差別と笑いの境界線② 差別について
前提として、差別をすることは許されないことです。それは当たり前のことですが、私たちは無意識のうちに差別意識や偏見などの固定観念にとらわれている可能性があり、気がつかないうちに誰かを傷つけていることがあります。明らかに差別用語だと判断できるものもあれば、明確に定められていない不適切な表現も存在します。対面コミュニケーションであれば、お互いの表情を読み取りながらコミュニケーションすることができますが、SNSの普及により、不特定多数の人々と気軽にコミュニケーションを取ることが可能となり、そのため、何気ない言葉が、意図しない人々に、意図しない言葉として受け取られる場合があるのです。
インターネット空間では、不特定多数の人々に情報発信することが可能となり、新しい公共圏として機能しております。そのため、個人的な発言であったとしても、少なからず発信者にはそれなりの責任が伴うことになります。無自覚のまま発した言葉に、差別的な表現が含まれている可能性もありますし、その言葉を受け取った人が傷ついてしまう可能性もあります。そのような理由から、どのような言葉が差別的な発言として解釈されてしまうのか、ということを知ることはとても重要なことなのです。
私たちは、自身では気がつかないうちに差別意識や偏見にとらわれている可能性があり、そもそも差別意識など持っていないと思い込んでいる場合もあります。そのような驕りや過信を自覚することはとても重要なのです。差別や人権侵害による抑圧されてきた歴史的な背景を学び、差別自体の理解を深めていくことで、差別的な営みと表現の自由との適切な境界線に迫ることができると思っております。
差別の定義
それでは差別の定義から見ていきたいと思います。一般的に差別とは、「特定の集団や個人に対して正当な理由もなく不平等・不利益を生じさせる行為」と定義されています。「特定の集団や個人」というのは、とても曖昧な表現のように感じられますが、人種、皮膚の色、性別、宗教、政治、国籍、障害の有無などの社会的カテゴリーに所属する人々のことを指しています。個人の特性というよりは、社会的な枠組みの中で分類された人のことを指しております。続いて、「正当な理由もなく不平等・不利益を生じさせる行為」というのは、先入観や偏見などにより、合理的に説明できないような扱いのことです。身体的な暴力、ヘイトスピーチなどの攻撃的な言動、そして排除行為などがあり、「人権を侵害するあらゆる行為」が該当します。一概に要約することは難しいですが、「特定の社会的なカテゴリーに所属する人々に対して、人権を侵害するような行為をすること」が、差別的な営みだと考えられております。
差別を定義づけする際に、たびたび参照されているのは、チュニジアの小説家であるアルベール・メンミの差別主義に対する考え方です。その内容は、「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃や特権を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである(アルベール・メンミ、1996)」というものです。分かりづらい言い回しですが、人種差別は、その差異を利用することで、差別主義者が利益となることを目的としている営みと言えるでしょう。差別を行う人は、過去の経緯や慣習から得られた権利や地位、または利益を守るために、被差別者に対して不当な扱いを行うのです。そのような営みを正当化するために、被差別者を不適切にカテゴライズしたり、差異をでっち上げたりすることになるのです。
日本の差別問題の一つに部落問題がございます。被差別部落民は、出自や出身地を理由に、異質な存在として不当に扱われてきた歴史があります。もともと部落差別は、江戸時代に穢多という身分を制度的に固定し始め、その地域に居住している人々を不当に扱ってきました。その後、ケガレという観念の広まりとともに、差別意識として共有されていくことになりました。それは、身分制度がなくなった今でさえ、同和地区出身ということで、差別意識や偏見が少なからず残されております。被差別部落民には、上記で定義した社会的カテゴリーに分類されているわけではなく、部落外とされている人々と、人種的にも民族的にも違いはありません。つまり、被差別部落民には明確に定義づけられている差異が存在が存在しないということになります。その点について、ノンフィクションライターの角岡伸彦は次のように説明しております。
