〇〇が叶うとしあわせになれると信じていた
本当に望んでいるものって
なんだろう
感覚、意識、、
と続いて着目したのは
"望み"
自分の人生を振り返ったとき、
幼い頃に望んでいた夢たちが
現実としてかなり叶っていることに
気づいた。
だけど
その割にその地点のわたしは
しあわせを感じられていなかった。
そのとき
とんでもなく
大切なことを見つけた気がした。
現実がどんなに叶っても
自分の内側が喜びや満足感を
感じられていなければ
わたしは
しあわせじゃなかった。
物質的には
しあわせな状態、
ではあるかもしれないけれど
周りの人からすれば
しあわせな人のように
映っていたのかもしれないけれど
本人がそれを感じられないのであれば
それは "ない" ことになってしまうんだ
〇〇が叶うと
しあわせになれると信じていたのに
全然しあわせを感じられないのは何故?
わたしの内側は
現実的に豊かなくせに
満たされていない自分をゆるせなくて
そんな自分を責め立てながら
周りに申し訳なさでいっぱいになるという
悪循環に陥っていた。
"〇〇が叶うとしあわせになれる"
この部分を
自分の中でとらえちがいしていたのだ。
過去を振り返り
改めてハッとされられたわたしは
"自分にとって核の望み"
について
明確に自分の中で定義のようなものが
できた気がした。
それは
現実や物質的なものなど
目に見えるような
自分の外側にあるものではなく
気分や感情、
意識状態などの
目には見えない
自分の内側にあるもの。
そこからわたしは
立ちどまるたび自分の核の望みや想いは
なんなのか、ということを
内側に問い始めた。
嫌い
いやだ
しっくりこない
心地わるい
などの裏側には必ず、
好き
これがいい
しっくりくる
心地いい
そういった感覚が指し示すものがあって
また
怒り
不安
苦しみ
悲しみ
絶望
そんな感情の裏側には
穏やかさ
安心感
心地よさ
慈しみ
希望
を切望する想いがある。
ということは
まとめると、
わたしが望んでいるものは
現実のようで
その現実を体験して味わえる
感覚や感情や気分であり、
それらを詳しくみると
好き、これがいい、しっくりくる、心地いい
などの感覚や
穏やかさ、安心感、慈しみ、希望
などを含んだ感情や気分
である。
そして面白いことに
強い望みほど浮かんでくるのは
決まって、
ネガティブな感覚や感情が
強くわいているときだった。
これらをベースに
自分の内側に表れる感覚や感情を分解して
より自分の"核の望み"を
捉えることをわたしは始めた。
そうやって改めて冷静に
見つめてみると
私たちは的外れな望みを
日々抱いていることに
気づいたりする。
子どもの頃、
明日熱が出ればいいのになぁ
とわたしは
苦手なプールの授業の前日に
必ず願っていた。
だけど
熱が出ることを
心から望んでいるかというと
全然ちがう。
学校を休みたいだけ。
プールの授業を受けたくないだけだ。
それは何故か、
泳げないから、水が怖いから、
恥ずかしいから、、
もっとシンプルにいうと
いやな気分になるからだ。
ということは
本当に望んでいることは
泳げるようになりたい、
だったり
水が平気になりたい、
だったり
安心して授業を受けたい、
だったり
もっと大まかに言えば
泳げなくてもなんでもいいから
明日のその時間を
心地よく過ごしたい、ってだけだった。
だけど
そのどれもを
わたしは望んだことがない。
自分の核の望みや想いの捉え方なんて
誰にも教わらなかった
そんなこと
考えたことすらなかった。
さらにわたしの
望みについての深掘りは続く。
自分の真ん中の望みを
とらえた時の気持ちよさと
真ん中をとらえたのに
逆に心地わるさがわいたときの
ちがいについてだったり
自分の中を見つめていけばいくほど
興味深いポイントがいくつも
見えてくる。
流行りのドラマや
バズっているTikTokの話より
成功者のノウハウや
物質的にどれだけ豊かになったかって話より
わたしにとっては
そんな自分の内側の探索が
いちばん興味深いものになっていった。
"自分と真っ直ぐ向き合うこと" でより満たされた日々を送れるようなヒントになったらとこれまでの研究を言語化して公開を始めました ♔ 繊細で不器用で生きるのが難しい、そんなふうな私でもひたむきに今を生きてる…そんなことを表現できたらなと思ってますꪔ̤̫