戦時下は地下壕改造して住め!でよくても、敗戦後は何とか住宅供給をと考え出された簡易住宅―長野県などから支援
この下写真、主婦之友の1945(昭和20)年7月号裏表紙です。それまでは防空だ、防火だ、とやっていましたが、あちこちに焼野原が広がる現状を前にしては無意味。そこで、この号では焼け跡の地下壕を快適に暮らせるようにする工夫を載せました。そして、敗戦を迎えます。
とはいえ、戦争が終わったのに穴居住宅ではーと為政者は当然考えたのでしょう。厚生省と住宅営団が、罹災者でも作れる簡易な住宅の設計図と資材を配ったようです。こちら、神田区役所が配布したものです。
一枚めくると完成予想図が。
何はともあれ、土台だけはしっかりとするよう、丁寧に説明。
土台ができたら棟上げです。この手順でやれば簡単と親切。
この応急簡易住宅、完成した写真と記事を偶然、1945(昭和20)年10月2日の信濃毎日新聞に見つけました。これで、この案内図が戦後に配られたものと分かりました。
著作権切れもあり、記事全文を転載します。
「戦災地で不便な生活をしている同胞を救えと厚生省と住宅営団で全国へ発注した応急組立家屋は、林産王国本県へ一万一千八百戸の割当があった。冬越しのため納期十一月末の緊急注文、問題の資材は地木社(地元木材会社か=注)の手持材二十九万五千石で間に合わせる設計の下に、一郡市平均千五百戸を製作することになったが、なにしろ既存二十二団体の木製品統制組(合)関係では施設規模技術的からちょっと手が出ないので、新に木製飛行機を初め軍需工場の転換したものを大同団結した復興住宅部品加工組合を五万円の出資で組織、近く創立総会を開いて一斉に着手するが
須坂町(現・須坂市)東亜軽飛行機会社は既に九月上旬から試作にかかり二十七日民間で出来た最初の組立家屋を完成した。
厚木十二石(製材11,2石)の針葉樹で延べ二十人を要し間口六㍍、奥行き四㍍、七坪二合五勺の平屋建(六畳間、三畳間、土間、便所、押し入れの間取り)。簡素軍需工場のバラック建の社宅などより遥かに住み心地がよくて、これが経費は坪当たり二百五十円総額千八百円の基準通りで出来上がっている。期日までに二千戸をつくる計画で木工経験者を大量に募集中である。【写真は初お目見えの組立家屋】」
仕事にもなるし、とにかく雨露がしのげる場所ができるとなれば、みなうれしい限りでしょう。
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参考までに、ほかの記事もいくつか見てみますと、降伏調印からちょうど一か月ですが、まだ戦死者の公報が続いていて、連絡が付けられない部隊もいた様子です。
就職先もなかなか見つけられない中、飯田市では復員工が協力し合って鍋、釜や傘、ラジオなどのよろづ修理で繁盛して頑張っているとの記事も。こうやって、家を作り、工夫をして、今の社会があると思うと、ありがたさが身に沁みます。こんな地道な取り組みをしていた人がいたからこそ、です。