41/1,000冊目 ゲーテ 『ゲーテ詩集』
ゲーテ 『ゲーテ詩集』
感想
82歳までの生涯をたどるように読めて良い。
長きに渡って恋愛への関心がとても高い。それがゆえに元気なのかもしれない。現代においては大御所感がすごいが、ヴァイマルでの政治的な仕事をずっとやってきていたのに11年目にして全て放棄して(放棄したと言っても「無期限休暇」とか言って帰ってきたら仕事があるようにはしている)、イタリアに行っているゲーテ。自由。
音楽家たちとのつながりがあつい。
18世紀にしては長生き(現代でもまあまあ長生きかも)だったためか、息子よりも長く生きている。
晩年に向かって詩は、格言めいてくる。翻訳者もあとがきで書いているけれど、この言葉が格別に良い。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテという人を詩を通して少ししれてよかった。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
名前:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
生:1749年 (ドイツ国民の神聖ローマ帝国 自由帝国都市フランクフルト・アム・マイン)
没:1832年(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国 ヴァイマル)(享年:82歳)
代表作:
『若きウェルテルの悩み』(1774年)(25歳)
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796年)(47歳)
『ヘルマンとドロテーア』(1798年)(49歳)
『親和力』(1809年)(60歳)
『西東詩集』(1819年)(70歳)
『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1821年)(72歳)
『ファウスト』(1806年-1831年)(82歳)
ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残しました。
その文学活動は大きく3期に分けられます。
初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラング(18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動)の代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせました。
その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務める)となりしばらく公務に没頭しますが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていきます。
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成しています。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワーク。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残しています。
ゲーテの生涯
生い立ちと少年期
1749年8月28日、自由帝国都市(独: Freie Reichsstadt、英: Free Imperial City:中世よりドイツ(神聖ローマ帝国)で見られた都市の一形態。地方領主や司教の統制下でなく、皇帝直属の地位におかれ、一定範囲における自治を行使した都市)であったフランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。
父方の家系はもとは蹄鉄工(ていてつこう)を家業としていましたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修業を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成していました。その次男であるヨハン・カスパーがゲーテの父。
ヨハン・カスパーは大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志すもうまく行かず、枢密(すうみつ)顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物(ぶんぶつ)の蒐集に没頭していました。
母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めていました。
ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれています。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育ちました。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送りました。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントでした。
父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てました。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けます。
5歳から寄宿制の初等学校に通うも、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、カリグラフィー、演奏、ダンスなどを学ばせました。
ゲーテは語学に長けており、少年時代にはすでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得しています。
少年時代のゲーテは読書を好み、フェヌロンの『テレマック』やイギリスの小説家ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んでいました(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。
詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っています。
14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わります。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られています。
ライプツィヒ大学時代
1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学します。
これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向によるものだったのですが、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧しています。
ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入りませんでした。
この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいます。 しかし都会的で洗練された彼女に対するゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わりました。
ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通いましたが、その後病魔(結核?)に襲われてしまい、退学を余儀なくされました。
19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになりました。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えました(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。
またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至っています。
またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出しています。ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しています。
シュトラースブルク大学時代
1770年(21歳)、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学しました。
この地で学んだ期間は一年少しと短かいものの、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験しています。
とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いが重要なものとなりました。
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744年8月25日 - 1803年12月18日):ドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者。
ヘルダーはゲーテより5歳年上で、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もありました。