部落と部落外は、人種的にも民族的にも違わない。部落民には外国籍(その多くは在日韓国・朝鮮人)の人もいるけれど、基本的には日本人という同じグループの中での地縁と血縁をめぐる差別である。しかし、部落外の人の中には「部落民は何かわれわれとは違う」と思い込んでいる人がいる。同じグループであるのに、違うと思っている。私はこれを「違い幻想」と呼んでいる(角岡伸彦、2006)
角岡の「違い幻想」は、メンミの提唱する「架空の差異」に近い考え方です。被差別部落民には明確に定義づけられる差異が存在せず、部落出身というだけで、違い幻想を根拠に不当に扱われているのです。その違い幻想は、因習にしばられている場合もあれば、思い込みや決めつけによる根拠のない偏見である場合もあります。それ自体が、現実であろうが、架空のものであろうが、いずれにせよ、何らかのありもしない幻想を抱いているにすぎません。そのため、差別主義者の都合の良い解釈により、いくらでも捏造することができてしますのです。そしてその違い幻想を利用することで、差別という営みを正当化し、不当な扱いをするための根拠となってしまっているのです。
以上のことから分かるように、差別の定義は曖昧で釈然としません。そればかりか、定義自体が文学的な表現で書かれているため、何とでも解釈できるように思われます。それは、差別には様々な形態が存在し、差別という営みを一括にすることは極めて難しいからです。現在、世界的に問題となっている差別には、人種・民族・宗教・文化に関する差別などがあり、日本における差別は、被差別部落、女性差別、ハンセン病患者に対する差別、在日外国人に対する差別などがあります。これらの差別は、差別されている人々が、告発や運動によって公となり、政府や国民に知られるようになりました。公的機関や第三者が介入することで摘発してきた場合もありますが、差別自体を客観的に判断することは難しく、またそれ自体を認識していたとしても容認することは難しいからです。そのため、被差別者による告発というものが重要なのです。差別者の行為が差別として認識されるためには、告発という行為により社会に訴える必要があるのです。
そのような理由もあり、差別自体を明確に定義することは難しく、限界があるように思われます。そのため、差別を取り締まることは、同様に極めて難しいと言えるでしょう。それでは、差別に対する法的な規制や制度はどのように定められているのでしょうか。そしてその法の妥当性や実効性がどのように確保されているのでしょうか。その点を見ていきたいと思います。
「あらゆる形態の人種差別撤廃に関する国際条約」について
国際連合は、1965年に「あらゆる形態の人種差別撤廃に関する国際条約」を制定しております。これは、あらゆる種類の人種差別を廃止し、誰もが平等である権利を認めることを目的とした多国間条約となります。現在では、181カ国の国が加盟しており、各国が一体となり、共通の課題と認識し、差別撤廃の実現に向けて取り組んでおります。
第一条では、「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」と人種差別の定義について宣言されております。
第四条では、「人種的優劣又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わず、すべての暴力行為又はその行為の扇動、及び人種主義に基づく活動に対する資金援助の提供も『法律で処罰すべき犯罪』であることを宣言すること」と、いかなる差別であったとしても、法律で処罰する重要性を強調しております。
日本が同条約に加盟したのは1995年です。他国と比して明らかに遅い対応と言えます。もともと日本では、日本国憲法第十四条で、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定められていました。これは法の下の平等について規定されているもので、国民一人一人が、平等に扱われる権利や差別されない権利を保証するために定められております。
しかし、これはあくまでも公権力による人権侵害を禁止するための条約となります。それは国家が国民一人一人を平等に扱うことを保証するための権利にすぎません。そのため、私人間(しじんかん)の問題については憲法にそこまでの効力ありません。私人間の問題に対しては、憲法ではなく、法律がその役割を果たしております。
