新お笑い論⑨ 笑いの消費の仕方について
何回かに分けて、お笑い第五世代について僕なりの解釈を交えつつ話を進めてきた。今回でお笑い第五世代のシリーズは最後となる。テーマは笑いの消費の仕方についてである。「笑いの消費の仕方」というと聞きなれない言葉であるが、単純にそれは「笑う」「ウケる」という行為と同じ意味合いであり、あえて笑いの消費という馴染みのない言葉を使っている。
というのも、お笑い第五世代が「大量供給と大量消費」という言葉で説明されているように、お笑いブーム自体が経済学用語で分析される対象となり、お笑いの客自体が消費者として認識されるようになったからである。つまりそれは、お笑い至上主義という価値観が終焉したことを意味する。笑いを分かる人が、お笑いを評価するのではなく、市場原理に任せて消費者自らが芸人を評価し、面白いか否かを判断するようになったということである。そのため、消費者のマインドセットを分析し、マーケティングによる調査を行い、そして消費者視点に立つことが必要とされることになった。その結果、効率的に商品(お笑い芸人)を生産することが可能となり、大量供給することが可能となったのである。
では、なぜ、そのような分析が必要となったのか。それはテレビ番組の視聴率の低下が関係している。若者のテレビ離れ、インターネットの普及など、様々な要因があるかと思われるが、視聴者が何を求めているかを分析し、視聴者が求めているサービスを提供する必要に迫られたのである。それは広告媒体として、高い視聴率を確保する必要があり、さらにいうと、低予算で視聴率が効率よくとれる番組が必要とされるようになったからである。
そこで重宝されるようになったのは、セットの使い回しのできるクイズ番組やトーク番組、そして出演料が安いとされる若手芸人で構成されたネタ番組ということである。それを仕掛けたのは、紛れもなく制作サイドである。デフレ不況とお笑いブームの発生の関係性については以前指摘したが、制作サイドはデータを分析することで需要の拡大を予測し、的確なタイミングで供給することになる。お笑い芸人自体をマスプロダクト化し、ネタ番組というプラットフォームを開発することで、大量供給と大量消費が可能となったのである。
大量消費社会
お笑いが大量消費社会の観点から分析されるようになったのはここ最近のことで、大量消費社会というものは以前から存在している。大量消費自体は高度成長期時代から行われており、大量消費社会と呼ばれるようになったのは1980年代後半以降である。大量消費社会または大衆消費社会とも呼ばれており、ウィキペディアでは以下のように説明されている。
所得の上昇やマスメディアの発達などにより、消費者の物的な購買範囲が拡大し、大衆による大量消費が行われるようになった社会。
これまでの社会は、どちらかというとフォーディズムに代表されるような合理的で機械的なシステム構造である大量生産社会が注目されていた。しかし、需要を超えるほどの商品が飽和されてしまい、次第に大量消費社会へと移行していくことになる。そのため消費構造自体が変わってしまい、分析の対象が消費者へと向けられることになったのである。
そこで注目すべき点は、大量に消費されることとなる「モノ」自体の価値についてである。フランスの哲学者であるボードリヤールは自著『消費社会の神話と構造』の中で以下のように言及している。
大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。
付与された記号とは、象徴記号(=シミュラークル)と呼ばれるものである。象徴記号とは、「条件反射の刺激という信号に取って代わる〈信号の信号〉であり、この〈信号の信号〉は事物・事象が不在でも,それらについての観念を指示し惹起することができる。」と説明されている。つまり、大量に生産されていく過程で、商品は別のモノとして、次々に生産されていくことになる。一見したところ、その商品自体に差異が見られないように思われるが、それらを特別なモノとして認識している人々(消費者)にとっては、意味のあるコード(意味もしくは記号)の交換として機能しているのである。消費者は、そのコードの差異自体を、新しい商品として消費しているのである。
シミュラークルについては前回説明したが、そのコードの差異というものが、「ネタ番組ブーム」ひいては「お笑い第五世代」と深く関係している。お笑いの消費者自体も同様に、新しい笑いの消費の仕方で、コードの差異を交換することで、芸人自体を消費するようになるのである。
お笑い第五世代のキャラクター性について
お笑い第五世代のキャラクター性について改めてここで確認しておきたい。ネタ番組が多様化されたことで、芸人が活躍する場が増え、たくさんの芸人にチャンスが巡ってきた。コンテンツの多様化に伴い、競争率も激しくなり、個性を出すために差別化をはかる必要に迫られたが、そのような競争原理が働くことで、さらに細分化が進むことになる。
ネタ番組の多様化に伴い、そのテーマにそった芸人が集められるようになる。そうすると次第に、個性やキャラクター性を求められるようになり、さらにニッチなポジションで競い合いが行われることになる。そのため、同じような芸風の芸人がしのぎを削るようになり、彼らは他の芸人とは違う強いオリジナリティ性を求めるようになるのである。たとえば、レッドカーペットのようなショートスタイルのネタ番組では、ネタ時間がかなり短縮されたことで、とにかくインパクトだけでも残せるようにと、キャラクター性はさらに差別化されていった。また、あらびき団のような色モノ芸人が集められた番組により、それに加えて過激さというものも加わっていく。