当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていきました。
またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性に恋をしています。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出会いました。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれます。
しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われています。
1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻りました。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設しました。
友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったものの、ゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになっていきました。
ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げました。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになります。
『ウェルテル』成立
1772年4月(22歳)にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜びました。
ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村でしたが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーやカール・イェルーザレムと親しくなりました。
6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で19歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちました。
ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになりますが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知ることとなります。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴りましたが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去っていきます。
フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送りました。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。
そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届きます。原因は人妻との失恋でした。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなりました。
続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしましたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立しました。
まずゲーテは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を改作したうえでメルクの援助を受けて1773年7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めました。
そして1774年9月(25歳)、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになりました。
また生涯をかけて書き継がれていくことになる『ファウスト』に着手したのもこの頃。
この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄ヨハン・ゲオルク・ヤコービ、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、レッシング、クロプシュトックなど当代一流の文人たちと交流を持つようになります。
また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っています。1774年12月には、後にゲーテを自国ヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問しています。
このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマン(Lili Schönemann)と新たな恋に落ちます。
1775年4月(25歳)にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るのですが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航しました。
婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託すも、結局この年の秋に婚約は解消することになりました。
リリーへの愛の中で味わった喜びと不安、苦悩は、アウグステ・ルイーゼ・ツー・シュトルベルク(Auguste Louise zu Stolberg)に宛てて記された「しばしば異常な情熱をこめた」書簡、いわゆる「グストヒェンへの手紙」(Briefe an Gustgen)に吐露されています。
ヴァイマルへ
1775年11月(26歳)、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移居します。
当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどでした。
当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国でした。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭でした。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていました。
彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラント(クリストフ・マルティン・ヴィーラント/Christoph Martin Wieland/1733年–1813年/ドイツの詩人・翻訳家・作家。ゲーテやシラーなどと並びドイツの古典主義時代において重要かつ大きな影響力を持った人物)を息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていました。
26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんでいましだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていきました。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになりましたが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛でした。
ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマルに到着した数日後でした。彼女はヴァイマルの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいました。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書きました。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及びましだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となりました。
シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間となっています。
1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。
4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させています。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年(33歳)には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相(さいしょう)となりました(以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになります)。
政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興(しんこう: 物事が盛んになるようにすること)を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘(しょうへい)し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注ぎました。