先ほど触れましたが、人種差別撤廃条約で語られているように、差別的な営みに対して法的に処罰することが、差別を撤廃する上で重要だとされております 。つまり、法律による規制が差別を撤廃する鍵だと思われます。それでは、現在、差別に対する法律はどのようになっているのでしょうか。そして、その法律には、どれほど効力があり、実効性があるのでしょうか。その点について見ていきたいと思います。
差別に対する法的な規制や制度
日本では、2016年に人権に関わる三つの法律が施行されております。障害者差別解消法、ヘイトスピーチ解消法、部落差別解消法になります。現在、解消法は理念法であって、罰則規定を設けてはおりません。そのため、ヘイトスピーチによる違法行為を行った場合でも、禁止規定が定めされてないため、それ自体を取り締まることはできないのです。この法律により、ヘイトスピーチ関連のデモや街宣活動の回数は減少し、一定の効果はあったようですが、それでも差別的言動が完全に撤廃されたわけではありません。
このような現状の中、2020年7月1日、川崎市は「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」という法令を制定いたしました。これは日本以外の国や地域の出身者に対する差別的言動に対して、法的に取り締まることができる条例です。本条例では、日本で初めて刑事罰を科すことが可能となりました。罰則の対象となるのは、「公共の場所で拡声器を使用し、特定の本邦外出身者に対して、ヘイトスピーチなどの差別的言動を行ったもの」とされております。どのような差別的言動に対して規制の対象とするかは、個々のケースごとに慎重に判断すると明言されております。それでも何を根拠に法に触れるか否かというラインを引くのかは、難しい判断になると思われます。これまで繰り返し説明してきたように、差別的な発言や営みを定義づけることが難しいからだと思われます。
そのような理由から、本条例では次のような解釈指針を提示しております。「○○人を川崎から叩き出せ」など居住する地域からの退去を包含するものや、「○○人を殺す」「○○人を叩き潰せ」など本邦外出身者の生命、身体等に危害を加える可能性のあるものなど。これらはあくまでも言動例となりますが、今後それ以外の差別的言動に対しても、本条例が適用される可能性は十分にあります。
解釈指針を設けることで、処罰の対象となる差別的な営みに対して、基本方針に従って適切な対応や判断ができるようになるかと思われます。しかし、そのガイドラインがあることで、その網の目を潜る差別的な営みが現れる可能性があります。提示されている解釈指針はいくらでも再解釈が可能だと思われますし、言葉で定義されている以上、厳密にそれ自体を定義することが困難だからです。
本条例により、ヘイトスピーチなどの差別的な営みは抑制されると思われますが、明確に定義されていない以上、ヘイトスピーチが撤廃されるには時間がかかるでしょう。しかし、本条例の役割はとても意義があると思いますし、本条例が他の地域に影響を与え、ヘイトスピーチが撤廃されるための指針となる可能性は十分にあります。長い戦いになるかと思いますが、個々のケースに対応しながら、実績を増やしていくしか方法はないかと思います。
差別的な営みに対する法的な整備は少しずつではありますが進んでおり、社会的にとても有意義な取り組みだと思われますが、他方、法的な整備に対してもっと慎重になるべきだというリベラル側の意見もございます。それは「表現の自由」という問題が関係してきます。差別的な営みを撤廃する必要があると誰もが認識している一方、公権力が個人の自由を侵害してはならないということが憲法により保証されており、どちらかというと、後者のほうが重要とされている面がございます。それは、前述した川崎市の言動例のような差別的な言葉やヘイトスピーチでさえ、見方次第では、個人の表現だと見なすことができ、法的に規定するということは、そのような表現自体を弾圧することになりかねないからです。リベラル側の意見では、「それは表現の自由の権利を侵害しているのではないのか」ということを意味しており、言論の自由に対して危惧しているのです。
それでは「表現の自由」はどこまで法的に守られているのでしょうか。そして、なぜ、「表現の自由」は重要とされているのでしょうか。その点について考えていきたいと思います。
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