その結果、他の芸人とは違うキャラクター性を追い求め、差異(象徴記号)の交換を繰り返していき、個性偏重の芸人が大量生産されていくことになってしまったのである。
お笑いの消費者は、それらの特別なコード(他の芸人との差異)を消費していくことになる。しかし、それらの前提を共有していなければ、ネタやキャラクターを可笑しみとして消費することはできない。つまりそれが消費するための条件だといえる。
情報化社会が到来し、お笑いのあらゆる情報がデータベース化された。お笑いのルールであったり、キャラクター性であったり、そして動画サイトでいつでもネタを視聴できるようになったことで、笑いを判断するための情報が整理されいった。それは卵が先か鶏が先かという問題でもあるのだが、お笑いが情報化されたことで、お笑い第五世代以降の消費者は、それらの諸条件を前提としていることで新しい仕方で可笑しみを消費することが可能となったのである。
新しい消費の仕方とは、繰り返すが、データベース消費のことである。データーベース化された情報の一部(パターン化された笑い)に触れることで、反射的に可笑しみとして消費することを可能にした。レッドカーペットなどのショートスタイルのネタ番組が成立するのもそういったカラクリである。
それ以前であれば、無名の芸人は消費者との関係性を気づくことが重要とされており、どのような芸人であるか、どのようなネタをするのか、ということを認知してもらう必要があった。しかし、お笑いのパータン(=約束事)が情報化されることで、それさえ共有していれば、なんとなく可笑しみとして消費できるようになったのである。
それ自体が良いことなのか判断しかねるのだが、一点だけ指摘しておきたいことがある。それは可笑しみを認知(パターン化)していく過程で得られる喜びというものがあることだ。はじめは意味が分からなくても、規則性を見出し、他の消費者の笑っているポイントで、少しずつ可笑しみを理解していくこともある。その喜びはかけがえのないものだと思っている。
情報の一部(可笑しみの可能性のある情報の一部)を与えられたとき、その情報を脳内でシュミレーションすることで、可笑しみへと変換することが可能となる。それは、少し高度な笑いかもしれない。しかし、脳内で可笑しみを構築していく過程で、お笑い感覚は基礎づけされていく。それは、新しい消費の仕方で得られる笑いと比して、明らかに笑いの総量や質という点で勝っているとぼくは思う。
新しいお笑いの消費者は、自らの意思でお笑いをシュミレーションし、自発的にお笑いを創造することを放棄してしまったのかもしれないのではないだろうか。それはお笑い感覚の劣化を意味する。自由な意思をもって可笑しみを創造的に消費することは重要であり、それが機能しなくなっては、消化不良としての可笑しみとなり得る可能性すらあるだろう。
以前、「ネタのイージー革命」について書いた。それは、お笑い芸人の技術が向上し、笑いのポイントを的確に捉える技術が向上したという内容である。ネタのイージー革命によってたくさんの恩恵を受けられたように思われるが、他方、それによって失ってしまったこともあるかもしれない。データベース化された笑いのパターンを流用することで、簡単に笑いを作ることが可能となった。笑いのポイントをすり替えることで笑いが作ることができるため、効率よく笑いを生産できるだろう。それは果たして今後の笑いにとってどのように影響し、笑いを変質させることになるのだろうか。
新しい笑いの消費者はそれで満足なのかもしれない。しかし、従来の消費者からすれば、そのようなネタは退屈であり、ものたりないお笑いでしかない。少なからず、新しい笑いの可能性に開かれたネタにぼくは触れたいし、出会いたいと思っている。革新的なネタが生み出されたとしても、それを消費する能力がなければ革新的なネタとして受け取ってもらうことができない。松本人志が驚異的だったのは、革新的な新しいパターンの笑いを量産し、併せて大衆のお笑いの消費の仕方を強化したことである。そして少なからずそれを可笑しみとして消費する人が存在していたのである。繰り返すが、松本の笑いは、ただ消費するだけでは可笑しみを見いだせない笑いであり、それを享受する消費者が、可笑しみとしてシュミレーションする必要があるのである。ある意味委ねられている笑いではあるが、消費した先に見出すことができる光にぼくたちは熱狂した。松本人志の笑いに触れるたびに、お笑い感覚が成長している実感すらあった。それこそが90年代の笑いとその後の時代の大きな大きな、笑いの消費の仕方の違いなのかもしれない。
最後に
本論は、数年前に書いた文章をリライトした内容となる。「お笑い第五世代」を中心としたお笑いブームを分析し、続く「松本人志論(=現松本信者論)」を書くことになる。リライトした理由は、「note」で公開するにあたって少し変更したり、誤字脱字を見直す必要があったからである。と言いつつ、今回も加筆後見直しをしていないが。。。
次回で最終回であるが、最後に「お笑い第七世代」について締めくくろうと思う。お笑い第七世代の新しい価値観の笑いとは何か。それ以前の笑いと何が異なるのか。それについて考えたいと思う。