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食糧増産のため果樹や花はやめさせろって最近も聞いたが戦時下では当たり前。自家肥料でわら消費し、わら工品不足という矛盾も役人仕事らしい

 戦時下の農家がいかに大変か、残された資料を見ると、大変つらいものがあります。下写真、日中戦争中の1941年4月、長野県の農会から「農業報国 自家用米節約供出運動に参加を望む!!」と呼び掛けがありました。増産と消費節約を国民が一体となってやらねばならぬとし、さまざまなものを混ぜて「米の食いのばしが出来るのが農家の強味」としています。当時、小作中心の多くの農家は白米より混ぜ飯で食い延ばすのが当たり前でしたが、それをさらにやれというのです。「お手のもの」でしょって。(´;ω;`)

白米の節約呼び掛けのチラシ
「食糧は恰も弾丸」であるのに、一部は輸入に頼るのは不安千万と。
米の食い延ばしで農家の底力を見せろと(´;ω;`)

 そして、農家に求められるのはもちろん米だけではありません。太平洋戦争が始まって間もない長野県伊那里村(現・伊那市)の1942(昭和17)年度の村民大会要項(下写真)では、貯蓄目標、供出米割当、そして大麦小麦の供出数量も割り当てられているのが分かります。「大東亜戦争完遂必勝の信念を堅持する事」と。精神力でやり抜けか。そして写真には入っていませんだ、現金の寄付要求も付いています。

貯蓄に増産に大忙し

 当時の日本の農業は労働集約型で効率が悪いのに、日中戦争からさらに太平洋戦争となり、労働力の底上げは急務。そこで、若手の女性にも中堅を担ってもらおうと、長野県農会は「戦時挺身食糧増産婦人講習会」を開くなどしていますが、どんどん人が抜かれる農村では焼け石に水だったのではないでしょうか。下写真は長野県長藤村(現・伊那市)の女性の修了証です。

4日ほどの講習会でした

 そしてこちら、1943(昭和18)年3月に岡谷市翼賛壮年団が出した「米英撃滅必勝食糧増強確保運動の件(花卉、高等野菜、全整理、果樹園整理減反運動要項)」と題した書類です。あかあらさまに、換金作物をやめさせて必要な食糧を作らせる運動です。
 「外米は入らず、是が非でも食糧を自給自足しなければならぬ。(略)陛下の農兵として食糧増産に一身を捧げなくてはならぬ」と、切迫感とともに、天皇まで持ち出して圧力をかけます。そして、先に挙げた作物の「愛国心による自発的整理減反」を要望するとしています。そして翼賛壮年団員に地域ごとの減反整理割当をするよう、耕地調べを求めました。「陛下」「愛国心」を御旗の錦とする強引さが目立ちます。

花や果樹は作るなという運動を「愛国心」で推進
対象とされる作物が分かります。最近もだったような。

 日中戦争前から、農家は科学肥料に頼っていましたが、戦争がずっと続いていて、肥料会社は軍需関連の資材生産中心になっていました。そして自給肥料を作れということで、藁に排泄物を混ぜて自家用肥料生産に励んでいました。

長野県豊里村(現・上田市)でのたい肥作り(1942年春先)

 そうなると、これまで藁で作っていたものが自然に減ってきました。入れ物としての袋状の叺、俵、梱包用のむしろ、縄などで、ジュートなど外部からの繊維製品が入ってこない中、やはり藁で増産を求めることになりましたが、その材料自体がこうして指導によって使われているのですが、役人としては出させるしかないようです。下写真のようなチラシを配布します。

国民学校とあり、まだ農林省なので、1942年当時のもの。

 そして、呼び掛けだけではだめと、1944(昭和19)年には実績報告書を提出するよう、圧力をかけます。下写真は、現在の長野県佐久市中込で配られたものです。

呼び掛けに続き厳しい管理がやってきます。

 実際、このころの入れ物不足は深刻で、炭俵を持参しなければ炭の配給(有料)をしないとか、古い叺をや紙袋をかき集めるとか、いろんな場面でそんな状態が演じられていました。

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