武運長久を願う杯で送り出した後は、武運長久を願う「陰膳」ー家の中では無事の帰還を願って…
家族の誰かに出征の通知が届くと、あまり余裕のない日程の中で、家族で武運長久をー実際は無事の帰還もー願って神社へのお参りをするのが一般的でした。下写真は、1940(昭和15)年1月に赤紙で出征を命じられた人のため、長野県八幡町(現・千曲市)の八幡宮で出してもらった「武運長久杯」です。
この杯を使ってお神酒を飲んで出征したのでしょう。無事、帰られたのでしょうか。
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兵士を送り出した家では、戦地にいる家族と一緒にいられるよう、つながっていられるよう、陰膳を用意するのが通例でした。こちらは、滋賀県野洲町(現・野洲市)の援護会で作った陰膳用の食器です。星のマークが入っているので、陸軍で出征した方のものでしょう。
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長野県中川村出身の方で、中国戦線でカリエスとなって療養、その後上野方面で、本土決戦に向けて配置された方にお行き合いして聞かせていただいた、「陰膳」にまつわる話を紹介させていただきます。
本土決戦を迎えるといっても、部隊には、まともに武器が行き渡っていませんでした。そこでその男性は実家に帰り、「刀を買いたいから金をくれ」と父親に言ったところ、父親はどこかから工面してきたのか「香典代わりだ」とお金を渡してくれました。そのお金で長野県飯田市の店で刀を買い、上野へ戻りました。そして、敗戦の日を迎えます。
刀は持ち帰り、地域の文化展などで展示し、二度とこんなものがいらないようにと伝えてきました。この男性は俳句の趣味があり、入院中の俳句なども残していましたが、終戦の年の終わりに詠んだものを教えてくださいました。
「陰膳の 今年は無くて 晦日の灯」
戦争が終わって、夜も灯りをつけて家族一緒に年の終わりのごはんを食べられるーそんなことが、とても幸せに感じたということです。この日常を護る事こそが為政者の務めではないでしょうか。