イタリア紀行
1786年(37歳)、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立ちました。
もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地でした。
出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していました。
出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となりました。
ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年間イタリアに滞在しました。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流しました。
その間に友人の画家ティシュバイン(上記のゲーテの肖像を描いた)の案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞しました。
午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、1787年1月(37歳)には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めました。
また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳し、約30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を書いています。
1788年(39歳)にイタリア旅行から帰ったゲーテは、芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになりました。
ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテはがっかりします。
なお帰国してから2年後の1790年(41歳)に2度目のイタリア旅行にいく、幻滅して数ヶ月で帰国しています。
最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼みました。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻としました。
帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたもの。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになります。1789年(40歳)には彼女との間に長男アウグストも生まれていますが、ゲーテは1806年(47歳)まで彼女と籍を入れませんでした。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人。
フランス革命期
フランス革命に対しては、ゲーテは当初その自由を希求する精神に共感しましたが、その後革命自体が辿った無政府状態に対しては嫌悪を感じていました。
1792年7月(43歳)にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加しました。この戦いにおけるフランス革命軍の勝利に対し、
との言葉を残しています。
また、1793年5月に(43歳)は、フランスに占領されたマインツの包囲軍に従軍しています。
シラーとの交流
ゲーテとフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」)を代表する作家として並び称されていますが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはなりませんでした。
ゲーテは1788年(39歳)にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘していますが、その後1791年(42歳)にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていました。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていました。
だがその後1794年(45歳)のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていきました。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評しています。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになりました。
この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーでした。
ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年(47歳)に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させました。
1799年(50歳)にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まっていきました。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーでした。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っています。
1805年5月9日(55歳)、シラーは肺病のため若くして死去してしまいます。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送っていました。
周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったそうです。
実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっています。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死をもって終わるとされています。なお1794年(45歳)からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りあります。
晩年のゲーテ
1806年(57歳)、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻しました。
この際、酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働きましたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救いました。
ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めました。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれました。
また1808年(59歳)にナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯がエアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしています。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表しています。
晩年のゲーテは腎臓(じんぞう:血液をろ過し、尿をつくります。 そのほかには、からだの中の水分や血圧、体液のバランスなどを調節したり、生きていくために必要なホルモンなどをつくる臓器)を病み、1806年より頻繁にカールスバート(カルロヴィ・ヴァリ/チェコ・ボヘミア西部の都市。ドイツ語名のカールスバート(Karlsbad, Carlsbad)という呼称もよく知られる/人口は53,907人(2010年)/世界的に有名な温泉地 )に湯治に出かけるようになりました。
ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となりました。1806年(57歳)には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表されました。
1807年(58歳)にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれています。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行しています。1811年(62歳)『詩と真実』を刊行。1816年(67歳)、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に死去。
1817年(68歳)、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行』を刊行。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読していました。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)。
