代用品は陶器製も大活躍-戦争末期には軍需優先で代用品も払底しますが
日中戦争が1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、第二次上海事変も経て本格的な戦争へとなっていくのですが、開戦に合わせて金属、皮、綿など、さまざまなものの民需利用が制限されます。そこで別の材料で作ったさまざまな代用品が1939(昭和14)年ころから生まれてくるのですが、その中でも陶器類はさまざまな形に整形が可能であり、材料も豊富とあって、次々と代用品に利用されていきます。収蔵品の中から、陶器製代用品の一端を紹介させていただきます。
まずは、フォークとスプーン。形やサイズ感はまあまあですが…
やはり、強度には問題があったようです。実践してしまいました。これを見ると、下写真の「栓抜き」などは、使うのが怖くて使っていません。
台所回りでは、コンロ、釜などの大物も作られましたが、こちらのおろし金(陶器製)などであれば、まあまあ、上部で実用性もあったと自信を持てます。こうしてみると、食関連の金属製品は多かったんだなと感じます。
以下、こまごましたものをいくつか。ベルト通し、陶器製マッチ箱、戸車代わりの「戸スベリ」、キセル、分銅です。
次に「防衛食」と題した缶詰の代用品。こちらは、容器に食べ物を入れた後、ふちにゴムのようなものをあててから蓋を絞め、加熱してさますとぴっちりと閉じて開かなくなります。開ける時は、ふたの中央を釘などでついて壊して開けるようにと。かなり作られたようで、松代大本営の建設現場から出たというものを所蔵しています。こちらはそれとは別のものです。時折、未開封の物が発見されることがあり、煮物のようなものが入っていたとか。
最後に、陶器製アイロンをご紹介します。こちらは別に湯を入れてふたで締める容器があり、そこからゴムの管などで導いた蒸気を本体にためて蒸気アイロン代わりにするものです。アイロン本体しかありませんが、よくできています。
ほかにも陶器製湯たんぽはいろいろ使われ、寝る時の普通のもののほか、いすに座って机に向かっているときに足元を温めるかまぼこ型の湯たんぽも陶器製でつくられました。
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しかし、こうした代用品が通常の製品よともに陶器で作られたのも、太平洋戦争開戦間もなくころまでです。軍需でもあった防衛食容器は、例外的に生産されたものの一つ。戦争末期には、兵士の水筒、本来鉄で作る手榴弾、地雷、ロケット戦闘機の燃料瓶、果ては陶製貨幣まで、軍や国が必要とするものの生産に集中させられ、食器が払底する事態になり、長野市では骨とう品屋さんも大人気になったとか。
まあ、戦争はすべてを食い尽くしますし、何より戦時体制が、こうした指示を出せば右へ倣えとなってしまうのです。他国の脅威を声高に叫ぶ為政者には、要注意です。本当の為政者なら、他国の脅威を取り除くための努力を怠らないもの。戦前の日本は、軍のことは軍まかせ。軍はあれもこれもほしいと要求する一方。満州事変以降は特にそうなってしまい、国を滅ぼしています。
そうならないため、為政者の言葉は本物か、常に注意してみている必要があるのです。「死ぬのが道徳」などと言って見せる為政者は、そのような思考に誘導することで、自分の地位と権力を維持したいだけなのですから。