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戦時下、伊那中等学校の生徒たちの思いは―戦時教育令に感激、必勝のため教科書封印…
1945(昭和20)年4月より、大日本帝国は国民学校初等科(現在の小学校)を除くすべての学業を一年間停止させる処置に出ます。兵器や食料の生産に没頭させる狙いでした。
そしてこうした活動を最大限に有効にできるよう、検討した政府は5月22日、「戦時教育令」を公布します。これは、これまで個別の学校で編成してきた報国隊を、場合によっては学校の垣根を超えた「学徒隊」に編成しなおし、国内の八つの地方に連合体を作り、ピラミッド型の組織とすることで無駄をなくすことを狙ったものでした。同日の毎日新聞は、表裏2ページだけの新聞の半ページほどを使って大々的に報道します。
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特に、この勅令には天皇が「お言葉」を示していますが、その内容は記事で解説されるまでもなく「教育勅語」の「一旦緩急の際」の精神を引いています。青少年学徒の奮起を喜び、その使命達成のため、戦時教育令を裁可し公布するとしています。あくまで、学徒の希望を入れたという形式の文です。
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戦時教育令に、学生はどう反応したか。率直に感想を家族に送った長野県伊那中等学校(現・伊那北高校)の生徒のはがきを収蔵しています。既に長野県辰野町の疎開工場で学校報国隊として勤労しているところでの戦時教育令公布です。下に全文を書きだしました。感激の様子が伝わるかと思います。
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「畏くも天皇陛下におかせられてハ、我等学徒に優渥なる御嘉尚の上諭を賜ふ。何たる光栄、何たる感激ー心中の興奮、我をして睡らしめず。嗚呼、皇国の興廃は今こそ我等学徒の双肩に賭けられたるなり。何を以てか宸慮を安んじまつらん。尽忠之あるのみ。本日の感激を忘るべからず。共に行かん報国の道。」
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この学生が特別だったとは言えない資料が、まだあります。こちら、陸軍幼年学校の試験問題集です。1943(昭和18)年12月発行の版で、これを伊那中等学校報国団で1944年8月19日に購入したようです。それだけ需要はあったのでしょう。
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また、伊那中等学校のあった伊那町の段丘上では太平洋戦争末期、飛行場の建設も進められていました。正式には「各務原陸軍航空隊伊那町出張派遣飛行場」と呼ばれたようです。竹下登元首相が訓練した場所でもあります。この飛行場の造成に4月から動員された伊那中等学校の学生が、教科書の裏に「必勝の信念」と書き込んで残していました。
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学問を停止させられること、それも御国のためであると、自分を納得させるためか、教科書を封印するかのように「必勝の信念」「勤労動員昭和二〇年四月入隊」としっかり書いてあります。
◇
現在でいえば、中学生以上の学生を全員、戦争のために学校から引き離したというのが学業停止であり、戦時教育令でした。それまでの勤労動員であれば実現できたかどうかはともかく、学習時間の確保も配慮されました。
国体が護持できなければ意味がないという、戦争末期の大日本帝国。国あっての臣民という大日本帝国。いくら本人たちが望んでも、子どもの未来を奪ってまで延命しようとする国家に将来はない、という発想もできなかったのか。あくまで、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」る教育を与えてきた国家の、当然の末路でしかなかったでしょう。
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