1821年(72歳)『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し、「諦念」の徳を説いています。またこの年、ゲーテはマリーエンバートの湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に最後の熱烈な恋をしていました。1823年(74歳)にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれました。
1828年10月23日(79歳)、ヨハン・ペーター・エッカーマン(Johann Peter Eckermann, 1792–1854:ドイツの詩人・作家/ゲーテの後半生に深い交流を行い、『ゲーテとの対話』を発表している)に対して、ドイツの統一と自由の交流を望んでいるが、政治的中央集権は望んでいないと語っています。続けて彼は、心臓では血流は強大だが、肢体では弱い、と中央集権を人体に譬え、隣国のフランスではパリから離れた所は殆ど発展していないが、ドイツの偉大な所は立派な国民文化が各地に均等に行き渡っているところであり、もしドレスデンやミュンヘンや、シュトゥットガルトやカッセルやブラウンシュヴァイク、ハノーファーといった都市が諸侯の居住地でなかったらば、もしフランクフルトやブレーメンやハンブルク、リューベックといった見事で大きな都市が大国の地方都市として併合されていたら、今日の姿と同様であるかは疑わしい、と述べています。
1830年10月(81歳)、息子アウグスト・フォン・ゲーテが、旅先のローマにて病没し先立たれる。
ゲーテは死の直前まで『ファウスト 第2部』完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその生涯を終えました。
「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉だと言われています。
墓はヴァイマル大公墓所(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっています。
自然科学者としての業績
ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残しています。20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパー・ラヴァーター(Johann Caspar Lavater) と親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年(35歳)にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見しています。
原型(Urform)
自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念でした。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていました。
1790年(41歳)に著した「植物変態論」(Metamorphosis of Plants)ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独: Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であると考えていました。
このような考えからゲーテはカール・フォン・リンネ(Carl von Linné /スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。「分類学の父」と称される)の分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われています。
またゲーテは20代半ばのころ、ヴァイマル公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいました。
なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテの名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられました。
晩年のゲーテは光学の研究に力を注ぎました。1810年(61歳)に発表された『色彩論』は20年をかけた大著でした。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判しています。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることはありませんでしたが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同していました。
ゲーテと音楽
ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けています。特に重要なのは『魔王』(Erlkönig)『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニュメート』などのフランツ・シューベルトによる歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲でした。
ゲーテ自身は曲が前面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好んでいなかったようですが、シューベルトの死後の1830年(81歳)に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めています。
ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば歌曲については民謡を理想とし、カール・フリードリヒ・ツェルターやヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトらの作曲を好んでいました。
他にゲーテが評価した音楽家としてはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)がおり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っています(エッカーマン『ゲーテとの対話』)。
モーツァルトに言及した多くの文章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉は有名です。
モーツァルトのゲーテ歌曲には『すみれ』(Das Veilchen)があり、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知りませんでした。
またゲーテはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)にも高い評価を与えていました。初めて『運命』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と書簡の中で書いていました。
ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『エグモント』やカンタータ『静かな海と楽しい航海』などゲーテの作品に曲をつけています。2人は1812年(63歳)にカールスバートの温泉地で対面しており、数日間交流するも、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌いました。ほかにゲーテと親交のあった作曲家にはフェリックス・メンデルスゾーン(1809–1847)がおり、序曲『静かな海と楽しい航海』などを作曲しています。
ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『ファウスト』であり、オペラだけでも50もの作品が作られています。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、エクトル・ベルリオーズの『ファウストの劫罰』(1846年)、シャルル・グノーのオペラ『ファウスト』(1859年)、アッリーゴ・ボーイトのオペラ『メフィストーフェレ』(1869年)、ロベルト・シューマンの『ファウストからの情景』(1844年-1859年)、フランツ・リスト の『ファウスト交響曲』(1857年-1880年)、グスタフ・マーラーの『交響曲第8番』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲。
この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『ミニョンのためのレクイエム』、トマのオペラ『ミニョン』、ブラームスの『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(アルト・ラプソディ)、マスネのオペラ『ウェルテル』、ヴォルフの『ゲーテの詩による歌曲集』、デュカスの『魔法使いの弟子』などがあります。特にオペラ化に関しては成功作がフランスに多い。
ゲーテの影響
ゲーテの晩年にはドイツでロマン派の文学が興隆(こうりゅう)し、その理論的支柱であったシュレーゲル兄弟(ドイツ初期ロマン派の思想家・文芸評論家・詩人・小説家のフリードリヒ・シュレーゲルと文学者・哲学者・文献学者であるアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル)をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを手本としました。
