとき、私たちは、自然の中にも、人間の中にも、また自然と人間のあいだにもある、このような横断的平面を発見し、それを再編成し、そのうえにまた何かを作り出しているのである。
内在平面は、構成主義的情動理論と近い考え方だと思われます。それは「境界面」とも限りなく関係しております。それらは同様に、決まった指標のようなものは存在せず、そのつど構成され、インスタンスのようなものが生成され続けるのです。上記では、「エティカを通じて新たに構成されるべき」と説明されておりますが、それは唯一それ自体を方向づけているように思われます。「エティカ」とは、哲学者のスピノザの考案する倫理のことです。そこで意味する倫理とは、反道徳的であり、肯定的なものとされております。倫理において、道徳のように定められた一定の指標は存在せず、どのように生きていくべきかを考えることがその本質だと言えます。
表現につきまとう決断
今後、私たちが何かを表現する際、あらゆる社会的現実に対して配慮していかなければなりません。配慮するためには、差別という営みを知り、そして社会的現実の異なる集団に対して、理解を努めていく必要があるのです。そのためには、あらゆる他者の境界線を見極めて、境界面として認識する必要があります。私が面白いと判断した場合でも、それ自体が不快と判断される可能性があるなら、少なからずそれに配慮した表現をするべきなのです。それは相対主義的に物事を考えていく必要があるということです。私が正しい行いだと判断した場合でも、それに対して異なる意見があることも想定し、相手の立場を尊重した上で表現する必要があるのです。
しかし、境界面を捉えるにも限界があることも事実です。どれだけ相手のことを配慮したとしても言葉はいかようにも解釈することができ、受容の仕方は人によって異なります。それは本論で繰り返し述べてきたことでもあります。それはつまり表現をすることにリスクが生じることを意味しております。そしてそのリスクはあまりにも予測不可能であり、不確実性を考慮する必要があります。そうすると、なにを根拠にして表現をするか否かを決定することができるのでしょうか。考えれば考えるほどそこに答えはなく、決断が先送りになるだけだろうと思います。決断するということは、一つの選択と引き換えに、複数の選択を断念するというトレードオフのことです。それは犠牲を伴う決断でしかないでしょう。批判されるかもしれないし、失敗するかもしれません。それでも実行するというのは、一種のギャンブルのようなものに違いありません。つまりそれは偶然性に表現を委ねることを意味しております。不道徳さがつきまとう。
アメリカの哲学者であるネーゲルは、そのような自身のコントロールすることができない行為の道徳性について、道徳的運であると呼んでおります。それは、行為者に責任が伴うのは、その行為自体が自らの意志にもとづいて行為した場合に限り、行為の結果が運に左右される場合は、道徳的な評価にはならないと考えられているからです。あらゆる行為には、道徳的な評価は問われる可能性はあります。しかし、その行為自体がたとえ誰かを傷つけたとしても、行為者に対して責任は問われないということを意味します。しかし、それ自体も判断は難しいでしょう。誰かを傷つけてしまった場合、何を根拠として意図がなかったと判断できるのでしょうか。言い換えると、運に左右されてしまうような行為をした時点で、それはある種、意図的であると判断されかねない。哲学者である檜垣立哉は、その点について次のように説明しております。
予測しうることを予測しなかったり、予測をわざと誤魔化したりすることは、確かに倫理的に悪である。しかし本当のところ、どうしたところですべてを予測することは出来ない。予測には、それ自身としての本質的ないい加減さ、本質的な無責任さが含まれてしまう。その境界はきわめて暖味だ。それをどのように扱うべきなのか。
結論、どうしようもないということです。そして、次のように別の観点から説明しております。
全く逆の視点からいえば、こうした予測不可能性は、一種の偶然性の戯れとして、おそらく人類史上何処の段階をとっても、かなりポジティヴな評価が与えられてもいる。こうしたリスクの偶然性そのものが、文化的にいえば「遊び」として分類されうるものであるからだ。世の中の無数の「遊び」論が指摘しているように、「遊び」とはそれ自身、因果関係や理由関係に予測不能な隙間が生じ、そうした隙間のなかで、非決定的なものに身を委ねる行為である。偶然であることを積極的に認め、そこで自己責任を意図的に放擲しながら快楽の情動を享受することである。
それはある種の諦めであると言えるでしょう。しかし、その諦めには、偶然性に身を委ねる肯定的な側面を見出していると言えます。檜垣は、その不道徳さがつきまとう行為に「遊び」という観点から捉え直しているのです。歴史学者であるホイジンガは、人間の文化の痕跡に「遊び」の持つ性質を見出し、人間活動の本質であると説いています。予測不可能性にばかり気を取られ、がんじがらめになるのではなく、その予測不可能性の持つポジティブな側面に目を向けることで、新たな表現を生み出す可能性が与えられるのです。仮に誰かを傷つけてしまう可能性がある場合でも、その衝突から何かが生まれるのであれば、その偶然性に賭けるということも必要だと思われます。
ドゥルーズは、「ユーモアは、選別の力と切り離せない。到来すること(事故)の中で、ユーモアは純粋な出来事を選別する。」と力強い言葉を残している。それはあまりにも神秘的な言葉ではあるが、ユーモアの持つ本来の強度を意味しているようにすら思います。本論の主題は、「差別と笑いの境界線」としております。それは、表現の中でも笑いに潜む暴力性は際立って危ういものですが、笑いには私たちに新たな気づきを与え、違う見方を提示する役割のようなものが存在するからです。それはときに毒になりうるかもしれないが、それ自体を本当にそうであるか疑うきっかけになると考えられるからです。
突飛なことを言いますが、そもそも境界線などなければいい。境界線などなければ自由に表現活動が行えるのではないでしょうか。しかし、境界面があるからこそ、新たな表現が生まれ、これまでとは異なる価値観が誕生する可能性があるのです。そして境界線が一つではなく、複数存在するということは、それだけ社会が多様になり、文化の豊かさの証でもあります。今後、境界線がさらに細分化されていき、境界面が広がっていく可能性がありますが、その限界を突破することで新たな表現が誕生すると私は確信しております。
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