戦時下の長野県中等学校の生徒たちー1941年度の小県蚕業学校卒業アルバムから
写真は、撮影された場所、状況、年代が明確になって、初めて歴史を知る一つの素材となりえます。その点、一番良いのが卒業アルバムです。といっても、尋常小学校程度では校舎や奉安殿、クラス別写真、教員写真程度です。一方で中等学校(現在の中3から高校くらい)のアルバムは、さまざまな行事を収容してあるので、その時代の雰囲気を知るのにもってこいです。ここでは、長野県上田市にあった小県蚕業学校(現・上田東高校)の生徒たちを、1941年度生の卒業アルバムから、まちの雰囲気も合わせて紹介させていただきます。なお、各写真とも複製厳禁でお願いします。
表題写真は、菅平高原での教練の休憩場面です。
上写真は、長野駅前の中央通りです。現在は様相が変わっていますが、坂道の雰囲気は残っています。右手に「〇威宣揚」との上田市の看板塔があります。おそらく「皇威宣揚」と書いてあったのでしょう。下駄ばき生徒が多いのは、民間への皮革配給不足も一因かと思われます。
卒業写真を撮影するとなると、いろんな季節にそれぞれの希望で撮影しています。後ろに見える上田城の櫓は、急斜面のため移転を断念された唯一のものです。現在は大手門と両側の櫓が復元されていますが、このころはこの一棟だけでした。
学生の楽しみといえば、映画館も代表的なものだったでしょう。先の桜の季節とは違い、外套が必要な季節に撮影されたものです。上田市内にはいくつか映画館がありましたが、これがどこかはまだ調べていません。申し訳ない!
こちらは学内での活動。蚕業学校ですから、蚕飼育の技術は必修でした。さらに上級の研究機関として、上田繊維専門学校(現・信州大学繊維学部)も上田市内にありました。
こちら、畜産加工の実習。腸詰や解体された肉が並べられています。
校内には、卒業生の戦死者の遺影を飾っている部屋がありました。ざっと24人もの遺影があります。
卒業アルバムには、教練に関連した写真も多数ありました。思いで深いというよりは、やはり苦労が多かった分、力を入れて撮影したのでしょう。
1939年に始まった男子の体力章検定は、中等学校ではまとめて行っていました。重量運搬、100m走、2000m走、手榴弾投げ、幅跳び、懸垂といった内容でした。下からのアングルが見事なこの写真、実は生徒による卒業アルバム制作班の手によるもの。生徒たちの生き生きとした動きや自然な表情が見えるのも、仲間の撮影によるところが大きいでしょう。
最後にこちら、上田城址にあった護国神社での参拝風景です。生徒たちや同行してきた教員らしい人たち、右手の教練指導の将校というのもよく見て取れます。そして、右手に機雷、狛犬のそばには砲弾が飾られています。いずれも、日露戦争での戦利品でしょうか。これらは太平洋戦争中、金属供出の一環でいずれも撤去されています。
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厳しい中にも、生徒は学生の自由、学問の楽しさを味わっていたように思えます。ただ、この生徒たちが卒業した1942年3月以降は、勤労奉仕やグライダーの訓練、一層力の入る教練などで忙しくなっていくほか、映画配給量もフィルム不足で減少するなど、急速に窮屈さが増していきました。二度とそんな思いをせず、のびのびと若者が成長できる環境を維持したいものです。