しかし晩年「世界文学」(World literature:世界の各国の国民文学のすべてと、作品をその生まれた国を超えてより広い世界の財産としようとする思想)を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取りました。ゲーテが死んだ翌年の1833年には、ドイツの詩人、文芸評論家、エッセイスト、ジャーナリストであるハインリヒ・ハイネがその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括しています。
また近代言語学の祖であり『グリム童話』の編者でもあるヤーコプ・グリム(1785–1863)が作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれています。
マルティン・ルター(1483–1546)によるドイツ語訳聖書によって大きく発展した現代ドイツ語がゲーテによって完成させられたと評されています。
ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けました。文学史上ではハイネやルートヴィヒ・ベルネ、青年ドイツ(三月前期(1830年 - 1850年ころ)に存在したドイツの青年作家グループ)の作家が彼の批判者たちです。もっともドイツの哲学者、経済学者、革命家、カール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていました。
ゲーテの名声は19世紀半ばごろ一時下火となりますが、1876年に発表されたヘルマン・グリムによる『ゲーテ』によって、その評価が確立しました。1885年にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっています。
20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、特にノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンは、ゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、後期作品にゲーテが登場する長編『ヴァイマルのロッテ』、範とした『ファウスト博士』を執筆しています。
シュトゥルム・ウント・ドラング
シュトゥルム・ウント・ドラング(独: Sturm und Drang)は、18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動。
この名称は、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・マクシミリアン・クリンガーが1776年に書いた同名の戯曲に由来しています。時期は、1767年から1785年までとする見方が多い。
古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、「理性に対する感情の優越」を主張し、後のロマン主義へとつながっていきます。代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)など。
日本でのシュトゥルム・ウント・ドラングは「疾風怒濤」と和訳されたために「嵐と大波」という意味で理解されることも多いようが、ドイツ語から直訳するならば「嵐と衝動」が正しい。
シュタイン夫人
シャルロッテ・アルベルティーネ・エルネスティーネ・フォン・シュタイン)(Charlotte Albertine Ernestine von Stein(Schardt) , 1742年12月25日 - 1827年1月6日)はドイツ・ヴァイマール公国のフォン・シュタイン男爵の妻であり、ヴァイマール時代のゲーテと親しかった人物。
彼女の存在は、ゲーテのほかシラー、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーなど同時代のヴァイマルの文人たちに大きな影響を与えました。彼女自身も文人として知られていていました。
生涯
彼女はヴァイマールの主馬頭(しゅめのかみ:貴族または枢密院顧問が就任し、王室の馬と猟犬に関する全般、厩舎・馬車・車庫・繁殖牧場・犬舎を管轄)、ヨハン・ヴィルヘルム・クリスティアン・フォン・シャルトとコンコルディア・エリーザベト・フォン・シャルトとの二番目の子供としてアイゼナハで生まれました。
幼少期から教育を受け16歳でヴァイマールの宮廷女官になり、ヴァイマールのアンナ・アマーリア公妃の元で働く。1764年にヴァイマールの主馬頭、ゴットロープ・エルンスト・ヨジーアス・フリードリヒ・フォン・シュタインと結婚し、シュタイン夫人となる。夫婦の間には三人の子どもが育ちました。
1775年(ゲーテ26歳、シュタイン夫人33歳)にドイツの文豪ゲーテがカール・アウグスト公の導きによりヴァイマールを訪れ、程なくして彼女を知ることになります。ゲーテはたちまち彼女の虜になり、シュタイン夫人と親密に交わるようになっていきました。
その熱心さは宮廷でも有名でした。高い教養を身について、それでいて誠実で繊細で誰からも好かれる性格の人物としてシュタイン夫人はゲーテには映っていました。ゲーテは多くの詩や手紙などを彼女に送り続けていました。シュタイン夫人との交流はゲーテを人間的にも成長させ、かつ文学的にはゲーテを古典主義へと導く重要な要素のひとつにもなっていきました。ゲーテからの熱心なアプローチは、ゲーテが突然イタリアへと旅立つ1786年まで11年近く続きました。一説にはゲーテのイタリアへの旅立ちのきっかけのひとつにシュタイン夫人との関係の煩わしさからの解放があったといわれています(*1)。
しかし、1788年(ゲーテ39歳)にゲーテがイタリアから帰ってきた後は二人の関係は冷ややかなものになっていました。ゲーテとシュタイン夫人の関係回復にはしばらく時間がかかりました。
またこの頃にヴァイマールを訪れてきた大詩人フリードリヒ・フォン・シラーを知り、シュタイン夫人はシラーの結婚にも一役を買っています。シラーからも彼女の人間性は賞賛された。
一方で1790年にはシュタイン夫人の父が、1793年には夫であるシュタイン男爵がそれぞれ死去するなど不幸が彼女を襲いました。相次ぐ死やゲーテとの関係解消などで当時孤立を感じていた彼女は1794年にその悲しみを悲劇「ディードー」(Dido)として書き下ろしました。晩年はゲーテとの共通の友人でもある詩人カール・ルートヴィヒ・クネーベルや医者で著述家のヨハン・ゲオルク・ツィマーマンなどと親しくなります。老年になり身体的に衰えたものの、知的関心は持ち続けていたという。1827年に84歳で死去。
シラー
ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー
Johann Christoph Friedrich von Schiller
1759年11月10日 - 1805年5月9日
ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者。初期の劇作品群はシュトゥルム・ウント・ドラング期に分類される。独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマ。青年時代には肉体的自由を、晩年には精神的自由をテーマとしていました。彼の求めた「自由」はドイツ国民の精神生活に大きな影響を与えました。
ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞で最もよく知られる。シラーの書く詩は、非常に精緻でありかつ優美であるといわれ、「ドイツ詩の手本」として今なおドイツの教育機関で教科書に掲載され、生徒らによって暗誦されています。
フリーメイソン
フリーメイソン(英: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に判然としない起源から起きた友愛結社。多様な形で全世界に存在し、会員数は600万人を超える。
会員のうち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属しています。日本グランドロッジ傘下の会員数は約1,500人、そのうち日本人は約250人。
この友愛結社(組合)は管轄上、独立したグランドロッジ(Grand Lodge)もしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄しています。
これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否し、境界を形成しています。
またフリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在してます。「お前、秘密を漏らしたら首を切るぞ」と脅かして口伝で秘技を伝えた実務的メイソンの時代は400年間続いていました。
ロータリークラブ、ライオンズクラブは、それぞれの創立者がフリーメイソンであり、フリーメーソンリーから派生したともいえる存在です。また、帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員フリーメイソンであり、西洋史に深い関わりをもっています。
フリーメイソンリーには「自由、平等、友愛、寛容、人道」の5つの基本理念があります。
ロマン派
ロマン主義(Romanticism)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった芸術運動。それまでの理性偏重、合理主義などに対し、感受性や主観に重きをおいた運動であり、古典主義と対をなす。恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進しました。のちに、その反動として写実主義・自然主義などをもたらした。
参照
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